二章 斬られて魔女と懇ろになること

 朝餉を終え、装束を整えたジャッケルは、その日のうちに都を発った。

 巡礼僧の黒衣に姿を変え、ひつを背負ってカチュワの大橋を渡り、スズネル州に出た。街道沿いでも人々は飢えていた。特に教会の零落振りが甚だしい。スズネルを領有するハルバル侯は、貴族領、聖界領の区別なく押領に奔走し、その姿はほとんど盗賊と変わらない。

(近いうちに、ここでも大きな合戦が起きる)

 ジャッケルは、荒れた農地を見回して思った。

 スレイの峠を越えノストリを抜け、シオンに入るまで四日。

 この時代、シオンのナニュンニ聖堂の門前には、兵法者ばかり集う宿ができていて、人々はそれを虎穴こけつ宿と呼んだ。

 各地の合戦に敗れた陣借り牢人や兵法自慢の雑人が、これ見よがしに野仕合を催して雇い主を集める。

 遠地に荷を運ぶ馬借や商人らが、腕前を見て彼らを護衛に傭うという。

 彼らは後の世に冒険者と呼ばれることになる人々の原型だが、この時代はまだ荒々しく凶暴なものだ。仕合に金を賭ける者あり、人死にが出ることもありで、シオン州を領するケントール伯の代官がしばしば禁札を出しているが、場所がナニュンニ聖堂の神域なため、禁令は徹底しないという。


(あすこも風紀が乱れているらしい)

 道中聞き集めた噂を思い出しながら海辺の道を辿り、聖堂を目指した。浜辺には貧し気な漁師小屋が並び、干された網が汐風に揺れている。その侘しさもまた一興と杖を突きながら歩いていくと、崩れかけた辻堂に行き当たった。

「待てい」

 突然、堂の格子扉が荒々しく開け放たれた。

「そこな巡礼」

「拙僧のことかな」

 見れば身の丈六尺を超え、顔中が髭だらけのむさ苦しい男だ。

「いずれの巡礼か知らぬが、身に不相応な太刀を佩いているな」

 意外と声が高い。よく見れば、髭の中の顔は意外に年若い。恐らく二十前後かとジャッケルは見当をつけた。

「それが如何いかがなされた」

「その太刀所望だ。置いて行け」

 大男は背に回した野太刀の柄に手をかけた。

「これは無体な」

 ジャッケルは慌て恐れる素振りをした。

「巡礼僧の腰刀は、邪を祓い煩悩を断つ降魔の剣。これなくば我らは生きてはいけぬ」

「虚仮を申すな、にわか巡礼が。その太刀、鞘に手擦れあり、責金を三つも嵌めておる」

 髭の大男が顎をしゃくった。

「汝、巡礼の成りをしておるが、ナニュンニの虎穴宿を頼らんとする兵法者であろう」

(こ奴、なかなかの目利きだな)

 ジャッケルは苦笑した。河原の小屋から持ち出した唯一の財産だ。無銘ながら二尺五寸の大業物で、巡礼には過ぎた得物とニドらに置いていくよう言われたが、そう言われると何となく愛着が沸いて半ば強引に佩いてきたのだ。

「兵法の者なら、討ってその太刀を奪っても物盗りにならぬ。大人しく置いて去るか、それとも立ち合うて血反吐を吐くか選べ」

 ジャッケルも段々と腹が立ってきた。が、表面は先程と変わらぬ態度でおどおどと腰を屈め、

「仕方ござらぬ。されば、敵わぬまでも一手御相手いたそう」

 杖を捨てて三歩後退った。


 大男が天秤棒でも担ぐように野太刀の柄を手前に傾けた。

「我はサツ州イスカナの産、バーン・マスタグだ」

「それがしは、スズネル州ハッタイのハンソンと申す」

 偽名を名乗ったジャッケルも柄に手を置く。

 そんまま横走りに辻堂の脇を出て、往還の中央に向かった。バーンも逃すまいとその後を追う。

「逃げるか、卑怯者」

 卑怯と罵られたジャッケルは、程よい所で足を停めた。道中笠を脱ぎ捨てると、

「えい」

 わざとらしく大声を上げて太刀を引き抜いた。浜の寒村とはいえナニュンニの往還に面している。往来する村人や旅の者たちが立ち止まった。

「斬り合いだ」

「危ないぞ、気をつけろ」

 松林の中に見物人が群がる。

「野仕合だ」

「仇討ちか、強盗か」

「可哀そうに。あの巡礼さん、斬られちまうぞ」

 わいわい立ち騒ぎ始めた。

「ええい、耳障りな。早々に勝負をつけてくれん」

 バーンは背の野太刀を引き抜いた。三尺を超す刀身が午後の日差しにぎらりと光る。おおうと見物人の間から声が起きた。

 その切っ先が、ジャッケルの胸元に襲いかかろうとする刹那、鋭い金属音がして、バーンの巨体が弾き飛ばされた。

「貴様、天狗か」

 なんとか体勢を立て直して、ジャッケルの胴を薙ごうとしたが、その長尺故に一瞬遅れた。ジャッケルの太刀の刃先が彼の額を真っ向から叩き割った。

 白い脳漿を撒き散らし、くぐもった声を上げて、大男は仰向けに倒れた。

 片膝ついて作法通り止めを刺したジャッケルは、周囲を見回して声を上げた。

くの如くだ。尋常な勝負故、往還の代官にも左様申し伝えよ。この者の得物と懐の物は置いていくので、埋葬の代とせよ」

 佩刀の血を拭って鞘に収めると、笠を拾って足早に去っていった。

 その背に人々は手を合わせ、経を唱えた。彼らには、ジャッケルの剣技がまさしく天狗の所業に見えたのであろう。


(街道沿いに追剥が出るとは、ナニュンニの治安は余程悪いものと察せられるな)

 ジャッケルは用心に用心を重ねてナニュンニ聖堂塔頭たっちゅうのひとつ、外坊の門前に宿を借りた。聖堂の境内に入る前に少しでも噂を集めようと思ったのだ。

 宿といってもただの薪割り小屋だ。それでも数人の相い客がいた。土間に粗末な炉が切られ、大鍋が架かっている。客たちは近所の農家で贖った山菜や、荷の中にあった雑穀を鍋の中に放り込み、得体の知れぬ雑炊を作る。

 その鍋を突つき合いながら、自己紹介し、旅の情報を交換するのだ。


 ジャッケルは、注意深く彼らを観察した。カワイドから山越えしてきた行商人、都に上がるエルフのこうじ職人、口寄せを生業なりわいとする老いた巫女。

 ジャッケルは、ナニュンニの聖堂を訪ねる旅の巡礼僧と自己紹介した。

「御僧、兵法者の真似など止めたが良いぞ」

 カワイドの行商人が、ジャッケルの太刀に目を遣りながら気易く話しかけてきた。

(こういう奴が、旅先では一番危ない)

 戦乱の巷を好んで旅する商人の中には、油断ならぬものが多い。彼らは少しでも金目の物があると知れば、言葉巧みに近づき、隙を見て強盗に変ずる。

「以前は兵法者の腕前も左程に差がなく、それなりに仲良う宿に暮らしていたがな。半年程前にえらく強い奴が来て、それからが大事おおごとよ。往来で一騎討ちをする。強いと見れば仲間と謀って闇討ちするわで、たちまち虎穴の頭に納まってしもうた」

 そ奴に敗れた兵法者が周囲に逃れ、食えなくなって野盗追剥と化した。近隣の百姓は大いに迷惑し、ケントール伯の城へ直訴に及ぶ者もいるという。


「成程、便壺を掻き回したせいで、蠅が四方に散ったということですな」

 ジャッケルの思慮を欠いた言葉に、一同が小さく笑った。

「今のところは聖堂の供僧を手懐けているから息をしていられるが、ケントール様の御下知があれば、虎穴宿もたまるまい。それがもう間近と見たから、俺は門前宿に泊まるのを避けてここまで足を伸ばしたのだ」

「左様か。かたじけない」

 ジャッケルは礼を言って、大鍋の雑炊を欠け碗に注いだ。

 行商人は、素っ気ない態度のジャッケルに興味を失ったらしく、隣のエルフと都の遊女噺を始めた。


「お若いの、本気でナニュンニの聖堂まで参るお積りかな」

 一人で雑炊を啜るジャッケルに、今度は老巫女が話しかけてきた。

「はい、左様で」

 老女の濁った眼がっとジャッケルの顔を覗き込んだ。

「何か」

「いや、とても兵法を生業にする者の目ではないと思ってのう」

「実は都のさる御方の御下知で、聖堂に代参する者でござる。刃傷の沙汰などとてもとても」

「それにしては奇態な。おぬしには血の臭いが立ち込めておる」

 ぎょっとして老巫女の顔を見た。

「姥殿、何を申される」

 ほうほうと巫女が歯の抜けた口を開いて笑った。

「これでも年季を積んだ巫女じゃ。それくらい判らいでか」

 手に持った椀の残り汁を飲み干した。

「よいよい、ナニュンニは旧き戦神、血を浴びてもには当たるまい。それにしても危うい」

「何がでござる」

「おぬし、闇に身を置いておるくせに、内に善を秘めておる。そのような生き方を続ける限り、この世に身の置き所を失うぞえ」

(なるほどのう)

 ジャッケルは僅かでも彼の心を揺らした老女の話術に感心した。勿体ぶっているが、要はよくある善悪二元論だ。こういう益体もないことを言って口に糊してきたのだろう。そんなジャッケルの内心を知ってか知らずか、老婆は続けた。

「妾もな、姿あって形無き者よ。こう見えてもこの姥は、若き頃、都の雀を鳴かせて広く名を知られておったものよ。どうじゃ、おぬし、この姥桜の枝に止まって鳴いてみるかえ」

 際どいことを言い出した。流石のジャッケルもこれには慌てた。

「尊き御方の御使いなれば、身を潔斎してござる。残念ながら、まずは御遠慮申し上げよう」

 ぼうぼうの体で老巫女の手を躱すと、小屋の片隅に逃げ、櫃を抱えて狸寝入りを決めた。


 未明、相い客たちが未だ眠りについているうちに、まだ風に冷たさの残る中をジャッケルは出立した。

 松明が必要な程に暗い早朝の道を、ジャッケルは平然と歩いていく。朝日が足許を照らす頃に、やっと深い森を抜けた。町境の関を潜ると、町は意外に小さい。草葺きの家々は軒が傾き、砂地の道には雑草が生い茂っている。

 それでも、北に上がると朝市が立ち、人で賑わっていた。ナニュンニ聖堂は杉林の彼方にあり、大塔と朱塗りの楼門がその威勢を示している。

(虎穴宿は一軒ではないようだな)

 道端の商人に尋ねても、皆一様に嫌な顔をして口をつぐむ。

 やむなく、聖堂門前の別当屋敷を訪ねた。宮廷の奏者番ギャン・モラヌス・ラミレスの紹介状を受け取った受付の社僧は、たちまち血相を変え、

「暫くお待ちを」

 奥へと駆け込んでいった。

 しばらく待たされた後、ジャッケルは奥の間に通されて、そこで聖堂の小別当アルサスに対面した。

 苦々しい面つきの小別当は、声を潜めて聖堂の供僧らの横暴を語った。

「近年、供僧ども、別当職の権威を軽んじて無頼の者どもを御神域に引き入れ、我らをおどすこと数度に及んでおる。この度も、僧房の味方を廻廊に招き、勝手な参籠を許している」

(どうやらわかってきた)

 ナニュンニ聖堂の別当職と供僧たちの対立は、もう百年以上も絶えることなく続いている。「虎穴」は、その争いに介入して兵法商売を保ってきたのだろう。

「その無頼の束ねとは」

「エクトル」

 小別当は吐き捨てるように名を告げた。

「その者を何とか仕置すればよろしいので」

「うむ。さすれば供僧どもの面目も潰れるであろう」

 その時、奥の引戸が開き、下男らしい老爺が顔を出した。

「小別当様、支度が整いまいた」

「そうか」

 小別当は膝を叩いてジャッケルに向き直った。

「これより別当様にお引き合わせする。くれぐれも礼を失するなかれ」

 老爺の案内で一旦玄関を出ると、築地の土門を抜けて庭に出た。軒の傾いた離れの縁側に、古風な燈明が一筋立っている。

「ここで別当様のお声がかかる。粗相無きように」

 ジャッケルは、縁先の沓脱ぎ石の前に座らされた。石の上には僧侶が履く木沓と端の擦り切れた竹草履が揃えられている。

(これは下郎に対する作法ではないか)

 聖堂の窮状を救うためにはるばる駆けつけたジャッケルは、僅かに顔色を変えたが、すぐに平静を取り戻して前を見つめた。


 やがて、静粛を促す奇妙な掛け声が響いた。

「御静か、御静か」

 縁側に座った小別当が目で合図をし、ジャッケルはゆっくりと平伏した。

 西日に煤けた障子が片側だけ開き、大柄な人影が現れた。無紋の羽織に皺だらけの袴。頭に角頭巾を被り、華奢な腰刀に紅の下緒。全体に茶人臭い恰好である。

「小別当から聞いた。素性を申せ」

 ジャッケルは作法通り黙っている。小別当が中腰になって向き直った。

「直答許す」

 ジャッケルが、ラミレスの被官と答えると、大柄な男はジャッケルの顔をまじまじと眺め、

「ふむ、余り強そうに見えぬの」

 詰まらなそうにぼそりとこぼした。

「汝を屋敷に招いたは、当院を悩ます無頼の成敗を画さんがためだ。地下の力を期待するぞ」

 それだけ言って、障子の桟に手を掛けると、そのまま部屋の中へ戻ってしまった。庭には、憮然と障子を睨むジャッケルが残された。


 小別当に案内されてジャッケルは庭を離れ、別棟の台所らしい場所に入った。

「酒など召されよ」

 朱塗りのひどく様子のいい酒器が回された。雑色が白木の樽を提げて入ってきて、ジャッケルの盃に注いだ。

「なかなかの上酒ですな」

 一口嘗めてジャッケルが呟いた。酒くらいで直る機嫌ではなかった。それを察してか、小別当がおもねる様に言った。

「別当殿は世情に疎いお方故に、情けない想いをさせた。上位の御方とは申せ、その無礼を詫びよう。済まぬことであった」

 頭を下げた。

「別当様はあれでも剛直なお方でな」

 供僧どもが兵法者を境内に入れた際に、撫で斬りにしてくれんと重代の太刀を手に駆け出すのを、皆で懸命になだめたという。

「別当様はそれ程の遣い手なので」

「別当様が巧みなのは笛と鼓よ」

 小別当は苦笑して自分も盃を傾けた。


「暫く我が宿坊で起居して策を練るがいい」

 肴の干し鮑を齧りながら、小別当が告げた。

「いや、仇を傍で見極めたい。並の信者と同じ扱いで結構でござる」

 社殿参拝と参籠の請状を願い出た。

「それ位なら何枚でも出してやるが」

 小別当は低い声で言った。

「ラミレス殿の文には、おぬしは知略優れたる者と書かれていた。何とか血を見ずに済ませたいものだが」

「小別当様、それは買い被りでござる」

 燭台の火を煙草に移しながらジャッケルが呟くように言った。

「それがし、方々ほうぼうで刃物の沙汰を潜って参りましたが、一つ悟ったことがございます」

 河原での苦い記憶が蘇った。血を流さずに収めようと越階おっかいな沙汰に及び、却って大勢が死んだ。

「案ずるより斬るが易しでござる」

「となると、矢張り無頼の頭目を斬るのか」

「それが最も手っ取り早い」

「まあそうじゃろうのう」

 面白くもなさそうに小別当が盃を嘗めた。



 別当屋敷を出たジャッケルは、その足で参拝を終え、廻廊に案内された。

 そこには許可を得た善男善女が蓆を敷いて寝起きしている。眠っている間に神慮を得る行為で、当時の教会ではよく見かける参籠の作法だった。

 食事時になると、社僧たちが白湯と薄い塩粥を配る。ジャッケルも柱の陰に居所を選び、僧の給仕を受けた。

 その晩、ジャッケルは「勝手に参籠している」というエクトルを目にした。

 無頼兵法者どもは、廻廊の外れ、格子門の脇に古びた屏風を立て回し、日のあるうちはその中で、数人の仲間とともに何やらごそごそやっている。

 やがて日が落ち、廻廊の吊り灯籠に灯が入ると、そ奴は一人のろのろと屏風の陰から出て、灯籠の灯を紙燭に移した。

(あれが兵法者の束ねか)

 齢は三十過ぎといったところか。頭は垂髪、髭は薄く、目は涼しげで鼻筋が通り、顎が頑丈に広がっていることを除けば、まず美形といっていいだろう。中背で肩幅広く、手足が長いのが異様だった。

(何処へ行く積りだ)

 光が格子門を抜けて外へ移動していくのを見て、ジャッケルは立ち上がった。

 エクトルの後を尾けて廻廊の外の石段を下り、杉の木立の中に入ると、光が立ち止まっている。

(何をしている)

 エクトルは適当な枝振りの杉を見極め、懐中から細引きを取り出して、落ちている枝木に結びつけた。それを枝に掛けて目の高さに吊るす。

(ふむ、一人打ちの稽古か)

 エクトルが小太刀程の棒で枝を打ち始めた。かつかつと枯木を打つ音が闇の中に響く。

 エクトルは中々の腕前のようだった。暗闇の中、どこに振れているかもわからぬ目標を正確に打ち叩いている。

(夜目に優れるゴブリンでもああは出来まい。流石は兵法者の束ねだ)

 ジャッケルは感心した。

 一刻程続けていただろうか、ふいに木を打つ音が止まった。雲間から月光が差し始めている。エクトルは棒を構えたまま長々と嘆息した。

 気配が変わったことを察し、ジャッケルは抜き足で廻廊へ戻った。


 次の晩も、同じ刻限になるとエクトルは杉林に出て、一人打ちをする。ジャッケルもまた、物陰からこれを見物した。

 四日目、ジャッケルはエクトルの動きを別の角度から見ようと先に起きだして、近くの大杉の幹によじ登った。

 エクトルはいつもの如く吊るした枯木を打ち重ねていたが、ふと動きを止めた。

(はて)

 そう訝しむ間もなく、エクトルが顔を樹上へ向け、

「そこな御仁」

 ジャッケルに呼びかけた。

「毎夜、我が一人稽古にお付き合いくだされ、恐縮にござる」

 思いの外丁寧な口調だった。

(隠形を見破られるとは不覚)

 ジャッケルは苦笑して木から降りた。

「失礼の段は重ねてお詫びいたそう。それがしも兵法を志す者、貴殿の御手技はためになり申した」

 星明りの下で深々と頭を下げた。

「西の廻廊にお泊りの巡礼殿だな。やはり御僧も兵法修行者か」

 エクトルもジャッケルの存在に気づいていたらしい。

「長の参籠とは想いは同じに見える。己れの兵法に行き詰まり、神慮を得んとの企みにござろう」

「左様にござる」

「巡礼殿もなかなかの御腕前と見た。こちらへ御座れ」

 二人は柴苔に腰を降ろした。


「それがしはスズネル州ハッタイのハンソン」

 ジャッケルが偽名を名乗ると、エクトルは、

「ミラン州ローラン郡の産、エクトルと申す。縁あってジグルス・ガイナード先生の教えを受け、八年の諸国巡りを経てこの地に参った者でござる」

「ほう、ガイナード様に」

 天下無双とその名を轟かせた剣聖だ。十年程前に他界したというから、エクトルは最晩年の弟子なのだろう。

「師亡き後、他に師事することもなく、廻国修行いたしていたが、技に行き詰まってこの地に参った次第。されどナニュンニの聖堂も安息の地に非ず。神領聖俗のいがみ合いに巻き込まれ、兵法者の争いに担ぎ出され、神慮の僥倖も見出せず、流されるまま今に至っておる。恥ずかしながら、どうしてこうなったか、どうすべきかと日夜悩みおるところでござる」

「道に行き詰まり、隘路に入り込んでしまわれたようでござるな」

 頷くジャッケルに、エクトルが訊いた。

「して御僧は何流を学ばれしか」

「名もなき雑人技でござる」

 兵部寮が手下の雑人地下人に教える剣は、剣術と呼べるほど洗練されていない戦場剣法だ。この品下がった剣法の初歩は、相手の攻め手を外すことにある。身を低く保ち、刀も上段に持ち上げることは滅多にしない。柄頭を胸の高さに保ち、剣尖は相手の首より上を狙う。腰を落とし、上体は前に押し出す。足は蟹股がにまた。初めジャッケルはこの格好悪さに閉口した。

「されば、互いに技を吟味してはどうか」

 エクトルが鬱気を振り払うように言った。

「面白うござるな」

 ジャッケルは立ち上がって手頃な枝を拾い、二人は広い場所に出た。



 エクトルは晩年の弟子とはいえ、ジグルス・ガイナードの教えを受けている。

(相手は自得の兵法行者だ。たいした腕ではあるまいが、何事か示唆を得られるかもしれぬ)

 それほど期待するわけでもなく、気軽に棒を構えた。

 間合いは三間。

 エクトルが上段に振りかぶると、正体不明の兵法巡礼は八双に構えた。

(すぐ守りに入ったか)

 エクトルは一歩進んだ。すると巡礼は得物の先を下げて横に開いた。

(先を躱して胴を打つ積りか)

 更に間合いを詰めると、相手も更に切っ先を下げた。

(この者、古神流の組太刀を使うか)

 僅かにエクトルは動揺した。だが、下から掬い上げて籠手を打つ技だが、今は間合いが近過ぎる。

(勝てる)

 エクトルは勢いを強め、巡礼の右籠手を狙って打ち込んだ。

 だが、その目標が瞬時に一間ほど下がった、有り得ぬことだった。

(面妖)

 エクトルの棒は空しく宙を切り、彼は踏鞴たたらを踏んだ。

 首筋に軽い衝撃が来て、巡礼の短い棒が彼のそこを押さえつけている。


「いかがかな」

「い、今一度」

 エクトルは跳び退がって、再び構え直した。

 今度は棒を高々と水平に構えた。甲冑武者の喉輪下を狙う戦場技である。

「きえっ」

 鋭い気合を入れて跳ね飛んだ。

 すると、またしても巡礼の身体が二間以上も引き下がった。

(この男、妖魔か)

 突き出した切っ先を潜り抜けるようにして、右腕の内を打たれた。

 棒が転がり、エクトルは地に片膝をついた。

「まだ続けられるかな」

「いや、参った。腕の差は歴然」

 エクトルはガイナード直伝の技を軽くいなされ、惨めな敗北感に打ち拉がれた。

「摩訶不思議な刀の技。しかも古神流の太刀まで心得ておられるとは」

「いや、先程も申した通り、これは自得の技でござるよ」

 巡礼僧ハンソンことジャッケルは穏やかに答えた。


(他愛もない)

 ジャッケルは田舎剣法の脆さに内心驚きを覚えた。

(このような者を誅殺せんと意気込んでここまで来たのか)

 腕試しに事寄せてあわよくば打ち殺そうと思っていた自分が莫迦らしくなってきた。

 だが、落ち込んだ度合いはエクトルのほうが強烈だったろう。しばらくその場に座り込んで何事か考え込んでいたようだが、ジャッケルに向き直って膝を揃えて両の手をついた。

「それがし、今までガイナール先生の剣を継ぐ者として、諸国に敵無しと増長してござったが、貴僧に打たれて目が覚め申した。今宵、御神領で出会うたのも旧神の御導き。この上は、是非ともそれがしを弟子に」

 今度はジャッケルが慌てた。だが同時に、この男の素直過ぎる態度に妙な雅気を感じ、同情心が沸いた。

「技なれば貴殿のほうが上でござるよ。要は立ち合いの心持次第」

 謙遜ではなく、ジャッケルは本気で言った。

「では、是非ともその心持の一手なりとも御教授を」

 エクトルが更に頭を下げた。真剣に可哀そうになってきたジャッケルは、ひとつ大きく息を吐いてから語りだした。

「貴殿はなまじ腕が立つ故に、拙者の籠手打ちの構えのような、思いもよらぬ小さなつまずきが大きな壁に見えて、身が竦んでしまわれるのだ」

 エクトルは、ジャッケルの言葉を一言も聞き漏らすまいと目を見開いている。

「刀術には位取りという言葉がござる」

 斬り合いでは相手より自分を位ひとつ高く持つ。すなわち自信を持つこと。それが第一歩、とジャッケルは説いた。

「位取りでござるか」

 エクトルは何度も頷いた。位取り自体は珍しい言葉ではない。兵法を志す者なら誰でも知っている言葉だ。

「深遠でござるな」

「他にも心得とてこういうことも」

 ジャッケルは更に細々とした心得をエクトルに教え、二人の対話は未明まで続けられた。


 そうこうするうちに、東の空が白み始めた。

(頃合いだな)

「それがしはこれより神域を去り申す。これより先は貴殿が己れで道を極められよ」

 別れの言葉を口にすると、そのままジャッケルは杉林を立ち去った。

(柄にもないことを得意気に口にしてしもうた。儂もまだ修業が足りぬ)

 地に額つけて平伏するエクトルの気配が妙にむず痒かった。


 廻廊に戻って朝寝を楽しんでいたジャッケルは、社僧に揺り起こされて別当屋敷に呼ばれた。何事ならんと訪れてみれば、満面に喜色を浮かべた小別当が諸手を広げて彼を迎えた。

「ジャッケル殿、流石でござるな」

(はて)

 何事かと訝しるジャッケルに小別当は続けた。

「無頼の束ねのエクトルが聖堂を去り申した」

「ほう」

「妙に晴れ晴れとした顔つきでこれまでの狼藉を謝し、駆けるように早々に立ち去ってござる」

「それは重畳」

 ようやく事情を呑み込めたジャッケルが、鷹揚に答えた。

「誅すべしなどと怖いことを言っておきながら、結局血の一筋も流すことなくあの乱妨者を片付けるとは、流石に知略の士でござるのう」

 感心したように小別当が腕を組んだ。

「聞けば、おぬしに何やら妙旨を得たと言っておった。いったい何を申されたのか」

「いやなに、道理を説いただけでござる」


 エクトルはその足で故郷に帰って修行を積み、やがて一流を樹てた。精妙な受け太刀を売りにしてそこそこに興隆し、後に高名な剣術家を幾人か輩出したが、彼自身は僻陬へきすうの道場主として一生を終えた。晩年、流派の由来を尋かれて、ナニュンニの聖堂に参籠の折り、天狗より教えを享けて開眼したと語ったという。


 そんなことを知る由もないジャッケルは、どうにも居心地が悪い思いで小別当の賛辞を聞いていた。

「これで、神域を蚕食する兵法者どもを追い出すことができる。供僧どもも大人しくなるであろう」

 喜々として小別当が言った。

「お待ちあれ、頭を討たれた野犬の群れが更に狂暴になる例もござる。油断は禁物」

「そういうものか」

 小別当がやや興醒めした顔をした。

「無頼の動向を確かめるに越したことはありますまい。暫く当屋敷に宿直して事の次第を見極めたく存ずる」

「まあ、おぬしほどの者がそう言うなら」

 納得しきれない顔で小別当が答えた。


 ジャッケルとしても、春とはいえ吹き曝しの板床に蓆掛けで寝るのに飽いて、まともな寝具で寝たかったのだろう。ただし居食いは外聞よろしからずということで、供僧や兵法者の動きが鎮まるまで、小別当の近侍として付き従うことになった。役職は太刀持ち。太刀といっても皇宮に上がる際に佩く形ばかりの飾り太刀で、刃物としての用を成さない玩具だ。古くは垂髪のわらべが持って従ったが、乱世のせいで、これが警護の者という意味に変わっている。中には随分な遣い手を雇う貴族もいて、宮中の雑談で自慢し合うという。


 ジャッケルは、案内の老爺に導かれて、離れの一室に荷を置いた。天井に水漏れの跡がある。薄暗い板間に低い薄縁、円座が二つと簡素ながら、掃除は行き届いている。

 暫くして、茶の束ね髪に赤い平紐を襷掛けした年若い小女が、平礼へいらい烏帽子に水干と括袴くくりはかま、小脇差と扇子を広蓋に乗せて運んできた。

「お召し替えなさいませ」

 袖を通したジャッケルに向かって小女が声をかけた。

「損料がかかります故、どうぞ汚さぬように」

 貸衣装なのだろう。しわい言葉に頭を下げたジャッケルに、小女がにこりと笑った。

「ナイリと申します。以後よろしうお願い申します」


「よいかな」

 小女が出ていくのと入れ違いに中年の男が入ってきた。小別当に紹介された雑掌のレイゲンだった。鼻が低く、出来損ないの餅のようなつらだが、唇ばかりが朱を引いたように赤い。

「いかがかな、むろの具合は」

 ジャッケルに訊いた。

「身に余る扱い、恐縮でござる」

 ジャッケルは膝に手を当てて、丁寧に礼を言った。ジャッケルに坐るよう手で促すと、自分も円座を引いて腰を下ろした。

「客僧を泊める部屋だが、どうにも御屋敷が広くて修繕が追いつかぬ有様でのう」

 レイゲンが済まさそうに唐紙を指さした。子供が引き裂いたような破れ目に、細く裂いた反故紙が張りつけられている。

「小別当様も苦労人でな。世間知らずの別当様に我らを憎む供僧ども、無頼の兵法者。ああ見えて心優しいお方故に、心労の種が尽きないのだ」

「はあ」

「おぬしが兵法者の束ねを手もなく片づけた件は聞いており申す。当分、当地に逗留されて、別当様、小別当様をお守り頂きたい」

 深々と頭を下げた。

「もとよりその積りでござる」

 特に頭を失った兵法者たちがどう動くかは細心の注意を要する。

「そうか、それは心強い」

 レイゲンは安心したようににっと笑った。


 釣られて笑顔を見せたジャッケルを心易く感じたのか、レイゲンが急に下卑た顔をした。

「ところで、先程の小女、なかなかでござろう」

 小鼻を膨らませた。

「はあ」

 都の美女びんじょを見慣れたジャッケルには、しかし十人並みの容貌にしか見えなかった。

「あれは数日前に雇った巡礼女よ。屋敷に人手が足りぬ故に雇った、というのは建前で」

 レイゲンが僅かに顔を寄せて声を低くした。

「たまたま境内で見掛けた別当様が気に入られてな。ほれ、眼の辺りに妙な色気があるでござろう」

 自分の目尻の辺りを指差した。

「そう言われてみれば」

 ふいに視線を外した小女の顔に、微かに艶なものが流れるのを感じた。

「別当様はあれで奥床しい方で、まだお手を付けておられぬが、いずれは別当様の隠し側女そばめになる。ジャッケル殿も、左様注意して御相手されたい」

「心得ました」

 お前のほうが余程危ない、ジャッケルは腹の底で呟いた。


 夕餉の膳を片付けると、ジャッケルはレイゲンと二人して、書院の小別当に呼ばれた。

「出かけるところがある」

 扇を閉じて小別当が告げた。

「行く先は門前の寄り合い場よ」

 軽々と立ち上がって歩き出した。


 幸い夜空は雲一つなかった。一行は勝手知ったる夜道を寄り合い場へ向かった。作法通りにレイゲンが左脇、その後ろをジャッケルが固めている。先頭に松明持ち、他に挟箱と傘持ちの白丁はくちょうが二人。

 門前町とはいっても小さな町だ。十町も歩かぬうちに寄り合い場に着いた。開いた土門を潜ると、松林が開けた。その中に、檜皮葺ひかわぶきの大きな屋敷が一つ、ぽつんと建っている。


(人数を伏せている)

 ジャッケルは、林の中の気配を数えた。三人一組の者が四組ばかり、闇の中で息を殺している。

(牢人ではなさそうだ)

 一組は屋敷の屋根に張り付いている。普通の牢人ならば、そんな場所で警護はしない。

(話に聞く猿客えんかくというものか)

 商家のために働く乱波の噂を聞いたことがある。都でもそのような者どもを飼う有徳人がいるという。

 小別当は松林の中の屋敷に入り、残りの者は玄関脇の粗末な待合小屋で待たされた。


「相手はどなたでござるか」

 出された渋茶を啜りながら、ジャッケルはレイゲンに尋いた。

「町講の顔役たちとの会合よ。月に一度、酒を飲んで、世間話をして終わりという、まあ顔合わせみたいなものでござる」

(なるほど)

 重要な案件を話し合うというより、供僧と兵法者という共通の敵を前にして、定期的に顔を合わせて互いに団結の確認と意思の疎通を計るのが目的なのだろう。


 ジャッケルの予想通り、小別当は小半刻もしないうちに出てきた。微かに酒臭が漂ったが、その顔は酔っていない。

「帰るぞ」

 小別当はそれだけ言うと、すたすたと歩きだした。ジャッケルたちも小走りで後を追う。それに合わせて林中の気配が動くのをジャッケルは背中で感じた。


 その気配も松林を抜けると絶え、五人は粗末な町家が建ち並ぶ間を進む。店の格子には戸が降り、隙間から淡い光が漏れている。その列を過ぎると、聖堂へと至る杉林に囲まれた道が長々と現れた。前方の道に光はない。

「なあ、太刀持ち殿」

 レイゲンがついと小別当の脇を離れた。

「貴殿のな」

 前方から視線を外さず小声で言った。ジャッケルから飾り太刀の袋を受け取り、

「腕前を見せてもらおう」


 ジャッケルの後ろを歩いていた傘持ちの白丁が事態を察し、足が停まりかける。先頭を行く松明持ちが及び腰になった。

「立ち止まらぬように」

 ジャッケルは小走りに前に出て、松明持ちから松明を受け取った。

 レイゲンが、ジャッケルの横に立って暗がりの道を睨んだ。冴えない見た目だが度胸はあるのだろう。


 待つまでもなく、杉の巨木の陰から人が三人現れた。

 暗夜の刺客はまず松明持ちを狙う。

 三人は定法通り灯火を持つジャッケルに迫った。だが、今夜は微行ということもあって、普通の松明より柄が長い馬乗り松明を用いている。

 刺客は足を停め、僅かに躊躇した。

「小別当のアルサスか」

 一人が問うた。暗殺者にとって、標的を取り違えることは何よりも恥辱になる。

 ジャッケルは無言で松明の柄を持ち上げた。三人とも鉢金を締めて黒い手拭で顔を隠している。

「うぬら、物盗りか」

「小別当のアルサスかと聞いている」

「だとしたらどうする」

「成敗」

 そう叫ぶと、ジャッケルが突き出す松明をさっと斬り上げた。斜めに裂かれた松明が高く飛んで濡れ葉に落ち、炎を巻き上げた。


 その時にはもうジャッケルは柄を捨てて一歩退いていた。素早く居合の形を取るや、身を縮めるように右の覆面に突進して素早く抜刀した。

 右の敵の胴に太刀が入った。身を接しての斬撃だ。胴がほとんど両断された。はらわたが路上に撒き散らされるより早く、ジャッケルの太刀先が真ん中の敵の喉を貫いていた。その時、

「ひっ」

 悲鳴が上がった。小別当の周りを囲んでいた白丁の一人が、堪え切れずに逃げ出したのだ。

 その声に、ジャッケルの刃先が僅かに迷った。

 不覚だった。

 左の敵は仲間を討たれ、気負い立っている。

「かっ」

 血を吐くような怒号を発し、ジャッケルの右へ片手打ちで斬り込んできた。

 脇を削がれると感じたジャッケルは、反射的に後ろへ仰け反る。

 敵の切っ先がジャッケルの胸元を薙いで袖を切り裂いた。

 ジャッケルは二歩下がると太刀を霞に構えて腰を落とした。そこに刺客の二の太刀が大上段から襲いかかる。

「きゃあっ」

 ジャッケルは女の悲鳴に似た奇声を発し、頭突きのような形で体ごと敵の刃を受け止めた。

 火花が飛び、鉄の焼ける臭いがした。路上に落ち葉が舞い上がり、二人の身体が重なる。


 刺客は僅かに動揺した。申し分ない勢いの打ち込みだった。だが、この貧相な下人はその打ち込みを根が張ったように易々と受け止め、ぐいぐいと押してくる。刀を引けばそのまま押し斬られる。押し返そうと力を込めたが、相手は岩のように動かない。このままでは押し倒される。


「まるで蛙の相撲のような」

 斬り合いを見ていた小別当がぼそりと呟いた。これが介者剣法の型なのだが、彼はそれを知らない。介者剣法では、先に転倒した側が負ける。故に、ジャッケルは物心ついたときから、兵部省の地下人として苛烈なまでの足腰の鍛錬を受けた。木剣を構え、足を大きく広げて重心を落とし、そのまま数刻もその姿勢を維持するのだ。こうして練り上げられた身体は戦場で決して崩れない。特に鍔迫り合いに持ち込むと、相手は押し込められて動く間もなく死ぬ。


「ま、待て」

 刺客が思わず声を上げた。だが、ジャッケルは押すのを止めない。ついに腰が砕けた刺客の右肩にざくりと刃が入り、鮮血が噴水のように飛んだ。それでもジャッケルは止めない。くぐもる悲鳴が止み、飛蝗ばったのように跳ねる下肢が動かなくなって、ようやくジャッケルは動きを止めて立ち上がった。振り向いた顔といわず衣装といわず、一面が朱に染まっている。レイゲンに気づいて口を開いた。

「大事ござらぬか」

「あ、ああ」

 気を取り直したレイゲンは、地に伏した刺客たちを見回すと、用心深く止めを刺していった。瀕死の敵が放った最後の一太刀を受けて死ぬ話は珍しくない。

 それから恐怖で震えている白丁の一人に、

「聖堂の番所に走って急ぎこのことを知らせよ」

 と命じてから、小別当の傍に寄ってささやいた。

「終わったようにございます」

「そうか」

 小別当は、路上で燻る松明と、倒した相手の袖で太刀を拭う姿のジャッケルを交互に見比べた。

「あの者の剣技はラミレス殿の文の通りであった」

「まことに」

「だが、手疵を負っている。レイゲン、手を貸してやれ」


 ジャッケルは、刀を鞘に納めると、身を屈めて自分が斬った相手の覆面を剥いだ。手拭の内側に、吐いた血がべっとり染み込んでいる。

 暗くてよくわからないが、若い男らしい。

「この者を御存知か」

 近寄ってきたレイゲンに訊いた。

「ああ、間違いない。エクトルの下にいた兵法者だ」



 駆けつけた番所の者に死骸を託し、一行は別当屋敷に辿り着いた。一足早く白丁の一人が駆け戻っていたため、門前に大勢が出張り、小別当が戻るやたちまち取り囲んで人の楯を作った。

 ジャッケルの働きも伝えられていて、傷の手当てをなさりませと別棟の使用人部屋に担ぎ込まれた。

 板敷の小部屋に薄縁と木枕が置かれている。

「まず横にならず、胡坐をかいて、枕を腰にお当てになって」

 下人が二人懸かりでジャッケルの血塗れの小袖を脱がせた。

 左肩から胸にかけて斜めに一太刀入っている。疵の長さは六寸ほどだが、小袖を脱がすと血の塊が剥がれ、鮮血が流れた。ジャッケルが触れてみると、肩の関節よりすこし下の辺りへ指がずぶりと入る。

「あ痛た、た」

 途端に激痛が走った。


「いつまでも怪我人を触ってないで、皆早う出ていかれませ」

 戸口から声がして、別当の隠し側女のナイリが慌ただしく入ってきた。

「生憎と薬師は朝まで来れませぬ故、妾が代わりに晒を巻きます」

 手にした茶瓢箪ひょうたんと白布を脇に置いた。

 瓢箪の栓を抜いて安酒を口に含み、疵に吹きかけた。

「ひいっ」

 思わずジャッケルは悲鳴を上げた。

「怖い人斬り殿にしては可愛らしく鳴きますこと」

 そう言いながら、ジャッケルの袴を脱がそうとしたが、血で紐が固まっている。やむなく小刀で切って外した。

「借りたその日に駄目にするとは、えらい出費でございますのう」

 ナイリは袴を切り裂くと、続いて手際よく晒を巻きつけていく。

 その直後、ジャッケルは気を失った。思いの外、出血が多かったのだろう。疵口は熱を持って腫れ上がり、刃が深く入ったところに血膿が溜まった。どうやら酒による初期消毒がうまくいかなかったようだ。


 三日間、ジャッケルは眠り続けた。その間、何者かが彼の上半身を起こして膿を抜き、体を拭き、撫で回し、新しい晒に取り換えた。それが別当屋敷のナイリなのか、町の薬師の手によるものかはわからない。


 雀の鳴き声がする。目を開けると、鎧窓の隙間が薄藍色に陰っている。枕元には小さな燭台が灯り、今が夜明け前なのか夕暮れ刻なのか見当もつかない。

 嗅覚が回復したようで、部屋の中には、膏薬と汗の臭いが漂っている。

(熱は下がったか)

 肩先から胸にかけて、新しい晒が巻かれている。

 暫く天井板を眺めていたが、ふいに気づいて辺りを見回した。

(刀はどこだ)

 頭上半間ほどの床に刀掛けが置かれている。

(あった)

 ようやく安堵の溜息を洩らし、ジャッケルはゆっくりと目を閉じた。

 その時、戸の向こうに人が立つ気配がした。

「ジャッケル様、入りますよ」

 ジャッケルが床で動く気配を察したのだろう、ゆっくりと戸が開いてナイリが入ってきた。

「まことに治りが早いこと。まるで蜥蜴とかげのよう」

 そう言って微笑みながら、ジャッケルの寝床ににじり寄った。

 晒の上から掌を乗せ、

「熱は取れたようでございますね」

 ナイリはジャッケルの上半身を起こすと、肩先の布を取った。

「まあ、少しも汚れてません。疵はすっかり塞がったようで」

 嬉しそうに声を上げた。

 ジャッケルの胸元は、全体に赤みを帯びてはいるが、疵口には薄く皮が張っていた。

(我ながらよく出来ている身体だ)

 一人感心するジャッケルを余所に、

「この膏薬はまことによく効きました」

 疵の周囲にこびりついた黒っぽい油染みを拭いだした。

「この薬か」

「陣中膏と申すそうで。この聖堂で商うておる金瘡薬です」

 ナイリは夢中でジャッケルの肌についた膏薬の汚れを取っている。

「御上臈、もう結構でござる」

「何を申される。あなた様が熱にうなされておる間、疵の手当はおろか、下帯の取り替えまでしました。身体の隅から隅まで知っておりますよ」

 ナイリはころころ笑って晒の端に自分の唾液をつけ、彼の身体を拭っていく。ふいにナイリの体臭が鼻孔をくすぐった。その香りが何故か脳裏に引っ掛かった。

「はて、御上臈、何処かでお会いしたことがござろうか」

「元はしがない教会詣での女、上臈とは恐れ多いことです」

 ふふと笑ってナイリは晒の端を口に含んだ。


 暫し互いに無言でいたが、沈黙にこらえきれなくなったのだろうか。

「雀が良い声で鳴いておりますこと」

 ナイリがぽつりと呟いた。

「雀が気になられるか」

「ええ、雀は好き。何やら健気でいじらしゅうて」

(待てよ)

 熱が下がり、停止していたジャッケルの思考力も少しずつ回復し始めている。

(この女、外の坊で相宿したおうなではないのか)

 あの折、口寄せの老巫女は、己れの枝に雀を止まらせて鳴かせたなどと怪しげなことを言っていた。しかも、己れのことを「形あって姿無き者」と。

(あれは、己れが化生と自ら正体を明かしていたのではあるまいか)


 そっとナイリの晒を持つ手を握った。

「痛うございましたか」

 女がジャッケルの口許に耳を寄せた。女の首筋から茴香ういきょうの匂いが立った。間違いない。

「外の坊の報謝宿では世話になった。儂の後を尾けておるようだが」

 何ぞ魂胆でもあるのかと問うてみた。

 ジャッケルのきつい言葉に、ナイリは怯えたように顔を強張らせ、ジャッケルの視線を避けるように顔を伏せた。小袖の肩が小さく震えている。

 しまった、これは己れの目算違いかとジャッケルは慌てた。

「いや、御上臈、これは悪いことを言った」

 謝ろうとするジャッケルの言葉を遮るように、女が顔を上げた。

「わっ」

 ジャッケルは思わず声を上げ、手を離して後退った。

 そこにいたのはナイリではなかった。暗褐色の肌、横に伸びた長耳、くすんだ銀髪、薄い唇、紅い瞳が嫣然とジャッケルの目を見ている。

「女の顔を見てそんな声を上げるのは失礼よ」

「ニド殿か」

 ギャン・モラヌス・ラミレスの一党に属するダークエルフの女だ。河原の一党との争いに割って入り、ジャッケルの命を救った女。

「流石ね。気づくとは思わなかったわ。あと、殿はやめて」

「儂を監視しておったか」

 いささかむっとした口調で言った。

「そう思われたのなら我が身の不徳、恐れ入るより他にございませんけど」

 ニドが手を伸ばしてジャッケルの疵を優しくなぞった。

「ラミレス様に蔭供かげともせよと命じられたのよ。危ないときは合力してやれって」

「まだ信を置けぬというわけか」

「違うわ。妾は介添え。だからこうやって付きっ切りで疵の手当をしていたのよ」

「待て、手当したのは町の薬師ではないのか」

「あの薬師は熱が下がらぬとどうにもならぬってとっとと匙を投げたわ。妾が一人であなた様の世話を」

「金瘡の心得があるのか」

「いいえ」

 相変わらず疵を撫でながら、ニドが答えた。

「ならば、どのように」

 ニドが顔を上げて、そっとジャッケルの耳許に口を寄せた。

「いまから見せてあげる」

 そっと囁いて、ジャッケルの耳朶を優しく噛んだ。この時代、耳を舐めるか噛む行為は口吸いと同じく交合の承諾や前戯を意味する。それに気づいたジャッケルは慌てた。

「待て」

 止める間もなく、ダークエルフの細い肢体がし掛かってきた。

 上気したニドの顔が妖しい微笑みを浮かべてジャッケルを見下ろしている。濡れた瞳がジャッケルの目を射貫いた。

「何を」

「どうやって手当したか、今から見せてあげる」

 小袖がするりと肩から落ちた。形のいい細やかな乳房が現れた。袴の緒を解くと、引き締まった腰をくねらせながら器用に脱ぎ捨てていく。

「房中か」

 ジャッケルもやっと察した。

 性交で男女の気を混合し恍惚のうちに操ることで、気を養って百病を払い長寿を約し、または気を衰えさせて命数を縮めることができるといわれる禁断の技法。教会によって邪法と定められ、外法、外道とされている。

 熱でうなされていた間、時折、何やら柔らかく温かくしなやかなものに包まれた記憶が蘇った。

 房中術は長く禁呪とされ、もうそんなものを使える者がいるはずがない。そう言ったジャッケルの口がニドの唇で塞がれた。

「だから、今から見せるって言ったわよね。何回も言わせないで」

「待て、やめよ」

 ジャッケルは狼狽えた。何故か力が入らず、ニドの細い身体を跳ね除けられない。

「斬られて怪我した人は、身体が治っても気が衰えるもの。それを支えるのがお酒だったり女だったり。でもお酒は疵に障るから」

 ジャッケルの体の上をニドの裸身が泳ぐ。

「いいのよ。何も考えず、妾のすることを見てるだけで。あ、見てるだけじゃなくて、何かしてもいいのよ」

 ジャッケルの鼻の頭をぺろりと舐めた。

「赤子みたいに泣かせてあげる」


 ことが終わって、ニドはジャッケルの胸に上体を預けて大きく息をいた。

「凄かったわ。まだひりひりしてる。やっぱり鍛えてる人は違うわねえ」

 それから晒を取って首筋の汗を拭った。

「結構な御手前でござった」

 ジャッケルはあまりのことに戸惑い、間の抜けた返事をした。

 ニドが肩を震わせてくすくす笑い出した。

(ダークエルフはその性淫蕩にして多情と聞いていたが、満更嘘でもなかったようだ)

「隠れ宿で会った時に、もうこうなるとわかってたわ」

 銀髪を掻き上げて、ジャッケルの素肌に頬を寄せた。

「儂は思ってもみなんだ。ラミレス殿の御寵愛とばかり思っておったからの」

「まさか、仕事に情は持ち込まない宗旨よ」

「儂とはよいのか」

「うふ」


 ニドは答えず、やにわに身を起こして紙巻に手を伸ばした。燭台の灯に顔を寄せて火を点けると、一口吸ってジャッケルの口に挟んだ。

「どう」

「うむ、味がしない」

「ならもう少し寝てたほうがいいわね」

 煙草皿を引き寄せながら、ニドが言った。

「このまま寝ておっていいものか」

「いいのよ、大働きしたのだから」

「皆は何をしているのだ」

 ニドがジャッケルに覆い被さるように横たわると、指を折って話し出した。

「えっとね、スウとシーゲルはミドラントの山奥に、クルキルはラミレス様の蔭護かげもり、アツマとシグルスは都に残ってあちこち物見してる筈よ」

「ミドラントに何の用があるのだ」

「さあ、ラミレス殿に聞かないとわからないわ」

「そのラミレス殿は」

「よく知らないけど、いろいろと悪巧みしてるみたい」

 ゆっくりと掌をジャッケルの胸に這わせた。

「どうやら、ライン大公自ら都入りされるそうだから、忙しいんじゃないかしら」

「それは知らなんだ」

「もう今頃は御手勢を率いて都の御屋敷に入られてる筈だわ」

「それでは、早く復命したほうがよくないのか」

「お前様が斬られた次の日に文を出したわ。返事が届くまで、のんびりしてていいのよ」

「ふむ」

 紙巻を煙草皿に押し消して、手をニドの肢体に回した。ダークエルフの薄い背が小さくぴくんと跳ねた。

「しかし、おぬしが変化とは思わなんだ。すっかり騙されたわ」

「あんなもの、所詮は子供騙しの手妻てづまよ。戦場では役に立たないわ」

 戦場は修羅の巷、人は心が煮えたぎっている。幻術などにのんびりかかってくれる暇人はいないとニドは言った。

「そういうものなのか」

「ええ、とってもか弱いのよ」

「抜かしおる」


 しばらくそうしていただろうか、やがて昼の九つを告げる鐘が聞こえた。

「いけない、時間だわ」

 名残惜しそうに身を離したニドは、素早く見繕いを済ますと、

「別当様直々の御差配で祭祀があるのよ。手伝いに行かなきゃ」

 身を屈めてジャッケルの鼻の頭をすいと舐め上げた。

「祭祀の御下がりがあるから、後でお口に入るものを持ってくるわね」

 ニドを見上げたジャッケルはぎくりとした。淫蕩なダークエルフの顔が消え、そこには別当屋敷の小女ナイリの澄まし顔があった。


 晒を持ってナイリが出ていくと、ジャッケルは再び寝床に転がった。しばらく、ダークエルフ娘の喜悦を込めた呻きやしなる褐色の裸身を反芻してにやにやしていると、突然、戸が開いてレイゲンが入ってきた。

「どうした、何か良いことでもあられたか」

 レイゲンが怪訝そうに訊いた。

「いや、なんでもござらん」

 にやけ顔を慌てて取り繕うと、上体を起こして胡坐をかいた。

「どうやら山を越えたようで」

「御心配をおかけ申した」

「いや、この度のこと、武勲一等でござるぞ」

 レイゲンも板敷に胡坐をかいた。

「兵法者どもに何か動きがございましたか」

「そのことよ」

 レイゲンが身を乗り出した。

「小別当様が襲われたことで、別当様もついに御決心なされた。代官を通じてケントール伯爵様に内密に文を送られてな。近いうちに、城の軍兵が押し出してきて不穏の輩どもを一掃するであろう」

「最初からそのようにすれば良かったのでは」

「そう言うな。小別当様の近侍が殺され、ようやく踏ん切りがついたのだ」

 ジャッケルの眉がぴくりと跳ねた。

「誰か落命したので」

 レイゲンが心の底から済まなさそうな顔をした。

「おぬしのことよ」

「はて」

「済まぬ、薬師がもう助かるまいなどと抜かしおった故、勇み足でそう文にしたためてしもうたのだ」

 床につきそうな勢いで頭を下げた。

「事が収まるまで、他行せず、この部屋でゆるりとしておいてくれい。この通りだ」

 レイゲンが両の掌を擦り合わせ始めた。

「ほんの数日、いや、三日か四日のうちには全て落着するによって、この通り」

「はあ」

 ジャッケルは胸許をぽりぽり掻きながら苦笑するしかなかった。


 その後もジャッケルは別当屋敷で寝たり起きたりの暮らしを続けた。その間、代官の手勢が神域に入り、供僧と兵法者どもを捕え、主だった供僧五人が放逐され、兵法者三人が辻で斬られた。

 供僧たちは作法通り僧衣を剥ぎ取られ、薦一枚被せられて追い出されたが、

「関門を出たところで何者かに取り押さえられ、何処いずこかに連れ去られたそうな。多くの人に恨まれておったから、まあこれは割りないことではあるが」

 すっかり気易い態度でレイゲンが教えてくれた。日に一度はジャッケルの部屋に酒を下げて長々と世間話する仲になっていて、今日も味噌屯食とんじきを肴に差し向かいで酒を飲んでいた。

「はあ」

 湯呑の濁酒を嘗めながらジャッケルが答えた。

「ならば、それがしも長居は無用でござるな」

「まだ、逃げ散った兵法者どもが潜んでおるやもしれぬ。もう何日かいたほうがいい」

「いや、役目を終えたならば長居は無用でござろう」

「そうか、残念だ。これからも小別当様をお助けして欲しかったのだが」

 心にも無いことを言う。

「そういえば、ナイリ殿はいかがなされた」

 途端にレイゲンの顔に好色な笑みが浮かんだ。

「ほう、手厚く手当されて情が湧かれたか」

「いや、世話になったので去る前に礼を言いたいが、昨日から屋敷でお見掛けせず、人に聞いても要領を得ず、いったいどうしたのかと」

「ああ、ナイリは屋敷を出ましたぞ」

「はて、別当様の側女になったのでは」

「それがの、この度の一件で別当様は何やら得度とくどなされた御様子にて、ここ数日、好きな音曲にも手を出さず、暇さえあれば読経三昧でござる」

 ナイリことニドが術をかけたのであろうとジャッケルは見当した。

「側女など以ての外、故郷に帰って女の幸せを掴むがよいと、長々と説教された末に、路銀を渡して早々に送り出してござるわい」

 そう言って屯食を嚥み下し、

「実はそれがしもかの小女には目を付けてござってな。ここを先途と袖を引いて口説いてみたが、物の見事に振られてしもうた」

 と照れくさそうに笑った。

「何処へ行くのか聞いておられるか」

「はて」

 訊かれて初めて気づいたようにレイゲンは首を捻った。

「ならば、かのの生国はどちらか御存知か」

「はて、そう言われれば聞いたことがござらんかったな。何処から来たのかすら定かでない不思議の女人にょにんでござった」

 レイゲンが小さく溜息して遠くを眺める目をした。この男なりに、彼女に好意を抱いていたのだろう。


 次の日の朝、ジャッケルは荷を畳み、小別当に礼を述べた。

「行かれるか。おぬしにはずっとここで働いてもらいたかった。惜しや」

 言葉と裏腹に、小別当の口調は少しも残念そうに聞こえなかった。それはそうだろう。死んだはずの人間に居座られては、何かと都合が悪い。

「それがしがいれば、またいらざる騒ぎを引き起こすやもしれず。ここは足を飛ばして消え去るが一番」

「そうか」

 あっさり引き下がった小別当は、脇机から銭袋を取り出して机に置いた。

「些少ながら、路銀のついえにされよ」

 手に取ってみると、ずしりと重い。

「かたじけのうござる」

「ラミレス殿に宜しゅう伝えられたい。我ら重ね重ね礼を申していたと」

「承知しました」


「さて、これからいかがするか」

 楼門を出て杉林を抜け、門前町に出たジャッケルは、からんと杖を捨てて大きく伸びをした。

 都に帰ってあの凶面の騎士に顎で使われるのも業腹だった。もう義理は果たしている。幸い目付け役のニドもいない。

「山賊になり、どこぞの峠で鬼と呼ばれて暮らすか」

 呟いて下品な顔で笑ってみたが、すぐやめた。それが出来るくらいなら、こんな所でこんな苦労をしていない。

「まあ、おいおい考えることにしよう」

 杖を拾い直してぽくぽくと突きながら大通りを歩き出した。ふと見ると、路上の道祖神の土台に、笠を被った歩き巫女が座っている。ジャッケルの姿を認めるや、立ち上がって小娘のようにぶんぶん手を振った。


「待ってたわよ」

 ニドが菅笠の前を上げてにんまり笑った。薄汚れてはいるが、由緒ありげな巫女装束をまとい、一尺程の短い腰刀を馬手に差し、胸元に紫絹の守り袋を吊るしている。

「短い夢であったか」

 満更でもない顔でジャッケルが零した。

「何の夢なの」

「山賊の頭になって黄金と上臈に囲まれて面白可笑しく過ごす夢よ」

 ダークエルフの紅い瞳がまじまじとジャッケルを見つめ、ふいにぷっと噴き出した。

「それはまた豪気な夢を見たのね」

「まあな」

 つられてジャッケルも笑顔を浮かべた。

「でも、その前に行くところがあるの」

「都に戻るのではないのか」

「一昨日、ラミレス様から文が届いたの」

「どこに行けと」

「ミドラントのタイル村」

 小麦色の肌をしたスウという娘とオークのシーゲルが向かった場所だ。

「二人に何かあったのか」

「そこまでは書かれてなかったわ。ただ二人を手伝えって」

「ふむ」

 ジャッケルは頭の中で道筋を思い浮かべた。ミドラント州は幾つもの山脈を挟んでちょうど反対側にある。

「ここからだとカッシャの東往還を行くことになる。山道になるぞ」

「なら、さっさと行きましょ」

 肩に掛けたおいを揺すって、ニドが器用に馬糞を避けながら跳ねるように歩き出した。

「おい、待て」

「早くしなさいよ、置いてくわよ」

 ニドがくるりと舞うように振り返ってジャッケルをかした。

「方向が逆だ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る