五章 闇夜に剣戟互いに打ち叩くこと

 この日の昼、ナルコ離宮は牙旗を掲げた。正式に天下に皇位の正統な継嗣アニーナ姫がここにいることを宣したのだ。同時に全国の諸侯に密使が放たれた。この離宮で、反セレネイア派の集結を待つ積りである。

「そのように都合よく行くものでござろうか」

 アツマがぼそりと呟いた。兵法修行者として諸国を巡ってきたこの男は、その武偏な風体に似合わず、冷徹な視点を持っている。

「いっそのこと、キタンまで姫をお連れ申し上げればよかったのだ」

 シーゲルが茶碗酒を呷りながら言った。

 彼らの主人ラミレスがライン大公の客分扱いなので、この離宮で彼らの地位は半ば宙に浮いたようになっている。そのせいで、離宮中が合戦の準備で忙しい中、彼らは集まって肩身狭く酒を嘗める以外にすることがない。

「キタンまで三百里近くござるぞ。各地の皇太后派の襲撃を躱しながらの道中は至難の業」

 シグルスが即座に否定して、胡瓜の味噌漬けを口に放り込んだ。

「馬も通れぬ山中を駆ければ」

 茶碗の濁り酒を眺めていたクルキルがぼそりと言った。

 だが、直後に自嘲したように短く小さく笑った。

「できるわけがない。あの姫君の脚では」


「いつまで」

 ジャッケルが椀を揺らしながら、口を開いた。

「いつまで籠っておればよいのでござろうか」

「ライン大公の手の者が秘かに買い付けていた米が土蔵に山をなしてござる。もともとこの宮は皇室備えの城として、普段より芋の茎を干し、食える水草などを育ててござる。今の倍の人数が籠っても、まず一年程の籠城にも堪えられよう」

 事情通のシグルスが言った。

「新帝フレイはチャトラスの里坊で酒色の歓待を受けながら、ライガ公とメイザー公の軍勢着到を待っておられる。両勢の着陣を待って、シダリ攻めに取り掛かる積りでござろう」

「あとはソラス子爵がどこまで皇帝方の軍勢を引き付けられるかでござるな」

「うむ、子爵とて剛の者、その居城シュトレイン城も古来の名城、そう易々と討たれることはないと思うが」


「それも、姫が物狂いのままでは水の泡でござるぞ」

 アツマが鯵の干物に手を伸ばした。昨夜のアニーナ姫の凄絶な美しさが瞼の裏に浮かび、ジャッケルは心のうちに恐怖を覚えた。

「ニドがうまくやるであろうよ。時間は掛かるやもしれぬがな」

 クルキルが椀の酒を嘗めながら言った。

「姫の毒はもう抜けたのか」

 シーゲルがクルキルに問うた。

「抜けた。目を醒まされた途端に暴れ出し、女官どもがようやくの態で抑え込んだと言うわいな。無論これは秘中の秘じゃ」

「危うい橋を渡っておるのう」

 シーゲルが紙巻をくわながら、宙を仰いだ。



 数日後、ジャッケルたち五人は御殿茶室裏の井戸脇に呼び出された。三日振りに会ったラミレスによると、姫との謁見があるという。五人は地下の身分であるため、広間での謁見は許されない。それ故に、庭掃除をしていた五人が、偶然、茶室に入ろうとする姫の目に止まった形を取ることになっている。

「それでは姫君は御本復なされたのでござるか」

「うむ、ニドとスウが力を尽くしてくれたおかげよ」

 ジャッケルはラミレスの目に安堵の色が浮かんだのを見つけ、

(この迦楼羅像のような面の男も人並みらしい神経が通っているのだ)

 そう思うと何故か可笑しかった。


 やがて、ニドとスウが取り澄ました顔で現れて縁側に腰を降ろした。揃って白い小袖に蘇芳すおう色の打掛を腰巻にした涼し気な女官の成りをしている。

「馬子にも衣装とはよう言うたもの」

 誰かがぼそりと呟き、五人の間から低い笑い声が起こった。

「なによ、好きでこんな格好してるわけじゃ」

 小声で不満を口にするスウの膝をニドが軽く叩いた。

「しっ」

 納得いかない顔でスウが黙り込む。

 ほとんど同時にラミレスが歩いてきて、ニドらとやや距離を取って坐った。

「もうすぐ姫様のお声がかかる。一寸たりとも無礼があってはならぬぞ」

 その言葉で、皆が慌てて居住まいを正した。離宮全体が戦支度の喧騒に包まれる中、この庭にだけ静寂な時間が流れた。


 ジャッケルは、ちらと視線を上げて縁側のニドを見やった。離宮に入って最初の夜以来逢っていなかった。ニドは紅い瞳を半眼に伏せ、行儀よく坐っている。その姿に思わず見入ったのは、やはりこの化生のダークエルフの娘に惚れているからだろうか。


 それからどれ程の刻が流れただろうか、二組の落ち着いた足音が廊下の奥から聞こえてきた。

 一同が揃えたように平伏した。少しずつ大きくなった足音が、ちょうど前まで来てぴたりと止んだ。

 頭上から声が聞こえる。

「姫様、この者らが姫様の玉体ぎょくたいを牢からお助け申したやからどもでござる」

 齢のいった男の、官人らしくない野太い声である。

(声の主はライン大公であろうか)

 ジャッケルはそう見当を付けた。

「皆の顔を見たくあります」

 夏の川風のような涼し気な声だった。

おもてを上げよ」

 作法通り首を上げて見上げると、確かに過ぐる日に衛山の土牢から救い出した娘がそこにいた。

 深雪みゆきのように透き通った艶やかな肌、輝く黒髪、やや丸みを帯びた細面に切れ長の眼、柔らかに筋の通った鼻梁、絶妙の美女とはまさしくこれであろう。眼元から妖しい影が失せて凄惨な色気が消え、どこか眩し気な尊さを感じさせた。


「皇宮では見苦しい姿を見せたと聞いています。その折は本当にありがとうございました」

 そう言って、沓石に足を下ろして木沓を履こうとした。

「姫様、その儀はお控えを」

 隣に控えていた絹の鎧下の老人が慌てて止めた。

(やはり、ライン大公か)

 強く止められて姫はすぐに諦め、

「身一つでここに来た故に、今は何も報いることあたわぬのを許してください」

「姫、それは道ならぬ者どもに軽々しきお振舞」

 老人が苦々しげな顔をした。そのままジャッケルらに顔を向けると、

「恩賞はいずれ弾む。有難く思え」

 と言い放った。

 姫は粗野な老人の振舞に興が失せたのだろうか。

「今は心からの感謝の念しか持ち合わせておりませぬ。これからも皇室のためにお力添えくださいませ」

 そう言って、一同が改めて平伏する中を茶室の方へ歩き去ってしまった。


 姫たちが見えなくなったのを見計らって、ラミレスが立ち上がり、

「これで終わりじゃ。各々、小屋へ戻っておれ」

 それだけ言って、すたすたと御殿の奥へと消えた。

「やれやれ、貴人を相手にするのは肩が凝るものよ」

「噂に違わぬ結構な美女びんじょでござったな」

「まるで節句の姫人形のようであったの」

 などと言い合いながら庭を後にする一同の後を歩いていたジャッケルが、ふと振り返ると、図らずも縁側のニドと視線が合った。ニドの紅い瞳が嬉し気に歪み、口許が微笑みの形を作った。二人の間で刻が止まった。

 どれ程の間、そうしていただろうか。

「おい、ジャッケル、参るぞ」

 シーゲルの声で、刻が再び動き出した。

「お、応」

 庭を去ろうとするジャッケルに向けて、ニドの唇が何事かを告げるように動いた。その言葉はしかし、宮中の喧騒に紛れてジャッケルの耳には届かなかった。


 ライン大公の予想を裏切って、皇帝軍の行動は素早かった。ナルコ離宮にアニーナ姫の旗が立ったという報せが入るや、フレイ帝はシダリのソラス子爵の本拠であるシュトレイン城の抑えに数千の兵を残し、主力を北上させてナルコ離宮に迫った。

「新帝は益体もない阿呆だが、智者が付いておるらしい。焦ってソラス殿の城を無理攻めして大火傷してくれればと思っておったが」

 ライン大公は、その報を聞いてせせら笑った。

「思い切った手を打ってきましたな。これで、シダリは皇宮の宿痾しゅくあとなりましょう」

 ラミレスが応じた。

元々シダリは皇太后セレネイアへの反感が強い土地である。事実、これ以降、シダリは反フレイ派が盛り返して草刈場と化すことになるが、まだ二人には知る由もないことである。

「それほどまでに姫が怖いのであろう」

 大公が大きく嘆息した。

「それで、我らへの合力はどれくらいだ」

「近隣の国人騎士たちが入城しておりますが、いかんせん数が少のうござる」

「諸侯からの援軍は」

「どこも息を潜めて見つめておる段階でござるな。申し訳程度の小勢を送ってくる家もござりますが、まあ、全て合わせても千程度」

「まあ、そんなところであろうな」

 別に失望する様子もなくライン大公は答えた。

「皇帝軍北上の報を聞き、我らの不利を悟って動かぬ家も出てきましょう」

「構わぬ、この離宮に籠っておるだけで我らに優位となる。あの旗が倒れぬ限りはな。後は、今まで打ってきた手がどれ程生きてくるかだ」

 そう言って翩翻とひるがえる牙旗を眺めた。


 北上を始めた皇帝軍であったが、その動きは緩慢であった。フレイは各地で接待を受けて酒宴を重ね、離宮を望むニースという名の小高い丘陵に皇帝旗が立ったのは、ようやく神無月の十日になってからだった。その数およそ二万余。

 皇帝軍は、この水城のような離宮に対し、まず少数の兵を正面に向けたが、城方は矢を放ち、たちまちにしてこれを撃退した。

 第二陣は、いまや皇室の重鎮となったルシウス大公の手勢である。ルシウス勢は、シダリ攻めのためにわざわざ本国から呼び寄せた精鋭を揃えている。

「前へ」

 大盾を三枚重ねて車をつけた「水牛」なるものを押し出し、時折、矢を放ちつつ畦道を進んだ。しかし、離宮の土塁脇に隠し狭間があり、側面から簡単に射ち倒された。

「流石は老練なライン大公」

 皇帝軍来襲までの間に、ライン大公とその家臣たちは、離宮を戦闘的な要塞に仕立て上げていた。

「これは遠巻きにして隙を窺うしかなかろう」

 すぐに皇帝軍は力攻めを止めて、包囲戦に入った。

 寄せ手は陣所の周囲に土塁を築き、時折、強弓自慢が矢を放つ。城方も心得たりと挨拶のように射ち返す。

 特に皇帝の陣所は、都から運んできた木材を用いて、豪奢な屋敷を建て始めた。軍夫や里人まで動員し、十五日で陣所は完成した。皇帝は、皇母のセレネイアが皇宮に帰ったのを良いことに、取り巻きの貴族や女どもを率いて陣所に入り、酒宴三昧を繰り広げた。



 ジャッケルら五人も物具を与えられ、後詰に組み込まれた。非番になると、ジャッケルは必ず土塁に上がって寄せ手を観察した。離宮を囲むように並ぶ土塁の列の後ろで、人々が皇帝のための屋敷の造営に忙しく働いている。寄せ手の兵が彼に気づき、時折、手を振ったりする。


「妙な戦よな」

 物見のために土塁を上がってきた主人ラミレスが声をかけた。

「これでは武功の立てようもござらぬ」

「さほどに手柄が立てたいか」

 ラミレスが苦笑した。

「まさか、このような愚かな戦など、さっさと終わって欲しいと思ったまで」

「ニドが姫の奥付きになってしまい、滅多に逢えぬからの」

「え」

 ぎくりとしてラミレスを見返した。

「それをどこで」

 今度はラミレスが驚いて、僅かに目を見開いた。

「姫を妖しの術からお救い申し上げたダークエルフの娘とお前が男女の仲であること、この離宮の者の半分は知っておるぞ」

 うまく隠していたと思っていたジャッケルにとって衝撃の事実だった。

「いや、まさか、そんな」

「ニドが非番で宿下ると、必ず二人で部屋に籠っておるではないか。あれで気づくなというのは、木石でも無理というもの」

「え、いや、それは」

 ジャッケルは俯いて頭を抱えた。

「よくぞあの化生をものにしたものよ」

 ラミレスは喉を鳴らし、再び寄せ手に視線を戻した。

「それにしても、いつまで続くのでござろうか」

 話題を変えようと、ジャッケルは水を向けた。

「ふむ、しばらくはこのままだが、いずれ」

 と言ったきり、厳しい顔でラミレスは口を閉ざした。


 危機感を感じていたのは、ラミレスだけではなかった。

「かほどに戦意無き城攻めは、他国への聞こえもいかばかりか」

 皇帝軍の主立った者たちは、軍議の席で鳩首して唸った。

 寄せ手の指揮官としては、将兵の士気の低下を最も嫌う。

 霜月に入り、ライガ公の所領アジル州で一揆が起こった。シダリのソラス子爵攻めのために、ライガ公は兵糧と人夫の過酷な徴発を行っていた。その不満が頂点に達しての蜂起である。一揆を鎮めるため、ライガ公は急ぎ帰国してしまった。

「ライガ公御帰国により、兵どもも浮足立っておる。何か手を打たねば」

 一同は知恵を絞った。絞った結果、次の日、大手の堀際に、一人のオークが立った。

「離宮の者に物申す」

「何者ならん」

 大手の櫓から声が返った。

「これなるは、メイザー公が配下、イスマスのハイロウ」

 ハイロウは具足の胴を外し、腰刀のみで太刀も帯びていない。

「包囲の陣中、退屈の極み。ひとつ余興を見せん。城方で腕自慢の者、ここに来て我と組め」

「応よ」

 櫓から再び声が上がった。

 やがて、虎口こぐちからオークが飛び出してきた。シーゲルだった。

「ハイロウとやら、まことに心憎い振舞かな。今そちらに参る。その首、引き千切ってくれよう」

 こちらも具足をつけていない。鎧下姿で腰に添え差し一腰だけである。

「それがし、ライン大公に同心するセインのシーゲル」

 切り崩した堀の中を首まで浸かり、対岸に渡った。そして、濡れそぼった姿のままハイロウの前に立つと、両手を拡げた。


「いざ、組まん」

「心得たり」

 互いに七尺を超える巨漢である。肉のぶつかる嫌な音が畔に響いた。次の瞬間、長々と手を伸ばしたハイロウがシーゲルの利き腕を取るや、逆手に捩じり上げる。たまらずシーゲルは引き倒された。

 瞬時のことであった。ハイロウはその巨漢に似合わず小具足術の達人らしい。

 シーゲルの体に馬乗りになった彼は、膝で利き腕の付け根を、左手で首筋を押さえつけた。

 やこれまでと城方から低い呻きが上がった。

 ハイロウは止めを刺さんと、刀の柄に手をかけた。だが、一尺六寸ほどの刀身の先が僅かに鞘に引っ掛かった。

 シーゲルはその隙を見逃さなかった。

 左手で右腰の刃渡り一尺の馬手差を抜くと、

「覚悟」

 下からハイロウの下腹部目がけて二度、三度と突き出した。

 白い帷子が朱に染まり、巨体が動かなくなった。

 返り血を浴びたシーゲルがその下から這い出すと、落ち着いた所作で相手の首を獲り、寄せ手の陣に向かって掲げた。

 寄せ手から落胆の声が上がり、離宮からは歓声が上がった。

 声が静まるのを待って、丁寧に首を胴の横に置くと、シーゲルは再び寄せ手に向き直った。

「この者を礼遇されよ」

 大声でそれだけ言うと、シーゲルは再び堀を渡って悠々と戻っていった。オークの言葉で、「勇者として葬れ」という意味であることを、ジャッケルは後で知った。


「まったく無茶をする」

 歓呼の声で迎えられたシーゲルに手拭いを差し出しながら、ジャッケルが言った。

「矢で射られたらどうする積りでござった」

「それは向こうも同じこと」

「それにしても無茶な」

 なおも言い立てようとしたジャッケルは、シーゲルの目に悲しみを見て言葉を詰まらせた。

「あの男は、我の遠縁の者でな」

 返り血と泥で汚れた帷子を破るように脱ぐと、ジャッケルの差し出した手拭いで首の辺りをごしごしと擦った。

「余人に討たれるよりはと思ったまでよ」

 悲し気に笑うと、そのまま奥へと歩いていった。ジャッケルには、広い筈の緑の背中が何故か小さく見えた。

 こうして両軍が対峙するうちに、神無月も過ぎた。


 対陣も霜月に入り、寒風が厳しくなりだした頃、ナルコの離宮から、連日のように小鼓や笛の音、歌声が聞こえるようになっていた。

「籠城中に宴とは。ライン大公も風流なことを」

 寄手の兵は、ライン大公の余裕綽々な振舞に呆れた。

 ルシウス大公も諸将を誘い、堀の近くに床几を据えて、小鼓の音を楽しんだ。

「あれはまさか、ライン大公の打つ鼓の音であろうか」

 ルシウス大公の問いに、奉公人衆一番組の頭であるジェストが答えた。

「まさか、ライン大公は生来の武骨者。音曲にはとんと興を催さぬ御仁にござる。あれは、アニーナ姫の無聊を慰めるためでござろう」

「ふむ、我に余裕ありと見せつけておるのだろうな」

 ルシウスは耳を澄まして盃を傾けた。

「兵糧など如何に工面しているのか」

「ライン大公は心得が良い御方、都で買い付けた米を大量に運び込んでいるようで。兵糧のみならず、鍛冶場の煙も上がっておるよしにござる」

「ううむ」

 ルシウスは腕を組んだ。ナルコ離宮の善戦振りは全国に伝わり、皇妃セレネイアや新帝フレイを快く思わぬ人々の間で賞賛の的になっていた。

 更に、ルシウスには頭の痛い事態が発生している。皇室に従っていた各地の諸侯らが、アニーナ姫に同心して叛乱を企み始めていた。帝畿でも、スズネルやヤシマでは在郷騎士どもが教会の衆徒と結んで一揆を起こす兆候が見え始めている。彼らも、ナルコを攻めあぐねる皇帝軍に、意外な脆さを見たのであろう。


 ルシウスは、包囲の陣立てを見回った後、皇帝の陣所に入った。

 十六になったばかりのフレイは、例によって酒を食らい、ルシウスに毒づいた。

「二万の兵をもって水溜りに浮かぶ小城一つ落とせぬとは、汝の武勇も口ほどにない」

「恐れ入ったる御言葉」

「汝どもに任せておけぬ。そろそろ余の出番か」

「あ、いや、待たれませ」

 ルシウスはふらつく腰を上げようとしたフレイを慌てて止めた。

(取り巻きの貴族どもに煽られたか)

 ルシウスは内心舌打ちした。

「離せ。余自ら一軍を率い、逆賊アニーナの素っ首を上げてくれる」

 半分が酒精でできているのではないかと思わせる皇帝の浮腫むくんだ体を黒貂の敷皮に押し付けるように坐らせた。

「手は打ってござる。陛下はここで戦捷をお待ちあれ」


 ようやくのことで皇帝を宥めたルシウスは、自分の陣所に帰るや、

「シュワンを呼べ」

 それだけ言って、自分の陣屋に入った。苛立たしく紙巻をくわえ、小姓に点けさせて大きく吸い込んだ。

 その時初めて、ルシウスは痩せた法体の男が目の前に平伏しているのに気づき、

「わっ」

 思わず盛大に噎せた。

「お呼びにより参上」

 平板な声でシュワンが告げた。

 この男、表向きはルシウス大公家の右筆ゆうひつということになっているが、実体はルシウス手飼いの乱波である。

 ようやく平静を取り戻したルシウスが問う。

「例のものは」

「三日後に二つ」

 シュワンは平伏したまま答えた。

「遅い、工匠たくみどもを急がせろ」

「何しろ口伝のみ頼りに作っております故、なかなかに目途が立たず」

「形だけでも良いのだ。陛下がむずかりだした」

「御言葉なれど、形だけでは用をなし申さず」

「わかった。銭は弾む。急げ」

 苛立たしく手を振った。

「心得ました。出来るだけ急がせましょう」

「うむ」

「それとな」

「は」

「入るときは、もそっとわかりやすく入れ。心の臓に悪い」

「はあ」

 シュワンが初めて納得しかねる顔をした。恐らく本人にはルシウスを驚かす気は無いのであろう。無意識に隠形を用いてしまうあたり、この男も化生である。

 シュワンは頭を傾げる素振りをしながら陣屋を出て行った。


 それから四日後の丑の刻頃、大手櫓の宿直の者どもの間で動揺が走った。陣前で何やら槌の音と大勢の人がざわつく音がする。それも一度や二度ではない。

「何事ならん」

「物怪であろうか」

 櫓の兵が立ち騒ぐ中、

「ええい、騒ぐな、持ち場を守れ」

 櫓を任された騎士が大声で皆を制した。

とびを呼べ」

 鳶と呼ばれたゴブリンの下人が上がってきた。

「わぬしは夜目が効くそうな」

「日頃から野鳥の目を喰ろうてござれば」

 鳥目の予防に鳥の目玉を喰うのが一番という同物同治思想が深く信じられていた時代である。

「あの音の正体を探れ」

 下人は大楯の間から身を乗り出し、闇に向かって一心に目を凝らした。

「はて、長材を使って何かを組み立てておるような」

「櫓でも組んでおるのか」

 高所から矢を射下ろすことで矢戦で優位に立とうとしているのかと騎士は危惧した。

「そうとも見えず、何やら縦横に組み合わせておるようでござります」

 要領の得ない答えに騎士は苛立った。だが、何かを企んでいるのは明白だ。

「篝火の薪を絶やすな、土塁の人数を増やせ」

 騎士は次々に下知を飛ばし、人々の動きが慌ただしくなった。


 やがて陽が昇りはじめ、城方にも正体が明らかになった。

 井楼の土台のように組み合わされた骨組みに、長い柱のような太木が釣り合いを取るように架けられている。一方は長く先端が杓子のようで、もう一方はひどく短く、大きな木の箱を備えている。

「あれは」

 櫓の騎士は呻いた。

飛砲ひほうではないか」

 二年前の兵乱で、ムウ大公軍が辻戦に使った投石機だ。西央国と交易していたムウ大公は、アドランド公の籠る屋敷を攻める際、西央国から呼んだ職工に小型の飛砲三基を作らせ、屋敷の櫓を撃ってこれを砕いたと伝えられている。それ以来、久しく絶えたと思われていたが、皇帝軍はどのような手を使ったか、その再現に成功したらしかった。


 明け五つになって、二基の飛砲は最初の投弾を行った。両軍の将兵が息詰めて見守る中、腕木の撓る音と奇妙な飛翔音とともに、人の頭程度の石弾が空に放物線を描いた。一弾は堀に落ちて水柱を上げ、もう一弾は土塁の斜面に落ちてごろごろと転がり落ちて、堀に波紋を作った。

 おおうという溜息が両軍で起こった。

 工人たちがわらわらと絡繰からくりに取り付き、箱の中の石を増やし、掛矢を使って向きを調整し始めた。

 二斉射目は、昼過ぎになってからだった。一弾は土塁に落ちたが、もう一弾は土塁を越えて離宮の庭に落ち、城方を驚かせた。わっと寄せ手から歓声が上がった。

 これに気を良くしたのか、三斉射目は半刻後だった。だが、これは二弾とも土塁の手前に落ちて寄せ手を嘆かせた。

 工人も面倒になったのだろう。それからはもう調整しようともせず、機械的に投射するようになった。ほぼ四半刻ごとに腕木が撓り、石弾が翔んだ。日が暮れて投射を止めるまでに発射された石弾は二十六発、そのうち土塁を越えたのは七発、離宮に与えた被害はほとんどなく、怪我人も出なかった。


 ジャッケルは相変わらず土塁に坐り、紙巻をくゆらせながらその様を見物していた。

「どうでござるか」

 シグルスが上がってきて隣に腰を降ろした。

「なかなか思うように飛ばぬものでござるな」

「それで二年前の兵乱の折も、ムウ大公はすぐ使うのを止めたそうな」

 詰まらなそうに言って紙巻をくわえた。

「確か櫓を打ち毀したと聞き及んでござったが」

「ああ、あれは石弾ではなく、弓勢ゆんぜいの火矢の手柄でござるよ」

 それがしもその場に居合わせておったとシグルスは笑った。

「成程のう」

「ただし、御殿の女どもは怯えてござるようで」

 そうであろう。滅多に当たらぬとわかっていても、当たれば死ぬ。怯えるなというほうが無理だ。

「連日続けば兵どもも動揺し始めるでござろうな」

 ジャッケルの言葉に、シグルスはにたりと笑った。

「それで今夜夜襲に決してござる。大手から押し出して、あの飛砲を燃やすそうな」

「罠ではござらぬのか」

 周囲に兵を伏せ、飛砲目がけて押し出した城方を押し包んで討つ積りではないのか。

「恐らく罠であろうな。上もそう考えてござる」

 シグルスは素っ気なく言って、煙を吐き出した。

「ならば何故に罠に飛び込む真似を」

「何も手を打たぬ訳には参らぬでござろう。拙速をもって飛砲を焼き、すぐに取って返す手筈。我らも後詰として虎口を固めることになってござるぞ」

「そううまくいくかどうか」

 紙巻を堆土に押し消しながら、ジャッケルは飛砲を睨んだ。 


 深夜、大手の虎口に城方の夜討勢が無言で蹲っていた。全員が徒歩かちで得物の刀身に煤を塗り、鎧の袖を縛っている。闇の中でも殺気が充満しているのが痛いほど感じられた。

「風が」

 誰かがぼそりと呟いた。

「吹き始める」

「天祐じゃ」

「うむ」

「かねて手筈通りに」

 アルデレスという名の騎士が背後を振り返った。ライン大公麾下の組頭の一人である。夜戦に備えて筋兜の前立てを外し、顔も黒々と墨で塗られている。

「用意はよいか」

 小声で訊いた。闇の向こうから頷く気配がする。

「行け」

 最初の十人ほどが音もなく走り出した。悪いことに今夜は雲一つない。全員が固唾を呑んで闇を睨んだ。飛砲までの距離はおよそ四町。

 やがて、闇の向こうから呼子の音が短く三度聞こえてきた。

先手さきては無事到着したようだな」

「うむ」

「では押し出すぞ。各々、ばいを含め」

 アルデレスの言葉を合図に、虎口のあちこちで、甲冑が擦れ合う音がした。

 道の両側を掻楯を持つ兵に守られながら、アルデレス勢三百はしずしずと進んだ。兵の多くが柴玉を担いでいる。雑草を刈って縄で縛った差し渡し四尺程の草玉で、これに荏胡麻えごま油をかけて火をつけるのだ。

 だが、やはりと言うべきか、彼らが半分も行かぬうちに、矢羽根の音とともに楯に幾つも矢が立った。途端に行き足が落ち、やがて止まった。

「やはり伏せておったか」

 だが、今更引き返す訳にもいかない。

「止まると狙い打ちぞ、足を止めるな」

 主だった者が声をかけた。だが、一度竦んだ足は動かない。やがて、楯の隙間を射通されて転倒する者が出た。

「何をしている、進め」

 そうしている間にも、倒れた者に次々に征矢が突き立った。



 夜討ちの勢が釘付けになっているのを、ジャッケルは虎口で後詰とともに瞬きもせずに見守っていた。

「弓だけではあるまい。いずれ打物も出てくるはず」

 ジャッケルが呻くように言った。

「このまま手を拱いておってよいものか」

 シーゲルが無念そうに闇を睨み据えた。

「ならばあの弓勢を叩くか」

 シグルスが答えた。三尺の大太刀を背に担ぎ、腰にも同じ長さの添差を差している。

「だが、どうやって」

 朱鞘の太刀を肩に乗せたアツマが訊いた。

「手はある」

 声に振り向くと、クルキルが柱の陰に蹲って闇を窺っている。

「東の弓勢が強い。風下の西側にはほとんどおらぬ。東側の弓を叩く」

 のそりと立ち上がって一同を見回し、

「皆も行かれるかな」

 と問うた。答えを待っているような口振りではなかった。ジャッケルら五人に続いて、十人ほどの兵が走り出た。


 ジャッケルらは堀の水を半ば泳いで渡ると、大手から離れたところで上がった。濡れそぼった体が冬の夜風に切り刻まれそうだった。一同はクルキルに倣って地に伏せ、兜の庇越しに敵方を睨んだ。

「あの畔に弓兵が伏せておる。数はおよそ三、四十」

 クルキルが指さした方向を見ると、確かに畔に隠れて盛んに弓を引く人影が幾つも見える。

「今から後ろに回る、音を立てるな」

 それだけ言うと、クルキルが這うように進み出した。慌てて皆がそれに続く。

 腰まで沈みそうな泥の中を這い泳ぐように進み、ようやく後ろに回り込んだ。射手たちはまだ気づいていない。息が上がり、胸の鼓動が喧しい。動きを止めて息を整えたかった。

「奴ら心得がいい。板楯を用意しているとは」

「火矢は使えぬのか」

「火を使ってはこちらが気取られる。もうすぐ打物の衆が奴らを一網打尽よ」

 畔から低い声が聞こえてくる。


「用意はいいか」

 クルキルが確かめるように小さくぼそりと言った。

 返事もせずに、シグルスが真っ先に駆け出した。利き手を左肩に回し、三尺の野太刀を引き抜いた。

「おい」

 クルキルの言葉はしかし、皆には聞こえなかった。

 慌ててシーゲルとアツマがシグルスの後を追い、ジャッケルも遅れじと長巻を構えて飛び出した。

 弓兵の一人が、シグルスに背を叩き斬られて悲鳴を上げて倒れた。何が起きたかわからぬままに次々に斬り込まれ、射手たちは混乱に陥った。

「敵じゃ、どこだ」

「慌てるな、戦え」

 混乱する敵兵の間を五人は次々に斬り進んでいく。

 何人斬っただろうか、畔を進むジャッケルは、目の前の敵が弓を構えているのを見た。間に合わない。思わず体を低く構える。弦の音とほとんど同時に、鉄同士を叩きつけた音と衝撃、目に火花が走った。構わず踏み込んで、弓ごと袈裟に斬り上げた。が、そこで眩暈めまいに襲われ、思わず膝をついた。


 それほど時間もかけずに、畔上の襲撃は終わった。

「大丈夫でござるか」

 血に濡れた太刀を提げてアツマが歩み寄ってきた。

「ああ」

 坐り込んだままアツマを見上げた。

 兜を脱ぐと、星兜の天頂近くが大きく凹み、僅かに削れている。

「焼きの良うない鏃で助かったの」

 シーゲルが二間柄の鉄撮棒かなさいぼうを乗せた肩を揺すって安心したように笑った。恐らくそれだけではあるまい。咄嗟に身を屈めたことで、斜めに入った鏃が兜に弾かれたのだ。

「敵は」

 兜を被り直してジャッケルが尋いた。

「三人ほど逃がした。まあ、大事ござらん」

 シグルスが足をかけて曲がった刀身を直しながら答えた。

「そいつらは儂が討ち取った」

 一同が声のする方を向くと、闇から浮かび上がるようにクルキルが現れた。

「こちらの手疵は」

 ジャッケルが立ち上がりながら、皆を見回した。

「どうやら一番の深手は儂のようじゃの」

「その程度では、手負い注文に載るのは難しいでござろうな」

 アツマの言葉に、皆がほっとしたように笑顔を浮かべた。返り血を浴びた笑顔というのも、なかなかの凄味があった。


 弓の側射が止んだことで、夜討勢は声を励まし足を早めて飛砲に取り付いた。担いでいた柴玉を次々に積み上げて火を放つ。飛砲がたちまち炎上し、離宮から歓声が上がった。

 だが、城方の勝利もここまでだった。四方から鯨波が沸き上がり、ざっと矢が降り注いだ。

 巨大な松明と化した飛砲を背にしたアルデレス勢は格好の標的となり、次々と打ち倒されていく。直後に、遠巻きに伏せていたらしい寄せ手の兵が雲霞うんかのように一斉に殺到した。夜討の兵たちはたまらず引き始めた。

「敵は下がるぞ、生かして帰すな。堀際で討ち取れ」

 寄せ手の中から声がする。

 城方も黙っていない。

「やはり罠であったか」

「それ、アルデレス殿の兵を助けよ」

 虎口から後詰の兵が続々と押し出し、たちまち狭い畦道は敵味方が入り乱れる修羅場となった。

 畦道から飛び降りた者同士が泥に埋まりながらも懸命に斬り合い、槍を合わせている。互いに喚き走って太刀で具足の板物を叩き合い、最早首を獲る暇もない。むしろ下手に首を獲らぬが分別。組み合って上になった者は下から刺され、うまく敵の背に乗って首に手をかけた者も、後ろから首を獲られる。


 ジャッケルらもこの乱戦に巻き込まれた。

 アツマがどこで拾ったのか、物見槍で敵のオークの喉輪の隙間を突き刺した。

 大柄な武者が四尺近い化け物のような大太刀を振るって味方を斬り払っている。シーゲルが小走りに近寄るや、有無もなく鉄棒を振り下ろした。兜を微塵に砕かれた敵は、血潮を吹いて深田の中に薙ぎ倒され、そのままずぶずぶと泥に沈んで息絶えた。

御首級みしるしを」

 走り出てきた下人のエルフが声をかけたが、

「獲るに及ばず」

 次の敵を探して大股に歩き去ろうとした。その時、

「近づくな。あの緑肌を射すくめよ」

 声とともに弦音がして次々に矢が飛来し、具足の肩といわず胴といわず征矢が立つ。シーゲルはたちまち雨夜に蓑を着たようになった。

 ジャッケルも、一人二人と斬るうちに、長巻の刃もささらの如くなって使い物にならなくなった。これを捨てて愛用の太刀を抜くも、それもまた敵のゴブリンの胴を薙いだときに物打ちから折れて捨てた。止む無く足許の死体の徒槍かちやりを拾って敵を叩いた。


 飛砲を巡る夜間戦闘は、血みどろの混戦を経て、払暁とともに潮が引くように急速に終息した。お互いに疲労の極に達したのである。両軍は、負傷兵を収容しながら示し合わせたように自陣に戻った。後には焼け落ちた飛砲と夥しい死者が残された。

「お前様」

 半分千切れた大袖をぶら下げ、兜の天辺から爪先まで泥人形のような格好でよたよた歩いていたジャッケルは、声をかけられて目を上げた。本柱の傍にニドが立っていた。

「御無事で」

 打掛を翻しながら駆け寄ると、取り縋るような眼がジャッケルを見上げた。

「おう、無事よ。心配をかけたか」

 杖にした槍を立てかけ、錣の取れた兜を忌々し気に脱ぎ捨てると、血と泥で汚れた顔に苦労して笑みを浮かべた。

「かけたかではございませぬ」

 ニドはむっとしてみせたが、すぐに泣き笑いの表情になった。

「お怪我は」

「うむ、掠り疵だ。心配はいらぬ」

「まことに、まことに」

 言葉を続けようとしたニドの紅い瞳から、一筋涙が落ちた。

 ジャッケルは手の泥を草摺で拭ってその頭を優しく撫でた。


「よう、御両人、風流なことよな」

 声のほうに顔を向けると、シーゲルがにやけた顔でこちらを見ている。

 ニドが顔を赤くして、慌てて袖で涙をごしごし拭った。

 シーゲルを見ると、鎧の肩や胴、草摺に何本も矢が立っている。

「大丈夫でござるか」

 目を丸くして訊いた。シーゲルは自慢げに笑い、

さねの鍛え良き腹巻なれば、身に通ったは僅か三筋、それも下の鎖に止められて肉に喰い込んだものは無いわい」

 大威張りで胸を張った。

「それはようござったな」

「うむ、他の者は無事であろうか」

「クルキルはさっさと帰って参りました。シグルスは首三つ、アツマは二つ腰に提げて軍奉行の許へ。三人とも目立った疵はござらぬ様子」

 ニドがすらすらと答えた。

「あの乱戦の中で首を持ち帰るとは豪気なものよ」

 感心したように頷くと、

「さて、鎧を解いて飯でも喰うか」

 呟くように言って、軽く手を振ると、奥へ歩き去っていった。

「では儂も」

 兜を拾ってシーゲルの後を追おうとしたジャッケルの鎖籠手をニドが握り締めた。

「どうした」

「妾が鎧解きを手伝って差し上げまする」

「いや、一人でできる」

「なりませぬ。妾が手伝います」

 紅い瞳が睨むように凝っと見つめている。その静かな迫力に思わず、

「お、おう、手伝ってもらおう」

 声が上擦った。

「その後で水浴みなされませ」

「うむ」

「その後で」

「まだ何かあるのか」

「妾が疵を数えて差し上げます。二人っきりで」

「え」

「え、ではございませぬ」

 見上げるダークエルフの顔がにこりと笑った。


 ようやく戦の片づけの目途が立った昼過ぎ、ジャッケルたち七人はラミレスに呼ばれて奥御殿の出入口に立っていた。普段はアニーナ姫の世話をする奥付きの女官しか入れない場所だ。目の前に幅の広い武張った階段がある。介者の敵の斬り込みに備えて三段に構えられ、一段が一尺半はある。おなごは着物の前が割れて、なかなかに上がりにくいであろう。

 やがて、若い丸顔の女官が現れた。恐らく都から呼んだ貧乏貴族の娘あたりだろうか。動作の端々にどこか気品が感じられた。

「ラミレス殿より案内あないを言い付かっております。どうぞ中へ」

 一礼して中へ誘った。

 曲がりくねった廊下を抜け、一同は小さな部屋に通された。部屋住みの女官のための房の一つであろう。質素ながら、どこか軽薄な明るさが感じられた。掃除されているが、誰かが住んでいる臭いがない。ライン大公は、姫を離宮に迎えるにおいて都から礼儀作法の心得がある上品じょうほんの女人を募って招き入れていたが、その数は十分というには程遠い。

 一同が思い思いの場所に座を定めて座り込んでいると、案内してくれた女官が茶を運んできた。

 たどたどしい手つきで台子を皆の前に置き、

「どうぞごゆっくり」

 舌足らずな物言いをして奥へ去った。


 他にすることもないので、皆は台子の茶を取った。シグルスが慣れた所作で飲み干した。元は奉公衆だった彼にとって、この程度の礼儀は普通のことだが、アツマは驚いたらしく、

「茶の道は武の道にも通じると申すが、成程、成程」

 と一人感心したふうに唸った。

「なんの、こんなものは胃のに落としてしまえば、どう飲んでも同じでござる」

 そう言ってシグルスは茶碗を台子に戻した。

「苦い。甘いものが欲しくなってきたな」

 シーゲルがぼそりと呟き、皆がなく笑った。まだ昨夜の心労が抜けきっていないのであろう。


 淀んだ空気に耐え切れなくなったのか、シグルスが障子窓を開けた。外は中庭になっていて、餅のような形の二抱えありそうな岩が置かれている。

「あれは要石でござる」

 誰に言うともなくシグルスが話し出した。

「例の龍脈を押えている石でござるか」

 アツマが庭に目をやりながら訊いた。

「左様。要石鳴動すれば地震ないふると申す。また、鯰は龍脈の動きに感ずること、両の手を打つごとしといい、この辺りの百姓は鯰を神使と思い、不作の時もこれを食わぬとか」

「阿呆らしいことでござるな」

「石を囲むように奥座敷を建てたのも、女性にょしょうを巫女に見立てて結界を張ったのでござろうな。何しろ地震ないの神は男神でござる故」

 そう言って下世話な笑顔を浮かべた。


 その時、案内の女官が再び現れた。

「ラミレス殿がお呼びです。こちらへ」

 通されたのは一間廊下の突き当り、ざっと二十数畳の部屋だった。金屏風があり、仕切り障子もついていて、見るからに威張った風情だった。

 その中央に置かれた離宮の見取図を前にして、小具足姿のラミレスが胡坐をかいて紙巻をくゆらせていた。

 少し離れてニドとスウが澄まし顔で坐っている。

 一同を認めたラミレスが、軽く顎をしゃくった。一同が無言で見取り図を囲んで腰を降ろした。

 ちらとニドに目を向けた。不覚にも今朝方味わった女陰の蠕動ぜんどうが蘇った。思わず口角が上がって小さく笑いの形を作った。ジャッケルの視線に気づいたニドが微かに微笑んだ。だが、その表情は何故か硬い。

 何か引っかかるものを感じたジャッケルは、ふいにぎくりとして目を向けた。ラミレスとニドとスウの上座の方向へ。

 そこには仕切り障子が立っていて、紫の紗が下りている。その向こう、次の間に人の気配がある。

 皆もそれに気づいたようだ。窺うようにちらりと目を動かし、それから僅かに体の向きを変えた。


 一同のすずろな態度に気づいているのかいないのか、ラミレスが全員の顔を見回して、

「お前たちには、この離宮を落ちてもらう」

 単刀直入に告げた。

 全員が怪訝な顔をした。いつも無表情なクルキルでさえ僅かに目を細めた。

 ニドとスウだけが鉄面皮で押し黙っている。

「どういうことでござるか」

 アツマが紙巻を取り出しながら口を開いた。

「昨夜の戦の騒ぎに紛れて、放っていた間者が帰ってきた」

 見取り図の南の隅を扇子で軽く叩いた。その方向に都がある。

「皇軍は土俵つちだわらを大量に作っておる」

「田を埋めて足場を固める積りでござるな」

 シグルスが紫煙を吐きながら訊いた。

しかり。雑人下人に百姓、浮浪まで搔き集めて山のように作っておるそうな。日を置かずに敵は総掛かりに攻めてくる」

「それと我らがここを落ちるのと、どのような関りがあるのでござるか」

 シーゲルの問いに、短くなった紙巻を煙草皿で押し消して、ラミレスは平然と、

「昨夜の合戦で死人怪我人が二百。力攻めを繰り返されれば、いずれこの離宮は陥ちる。その前に、やんごと無き御方を落とし奉る。お前たちはその護衛だ」

 この離宮にやんごと無き御方といえば、アニーナ姫以外に誰もいない。一味に微かに動揺が走った。


「落とすと言っても何処へ」

「キタンだ。ライン大公の嫡男グイナード様が、軍を率いてナタニとの州境を固めている。そこまでお連れせよ」

「キタンまで三百里でござるが」

「道筋は任せる。必ずキタンまで送り届けよ」

 横に置いた行李の蓋を開け、袋を掴み出してそれぞれの前に放った。

「これは」

「前恩賞じゃ。受け取れ」

 取り上げてその重さに驚いた。振るとざらりと黄金こがねの音がする。

「どういう意味でござる」

 ジャッケルが不審げな顔で尋いた。

「儂はここに残る。お前たちが首尾良く事をし終えても褒美を渡せるとは限らぬ」

「共に落ちられぬので」

「儂は飾り騎士ぞ。お前たちの足に」

 尾いて行ける訳がなかろうと片頬を歪ませた。

「首尾よく事を果たし終えれば一党のえにしを解く。各々、この金を元手にして好きに生きよ」

 もう一度、ラミレスが慣れない笑みを浮かべて一同を見回した。

「さて、料簡したか」

 誰も答えないのを確かめると、ラミレスはスウに向かって顎をしゃくった。

 スウが小さく頷き、立ち上がって仕切り障子に手をかけた。

「控えよ」

 ラミレスが姿勢を正し、皆が慌ててそれに倣った。

 仕切り障子の間から、すっと人影が現れた。

「また皆に世話になります」

 都で「雪白の君」とその美貌を謳われたアニーナ姫がそこにいた。


 その夜、ジャッケルら七人は姫を連れて離宮北東の土塁を抜けた。見送りはラミレスを除けばライン大公と僅かな側近のみ。短い歩板が桟橋のように突き出ていて、田舟が二艘繋がれている。一艘に姫を乗せ、もう一艘に皆の荷を乗せると、男たちは下帯だけ、ニドとスウも晒に下帯という姿で水に入った。

 どこで敵の埋伏まいふくの乱波が耳を立てているかわからない。別れの言葉も無く、二艘の田舟がゆっくりと押し出された。ラミレスもライン大公たちも無言で見送る。姫が名残惜し気に離宮を振り返った。だが、田舟は無情に離宮から遠ざかっていった。


 やがて、田舟は隠し水路を抜け、寄せ手の陣の後ろへ出た。畔に上がると近くの四つ堂で服を着て、一同は明るくなるのを待って歩きだした。

 彼らは、都のさる有徳人の息女が足萎えの病にかかり、その快癒祈願のための参拝旅の形を取った。

 姫が足萎えの娘としてシーゲルの担ぐ背負子に後ろ向きに坐り、ジャッケル、シグルス、アツマはその用心棒に雇われた兵法者、ニドとスウが下女という塩梅である。


 もう冬だというのに風もなく、妙に生暖かい中を、一行はのんびりしたふうを装って進んだ。

 離宮を囲む寄せ手の陣所を抜けると、そこはもう日常の風景が広がっている。作物の余りや畑仕事の合間に作った笠や草鞋を売りに行くエルフの農夫、馬を牽くオークの馬借、道の横を眺めればゴブリンの家族が畔を直していた。

 カラクラム湖を遠く左に見ながら、皆はむっつり黙りこくったまま進んだ。姫は市女笠を深く被って垂布で顔を隠し、思い詰めたように自分の膝を見つめている。富貴な娘の旅の一行とはとても思えぬ陰鬱な雰囲気が皆の肩に重く圧し掛かっていた。

 姫を慰めようと思ったのか、シグルスが姫を見上げて口を開いた。

「お嬢様はカラクラム湖を見るのは初めてか」

 突然話しかけられた姫は一瞬きょとんとした顔をしたが、気を取り直すと、

「いえ、子供の頃に何度か父に連れられて舟遊びをしたことがあります」

「ほう、それは羨ましい。拙者も若い頃はこの湖で漁師の手伝いなどして過ごしたことがござる。では、湖畔に出る変化へんげの話はご存知か」

 姫が初めて楽し気な笑顔を浮かべた。

「お聞かせ下さい」

 シグルスが、にっと笑って話し出した。

彼誰時かわだれどき、空が雀色時になると、岸のほうからざわざわと、色々なものが出てきてござる」

「それは人か、獣か」

 黙っていられなくなったのだろう。姫を背負ったシーゲルが問うた。

「獣でござる」

「まあ」

 姫が眼を見開いた。

「霊ではなく化外けがいの生き物でござる」

 シグルスがうずうずと笑いながら続けた。

「水草の間から大入道の首が出る。それがしも、捨てられて無人ぶじんの船宿の崩れた軒先から毛むくじゃらの手足を何本も生えてくるのを見たこともござる」

「まことに見たのですか」

「左様、この目で見てござるよ」

 思わず皆が笑い出した。

「昔々は狐でござったそうだが、今は狸に取って代わられたとのことで」

 シグルスの与太話にジャッケルも面白くなり、

「狸が湖までやってくるでござるか」

「参るとも。御狐様はしっとりなされてござる。しかし、御狸様は御陽気でござってな。笛や太鼓を鳴らした座敷船で参られる。西国から参られたダンサンダ狸様は、仲間の船を十艘以上引き具して琵琶掻き鳴らし、番屋の役人衆を仰天させたと漁の仲間が申してござった」

「まあ、それは楽しそう」

 姫が口に手を当てて笑い出した。

「まことでござるぞ。代官所の詮議もあり、戌の刻過ぎの歌舞音曲を禁じた高札が新たに立てられてござる。しかし」

 そこでシグルスは一旦言葉を切った。

「文字を読めぬ御狸様に通じる訳もなく、今も時折楽器の音が聞こえ、驚いた魚が飛び上がって岸に上がり、漁師の子がこれを手捕りして売り歩くと申す」

「ほほ、妾も一度聞いてみたいものです」

 高札の噂はジャッケルも耳にしていた。得体の知れぬものがこの湖面を彷徨っていることは間違いない。

「それでは、向こうの山に棲む白蛇の話は御存知かな」

 宿に着くまで、シグルスは調子に乗って喋り続けた。

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