2、右腕(2)

 何とかしてくるみさんの居場所を突き止めた僕は彼女を睡眠薬で眠らせて誘拐した。僕がかつて愛していたくるみさんの右腕の愛おしさは今もなお健在だった。本物は月日を経ても朽ち果てることがないようだ。青いビニールシートを敷いた解体室にくるみさんを寝かせる。右肩と右腕の境目にペンで一周赤い線を記す。初めての解体ではユリナも同伴だった。僕の隣で突っ立っていたユリナは壁に立てかけてある鉈を僕に手渡した。


 赤く記した一本の線は切断の目印。そこにめがけて僕は鉈を振り下ろさなければならない。


「それじゃあユリナ……いくよ」


 調度僕の背後にいるユリナに、僕は始りを告げる。


「うん……私、見てるよ」


 僕は頭上に鉈を振り上げた。重い。鉈は重かった。果たしてこの僕が感じている重さは、鉈の重量だけなのだろうか。これが命の重さなのではないのだろうか。いや違う。命はみんな平等じゃない。個人がまず平等じゃないのだから平等なはずはない。くるみさんの命は重いでしょうか。いやくるみさんの命は軽いです。重いのは……くるみさんの右腕なのです。


「うわぁぁあぁあああああぁっぁああぁああああ!」


 僕は叫び声を上げながら、鉈を赤い目印向かって振り下ろした。ゴリッ、だったか、ブシャ、だったか、メリッ、だったか。くるみさんの右腕がどんな音を発したのか、そこまではわからなかった。しかし手ごたえですぐに気づいた。腕が完全に切れてないことに。鉈が目印を半分外していたことに。


「あ、あああ、ああううああああああああ!」


 痛みの衝撃で、くるみさんが目を覚ました。くるみさんは身体全身を跳ねさせ、暴れる。半分だけ切れた腕をぐらんぐらんと揺すりながら。


「ユリナ、くるみさんを押さえて!」


 ユリナは僕の指示に従って、くるみさんを押さえつける。胴体に乗りかかり、口に手を置きくるみさんを動かさないよう尽力する。


「コウタ……早くっ」


「わかってる!」


 僕は再び鉈を持ち上げる。何故だか今度はさっきよりも鉈が軽く感じた。赤い目印は既にくるみさんの血によって見えなくなっていた。しかし半分切れている腕に目印なんてものはもう必要ない。切れ目にむけて下ろせばいいのだ。


「私のこと、間違えて切らないでね」


 くるみさんの上にいるユリナがにっこり笑いながらそう言った。ユリナの笑顔を見るのは久しぶりだ。


 鉈を振り下ろす。その瞬間……視界が、世界が、ゆっくりと動き始めた。全てがスローモーションに見えた。くるみさんを押さえつけるユリナも、鉈を振り下ろす自分の腕も、くるみさんの……おかしい。くるみさんの腕が、くるみさんの指が、動いている。半分とは言え切断されているというのに、指が器用に……動いていた。


 ゴリッだったか、ブシャだったか、メリッだったか僕の振り下ろした鉈はくるみさんの右腕を完全に切り落とした。止めどなく溢れる血液、その中で泳ぐかのように、切断された右腕がぐねぐねと動き回っていた。既にくるみさんと切り離されているはずなのに、それでもまだ……。


 くるみさんの右腕は五本の指を器用に動かしながら移動を始めた。ずるずると長い腕を引きずって、右腕はユリナのいる方へと進行する。なんだよ、これ。どういうことだ。


「やだ……なに……っ!」


 右腕はユリナの身体を昇っていく。指で体のあちこちを引っ掻き回しながら着実に。やがて右腕がユリナの首まで辿り着くと、右腕はユリナの首を思い切り締め始めた。


「ユリナ!」


 僕は咄嗟にユリナから右腕を引きはがそうと試みた。しかしそう簡単にはいかない。まるで接着剤で固定されたかのように、もともとユリナの首にはくるみさんの右腕がくっついていたのではないかというほどに。剥がれない。どれだけ思い切り引っ張っても、これ以上やっては逆にユリナの首が破けてしまいそうだ。いや……それ以上に……。


「あ……っ、かっ、……」


 ユリナの目玉がぐるりと回転して白くなる。まずい限界だ。どうする。僕はどうすればいい。このままではユリナが死んでしまう。しかしくるみさんの右腕は離れない。ユリナを助けるにはくるみさんの右腕を……、僕は手に鉈を握りしめているのだ。さっきと同じ要領で、くるみさんの右腕をこの鉈で切り付けてしまえば、その拍子にユリナから右腕は離れるかもしれない。そう、離れる可能性はあるのだ。


 でも、僕にはそれはできない。ユリナの首と、くるみさんの右腕は同じ天秤に乗せるのも躊躇われるほどに価値に違いがあるからだ。くるみさんの右腕を傷つけるくらいなら、ユリナなんて死んでしまえばいい。僕にとってユリナは、顔さえ残ってくれればいいのだから。


 僕はユリナから視線を逸らす。そしてくるみさんを見た。右腕を失って、血液が無くなって、徐々に死の世界へと向かって進むくるみさん。彼女はまだ死んでない。死んでないのだ。そこで僕は思いついた。彼女が死ねば右腕は離れるのではないか、と。くるみさんが絶命するのはもうすぐなのではないか、と。僕はくるみさんの頭部を足で思い切り踏み潰した。何度も何度も。何度も。


 するとボトリと音を立て、くるみさんの右腕はユリナの首から離れて落ちた。ユリナは喉を抑えながら大きな咳とともに呼吸を整える。


「かはっ……ありがと、コウタ」


 ユリナは停止したくるみさんの右腕を拾い上げて抱きしめた。


「やめろよ」


 と、僕が咎めてもユリナは右腕を離そうとはしない。ユリナは首を横に振って


「これはもう私のだから」


 そしてユリナは、更にこう続けた。


「これはもう……私の右腕だから」

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