2、右腕(1)

「ねぇ、コウタは私のどこが好きなの?」


 瞼の重さに耐えきれず、眠りに落ちようとしていたその時だった。隣で寝ているユリナが僕にそんな質問を投げかけた。いつもと変わらず、抑揚のない話し方で、不意に。


 大学を卒業して三年。気づけば二五歳だった。何か職に就くわけでもなく、ただだらだらと過ごしていたそんな時、偶然知り合ったのがユリナだった。付き合って三ヶ月、僕はこれと言ってユリナに対して特別な感情を抱いてはいなかった。好きなのかと言われても堂々と頭を縦には振れない。だから僕は自分の思っていることを正直に口にしたのだ。


「……顔かな」


 ユリナは掛け布団から出て、僕の顔を覗き込んだ。まるで表情をどこかに忘れてきてしまったかのようにユリナはいつも無表情で……。それは恋人からこんなことを言われた時でも例外ではなかった。


「顔……だけ?」


「ああ、顔だけさ。君の肩や両腕、ヘソや性器、背も足も僕は別に興味がない。ユリナで好感が持てたのは顔だけ。それ以外は別に好きじゃない」


 素直な気持ちだった。つまり僕はユリナのことをあまり好いていなかったのだ。人間を構成する内の一つである頭部しか好きじゃない。それはつまりユリナの八十パーセント近くは嫌いでできているということだった。


 ユリナは視線を僕の顔から逸らして、机の上を見た。視線の先にはあまり高価とは言えない麦藁帽子が一つ、僕がユリナに買ってきた誕生日プレゼントだった。


「コウタは変だね。顔しか好きじゃないのに私のことを愛しているの?」


「だから違うんだよ。僕が好きなのはユリナじゃない。ユリナの顔なんだ」


「それってつまりコウタは誰かの右腕とかおへそとかだけを好きになるってことがあるってことなの? 顔だけ好きってのがあるならそういうことだってありえるんだよね」


 その通りだった。僕は百パーセント人を好きになったことはなかった。中学の時は隣の席だった〝くるみさん〟の右腕が好きだった。高校では毎朝電車で見かけていた、小学生の左足。大学では近所の喫茶店にいるバイトの女の子の少しふっくらとした下腹部だった。その他にも幾人か……。


「なら今は私の顔以外で誰の何が好きなの?」


「別にないよ」


「それじゃあダメ……、決めて」


 そもそもあまり外に出ない僕にとって、それは難題だった。脳味噌をぐちゃぐちゃと掻き回して考える。しかしながら〝今〟僕が好きなものなんて、思いつかなかった。僕が好意を持つのは最高の部位なのであって、そんな最高の部位に出会うことがそもそも稀なのだから。そう考えるとユリナの顔を好きになったのは相当レアケースであったのだが。


「ごめん、思いつかない」


「じゃあ過去ならどうなの? 別に今じゃなくていい、今まで好きになった誰かの何かを……教えて」


 ユリナは僕から掛け布団を奪うと自分の身体にぐるりと巻きつけて、顔だけを出してそう言った。


 それならば簡単だった。僕は昔の恋バナを語るだけでいい。僕は過去に好きになった人の部位について話し始めた。語っていくうちにわかったのは僕は自分が思っている以上に恋深き人間であったということだ。最高の部位の存在は稀だが、僕はそれを見つけることには長けていたのかもしれない。


「僕の初恋は……小学校の時隣の席だった女の子の右腕だよ」


「右腕? 私の右腕とどう違っていたの?」


 ユリナは首を傾げた。


 どう違っていたかだなんて比較するのもおかしいくらいだ。くるみさんの右腕は何物にも形容し難いほどの神秘性を纏っていた。くるみさんの右腕とユリナの右腕は同じ天秤に乗せること自体が間違っている。くるみさんの右腕を〝腕〟と呼ぶならユリナの右腕のことは〝クズ〟と呼ばなければ釣り合わない。


 僕はユリナにくるみさんの右腕の素晴らしさを語った。自分でも驚くほどに高揚していた。自分が好きなものを語ることがこんなにも快感だったとは。


 僕の話の途中で、ユリナはベッドから這い出た。全裸のまま、美しくもないその身体を晒したままで。机の上にあった誕生日プレゼントの麦藁帽子をゴミ箱へと放り投げた。


「なら、これもういらない」


「ユリナが欲しいって言ったんだろ」


「違う……だって私は最初指輪が欲しいって言ったもん」


「そんな金あるわけないだろ」


 ユリナは珍しくムスッと怒った顔で


「違うよ……指輪は手だからでしょ」


と、僕の真意を突いた。そうだその通りだ。僕が恋しているのはユリナの顔なのだ、頭部なのだ。指輪をはめるのは指であってユリナの頭部ではない。だから拒否した。


「くるみさん……だっけ」


 ユリナは再びベットに戻ってくると僕の上に馬乗りになった。


「誕生日プレゼント……決めたよ」


「もう買ってあげただろ」


「あれはもう失われました」


「ユリナが捨てたんだろ」


「そんなことしていません」


 ユリナは僕の顔に自分の顔を徐々に接近させる。鼻先と鼻先がぶつかる直前でユリナの顔はストップした。ユリナの小さく開けた口から吐息が漏れ、そして僕の顔にかかる。


「私はくるみさんの右腕が欲しいです」


 くるみさんの右腕が欲しい。

 くるみさんの右腕が欲しい。

 くるみさんの右腕が欲しい。


 ユリナが言ったその言葉が、僕の中にある何かを掻き立てた。


「うん……いいよ」


 僕は快く了承した。無自覚に、無意識に、いつの間にか僕はこくりと頷いていた。


「ありがと……」


 ユリナが、ユリナの頭部が、再び僕の顔へと接近を始め、そしてそっとキスをした。



これがすべての始まりだった。

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