第5話 ザ・レディ・ゴダイヴァ
11世紀初頭、イングランド・コヴェントリー城。
その一室で、囁くような声がしていた。
「良いですか、ゴダイヴァ。ギヨームはあなたを怒らせようと色々言ってくるでしょうが、冷静さを保ちなさい。決して、事を荒立てたり、言質を取られるような事を言ってはなりませんよ。家督を正式に継ぐまでの辛抱です」
「母上・・」
ゴダイヴァの母は、娘の美しい長い金髪を柘植の櫛で漉きながら言った。
「ここはノルマン人に征服されたこの国の中で、数少ない、サクソンの領地です。彼らは何とか口実を付けて、この町を支配下に置きたいのです」
「分かっております。ああ、しかし、私に上手くできるでしょうか」
父マーシア伯レオフリックが病死して1ヶ月が経とうとしていた。母は娘と同じゴダイヴァという名であり、本来、暴君型の領主であったレオフリックを諫め、敬虔なキリスト教徒に帰依させたことで知られている。レオフリックの死後、何かと国王からの要求が厳しくなってきている中、すぐさま領地没収という事にならなかったのは、女丈夫として有名なこの母のお陰であった。
「ゴダイヴァ、勇気をお出しなさい。常に神がそなたを見守っています」
「ほう、これはこれは、お美しい」
ゴダイヴァが謁見室に入ると、ロンドンからの特使であるギヨームが立ち上がって、わざとらしい笑みを浮かべて言った。
「喪が明けて家督を継がれましたら、是非とも王宮においで下さい。国王陛下もさぞ喜ばれることでしょう」
「ギヨーム殿、はるばるとご苦労さまです。本日は何の御用でしょうか」
ギヨームは恭しく腰を屈め、隣にいる従者に目くばせした。
男は大きな衣装鞄を持っていた。ギヨームはその鞄を広げて言った。
「ご覧ください。国王陛下より下賜されたドレスです」
ゴダイヴァは戸惑って無言で返した。
鞄の中には何も無かった。
ギヨームは笑みを浮かべて言った。
「ヴェネチアより取り寄せた東洋の布地で作らせたものです。どうです。素晴らしいでしょう」
何も無い鞄の中に手をやり、見えない服を手に持つ。
「ただし、この布は魔法の布でして。不思議な事に、愚者や不義の子には見えないということです」
ギヨームが含み笑いをして言った。
「如何ですかな」
「・・・」
「まさか、見えないという事はございませんな」
「そのような事・・」
このような茶番であっても、愚者や不義の子と自ら認めれば、相続人としての資格が揺らぎかねない。言葉は慎重に選ぶ必要があった。
「貴公はどうか?」
傍らに控えていた譜代の騎士である老リチャードに尋ねる。
「・・・私には何も見えませぬが」
「ほう、面白い。美しきご令嬢をお守りする騎士としては、いささか問題があるようですな」
「貴様、何を言うか!」
腰間の剣に手を伸ばすのを見て、ギヨームがにやりと笑う。
「やめなさい、リチャード」
ゴダイヴァが立ち上がり、間に入った。手を出せば逮捕されるのはこちらだ。
「美しいドレスですこと。国王陛下には何と感謝の言葉を述べて良いものか分かりません。何卒、よしなにお伝え下さい」
「陛下は言葉よりも実をお望みです」
いよいよ、本題か。
「此度の戦で兵を出せぬ事情は分かりましたが、戦場に赴く他の騎士の方々の手前もあります。マーシア伯の次期当主として、もっと協力できる事があるのでは無いですかな」
「それは国王陛下の思し召しですか?」
「私の言葉は王の言葉と思って頂こう」
「しかし、すでに増税までして度重なる戦費調達に協力しているのです。これ以上は民が保ちませんぬ」
ギヨームは口ひげを撫でながら、黙っていたが、やがて意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「では別の形で忠誠を示されては如何かな。例えば、そう、王より賜ったこのドレスを着てコヴェントリーの住人に披露してみては」
「貴様!」
リチャードが激高する。ギヨームはにやついた笑いを引っ込めて言った。
「今やこの国の支配者が誰であるか、住民の上から下まで、とくと周知することが肝要かと。さすれば、領民も進んで協力する気になるでしょう」
脅しであった。リチャードが怒りにぶるぶる震えながら拳を握りしめる。ギヨームはそれを冷めた目で見ていた。貞淑を旨とするキリスト教徒の女にこのような辱めは耐えられるものでは無い。戦費負担にも応じるだろう。幾分か手数料を頂いた上で国王に献上すれば、ギヨームの覚えもますます目出度くなると言う物だ。
「分かりました」
ゴダイヴァはそう言って、真っすぐにギヨームを見た。
「そうすれば、貴公は帰って頂けるのですね?」
コヴェントリーの町中に御触れが出て、全ての住人が聖堂前の広場に集められた。ギヨームの連れてきたノルマン兵数人が回りを取り囲む。住民たちが不安で騒ぐ中、ひそひそと噂話が伝達していった。
(なんでも、さらに税金が上がるらしい・・)
(今年は冷害だっていうのに)
(フランス野郎が支配する他の町よりも、もっとひどい事になるそうだ)
(御領主様はそれに反対して、罰を受けるんだってさ・・・)
コヴェントリーの城門の中では白馬が用意されていた。ギヨームは振り返って城を見上げた。あの女傑(大ゴダイヴァ)はどこかで、この風景を見ているのだろうか。やがて侍女を伴い、黒いマントで体を覆ったゴダイヴァがやって来た。
「これはこれは、ゴダイヴァ殿。私はてっきり・・」
ギヨームの軽口を遮るようにゴダイヴァはマントを脱ぎ捨てた。一糸纏わぬ真っ白な裸身が陽光の下にさらされた。下着くらいは着て来るものかと思っていたが、それすら無い。
「う・・・」
ギヨームは自ら言い出したことながら、その迫力に気圧されていた。
「これで御満足か。ギヨーム殿」
ゴダイヴァはそう言って、侍女達に助けられて馬へと跨った。
「ここまでの事をするのです。お約束、違えぬように」
城門が開き、ギヨームに続き、従者に轡を引かれた白馬がゆっくりと出てくる。美しいゴダイヴァの裸身が輝いて見えた。風が吹き、金色の髪がなびいた。ゴダイヴァは胸を隠していた手を下し手綱を握ると、顔を上げ、堂々と馬を進ませた。
先頭を歩くギヨームには、聊かの高揚感も無く、ひたすら何かに押しつぶされそうな感覚を受けていた。
(なんだ・・・)
一歩進むごとにその圧迫感は増していった。
(一体、なんだというのだ)
静かすぎる。何百もの群衆がまわりを取り囲んでいるというのに静まり返っていた。皆、地面を向いたまま、押し黙っている。
ただ、馬の蹄の音だけがしていた。
(こいつら・・・)
突然、怒りが込み上げてきた。近くにいた若者に声を掛ける。
「おい、貴様。下を向いてないで、ちゃんと見てみろ、どうだ?」
若者は無表情に顔を上げて言った。
「これはたいそう素晴らしいお召し物で」
ギヨームは、かっとなって、その若者を突き飛ばした。さらに、近くにいた頭の悪そうな農夫の胸ぐらをつかむ。
「お前も見ろ。ほれ、何か言う事は無いか」
「へぇ、こんなきれいな服、おら、見たことねぇだ」
切り殺そう。
そう思った刹那、小さな子供の声が聞こえた。
「あれー、姫さま、はだかんぼだ」
見ると、鼻水を垂らした少年だった。さらに少年は大きな声で隣にいる母親に言った。
「かわいそうだね。だれがやらせたの?」
ざっと、一斉に視線がギヨームに集まった。数百の住人が冷たい目で、こちらを見つめていた。
背中を氷柱のようなものが走る感じがした。
白馬がその横で歩みを止め、ゴダイヴァが言った。
「去られよ。ギヨーム殿。御身のためです」
この話しは様々なバリエーションを持って今に伝わっている。彼女の献身により重税を免れたという結末は同じであり、欧州では特に人気の高い人物である。チョコレートで有名な菓子店のシンボルにもなっている他、ロックバンド・クィーンの楽曲にも登場している。ただし史実では無いというのが大方の歴史家の見方である。欧米の反骨精神の支柱になっており、現代でも、何かの抗議活動の際、裸でデモを行う女性がいるのはこの話しに基づいていると思われる。
元になったお話:裸の王様
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