第3話 舌切の話
アパートの薄いドアを叩く音がする。
「はーい」
広田浩司は洗い物の手を止め、テレビを消してからドアを開けた。
「鈴女・・・」
そこには黒い服を着た二十歳くらいの女がいた。長い黒髪が雨で濡れていた。
浩司がお茶を入れてくると、鈴女は小さな仏壇に手を合わせていた。
その横にあぐらをかいて座った。
広田浩司は白髪頭の老齢の男で、小さな印刷会社を定年まで勤めた後、雇用延長で働いていた。
しばらくしてから、鈴女が正座のまま向き直り、深々と礼をする。
「どうしたんだい?そんな改まって」
「・・・」
鈴女は逡巡したが、やがてメモ帳を取り出し、何事かを書いた。
浩司にそれを見せる。
『また、こちらにおいて頂けませんか?』
浩司は笑って言った。
「当り前じゃないか。今でもここはお前の家なんだよ」
鈴女は寂しそうに微笑んだ。
「麻衣子が出かけとるが、まあ、その内戻ってくるだろう。いつもの事だ」
鈴女は浩司の姪に当たる。両親が災害で亡くなり身寄りのない彼女を引き取ったのが、親戚の中で唯一子供のいなかった叔父夫婦である浩司達だった。
その頃、彼らは浩司の妻である麻衣子の両親(鈴女の祖父母)の家に同居していた。
あれは鈴女8歳の時。か細い声で
「鈴女です・・・。よろしくお願いします」
と頭を下げた。細い脚が震えているのが分かった。
心を閉ざしがちだった彼女を、浩司は本当の親のように親身に面倒を見て、鈴女も次第に懐くようになった。
麻衣子はあまり関心が無い様子で、鈴女に接すること無く、そもそも浩司ともあまり会話が無いくらいで、度々家を空けていた。鈴女が後で知ったことによれば、麻衣子は頻繁に外国旅行に出かけたり、ギャンブルで散財していたらしい。一介のサラリーマンに過ぎない浩司の給料で賄えるものでは無い。鈴女の両親は貯金や株などで相当な蓄えを残していたが、彼女が中学に上がる頃には、それらをほとんど使い果たしていた。
祖父母が亡くなり、家の中で麻衣子と鈴女だけの時間が増えると、麻衣子は鈴女に辛く当たるようになった。
鈴女はいつもそれに黙って耐えていたが、ある時、一度だけ反抗したことがった。麻衣子が、洗濯ものを畳む鈴女の手が遅いと難癖を付けて言った時だ。
「あんたの父親もぐずだったからしょうがないね。だから、あんな、性格の悪い女なんかに引っ掛かるのよ。うちの父ちゃんも母ちゃんも、みんな結婚に反対していたわ」
鈴女は静かに言った。
「父は働き者でしたし、母とも愛し合っていました。おじいちゃんとおばあちゃんは、よく家に来ては、ここに来ることが一番の楽しみだと言ってくれました」
次の瞬間、鈴女は頬を叩かれ、ほとんど聞き取れない麻衣子の罵詈雑言を浴びる事となった。
鈴女が中学3年の時。いよいよどうにもならなくなった浩司達は親から継いだ家を売り借金を清算すると、この小さなアパートへと引っ越した。
鈴女は高校受験に合格していたが、浩司が頭を畳に擦り付けるようにして謝り、鈴女は進学を諦めることを承知した。
その翌日、彼女は「さようなら」と書置き一つ残して家を出て、それきり戻らなかった。
「すぐに帰ってくるわよ。中学生が一人で生きていけるもんじゃないでしょ」
麻衣子はせせら笑って言ったが、浩司はすぐに警察に届け、自分でも親戚、友人関係などを尋ね歩いた。
しかし一向に行方が掴めなかった。
何年か経ったある日、以前、相談した事のある興信所から電話があった。ある高級クラブの話しだった。家出人探しの契約は終わっているので、これは単なるうわさ話だが、と前置きして男は言った。
「そのお店の子の一人が、どうもあんたに聞いた容姿に一致するみたいなんだよね。ただ、奇妙なんだけど、ホステスなのにしゃべれないってんで、ちょっと話題になってね」
「しゃべれない?」
「うん。会話が苦手とかじゃなく、本当に全く口が効けないって」
「ふーむ、どうだろうねぇ。念のため、店の場所を教えてもらえますか?」
男は店の名前と住所を教えてくれた。
「でもさ、やっぱり、不思議なんだよな」
「え?」
「ホステスって、あれは何だかんだ言って話芸だろ。何も話しをせずに仕事になるのかなって」
「そうですねぇ」
「ただね、会ったことのある奴が言うには、もうびっくりするくらいの美人でさ。あの何てったかな、朝ドラ女優にちょい似たいい女で。その横顔をぼーっと見ているだけで1時間でも2時間でも飽きないんだとさ」
スパロゥインは高級な店ばかりが集まる繁華街の一画にあるクラブだった。扉の前にはボーイが立っていた。
浩司が何度か店の前を行ったり来たりした末に店に近づくと、ボーイが聞いた。
「いらっしゃいませ。はじめてのお客様でしょうか?」
「え、ええ・・・まあ」
「どなたかのご紹介で?」
「い、いや。そういうんじゃなくて」
「申し訳ございません。当店は会員制クラブとなっておりますので、初めての方は会員様からのご紹介が必要となります」
その時、扉が開き、2人の客が出てきた。企業の接待らしく、どちらも上等なスーツを着ている。
見送りに出てきたホステスを見て、浩司は思わず叫んだ。
「鈴女!」
ホステスは驚き、あわてて店内へと逃げ込んでしまった。後を追おうとした浩司をボーイが引き留める。
「困りますよ・・・お客さん」
「あの、あれは娘なんだ」
「娘さんでもです」
その時、扉が開き、恰幅のいい黒服が出てきて言った。
「入れてやれ。すずの客だそうだ」
煌びやかな店内の隅の席で、浩司は縮こまるようにして座っていた。
やがて、黒いドレスに身を包んだ鈴女が現れた。なるほどと浩司は思った。噂になるだけの事はある。単に美しいだけでは無く、儚い哀しさのような物がそこにあった。
「鈴女・・・かい?」
鈴女は微笑むと、流れるような手つきで、カットグラスに入れたウィスキーをミネラルウォーターで割り、軽くステアして、浩司の前に置いた。
「ありがとう」
鈴女は黙っていた。口が効けないというのは本当だろうか?
「お前、あれから、どうしていたんだい?」
鈴女はメモ帳にさらさらと書いて見せた。懐かしい綺麗な字だった。
『親切な人達に助けられてきました。何も心配いりません』
「そうか。それは良かったな」
鈴女は目を伏せて、さらにメモを書いた。
『叔父様には感謝しています。でも、もう店には来ないで下さい』
「・・・そうだな。お前が元気だと分かればそれで良いよ」
浩司がグラスに手を付けず、立ち上がろうとすると、鈴女は慌てて手を押さえ、待ってて、と口の動きだけで言って、席を外した。
再び浩司がソファに座ると、隣に妙齢の女性が座った。クラブのママらしい。
「良い子ですよ。すずちゃん。最初、接客は無理かと思ったんですけどねぇ、気が利くし、健気だし、評判良いですよ」
「はぁ」
「あなたが、叔父さんですね。よく、すずちゃんから聞きました。とても、優しく、良い人だと」
「いや・・」
「私はクズだと思っていますがね。だってそうじゃありませんか。本当に良い人なら、なぜあの子を守ってやれなかったんだい、と」
浩司が絶句していると、ママは口元に手を当てて笑った。
「あら、嫌だ。つい余計なことを言ってしまったわね」
「いえ、本当にそうです。その通りです」
その時、鈴女が戻ってきた。明らかに現金が入っていると思われる茶封筒を、浩司に渡す。
「何だね、これは」
予め書いてあったメモを見せられる。
『これで、何かおいしい物でも食べて下さい』
「いや・・・気持ちはありがたいけど」
それを遮るように、隣りから、ママが口を出す。
「いいじゃないですか。社会人が稼げるようになってまずやりたい事は、そのお金で親孝行することでしょ」
それから耳に口を近づけ囁く。
「それとも、あんたもうちの親みたいに、汚い金は受け取れないってクチかい?」
浩司は封筒を拝むようにして受け取った。
再び現在。アパートの一室。
夜も更けた頃、鈴女は布団から起き、浩司を起こさないようにそっとベランダに出た。恐らく麻衣子のものだと思われる女物のサンダルがあったので借りる。
タバコを取り出して火を点けると深々と吸った。
麻衣子が来たのはあれから1週間も経たない内だった。予め電話があったので、店では無く鈴女のマンションの方に来てもらった。
「たった10万ぽっちでこれまで育ててやった恩を返したつもりかい」
相変わらず下品な女。私は澄ました顔で聞いていたが、適当な所で、用意していたお金を取り出した。100万円の帯付きの新札が3つ入っている。
さすがに驚いた顔をしていたが、すぐに嫌味らしく言った。
「ふん、さすが高級店ね。男をたぶらかせば、簡単にすぐ金なんか手に入るでしょ。これからもちょくちょく寄らせてもらうよ」
私は微笑んだ。
麻衣子は立ち上がろうとして、ふらついた。テーブルに片手を付き、よろけて椅子に座る。
「どうかしましたか?おばさん」
私は老婆のようにしわがれた声で言った。麻衣子はぽかんと口を開いて私を見た。
「あ、あんた。口が利けるのかい・・・」
私は微笑んでから、自分でもぞっとするような声で答えた。
「昔お付き合いしていた人に喉を潰されてしまいまして。こんな声ですから、返って、口を利かないのを通した方が良いんですよ」
「・・・あんた。あたしに恨み言でも言おうってのかい?」
「10万円ぽっち・・・」
「ああん?」
「私が初めて稼いだお金も、確か10万円でしたね」
「・・・」
「あの日、アパートに知らないおじさんが来て、もうすでにお金は払ったと言われました」
「何のこと。知らないわよ」
「あれが終わってから、私はそのおじさんに連れて行ってくれるようにお願いしました。もうこんな所にいたく無いと。本心でした。そして、3ヶ月くらい、おじさんの家で暮らしました。おじさんは、とても優しくて、色々と悩みを聞いてくれたけど、変わったエッチをするのが好きでした。このままでは私、壊れてしまうと不安になって、だからそこを引き払ったんです。最後に、寝ているおじさんの両手を縛り、目が覚めた所で、きちんと自分が死ぬ運命だと言い含めてから、コードで首を絞めて殺しました」
「何を言っているの。あんたは」
「2番目の人は、若い男でした。ハンサムだったけど、少し経つと、暴力を振るうようになりました。私、痛いのは嫌いなので、そこは2週間ほどで出ました。この男も縛ってから、包丁で色んな所を少しずつ刺して殺しました。普段強がっているくせに、鼻水をたらして怖がるの。面白かったわ」
「やめて、鈴女。なんで、なんでそんな話しを私にするのよ」
「3番目の人は」
「やめてって言っているでしょ」
麻衣子は立ち上がろうとして、派手に転んだ。
「お薬が効いてきたみたいですね。叔母様」
「わ、私も、殺すつもりなの?」
「ふふ・・・さて、どうしようかしら」
私はバッグから、用意しておいたロープとかナイフとかを取り出した。この日のために用意したものだ。
「私、疑問があるんです。それを考えると最近夜も眠れなくて・・・」
「な、何」
「舌を噛み切って死ぬってあるじゃないですか。時代劇とかで。でも、実際は、舌を切ったくらいでは死なないっていう人もいるんです」
私はしゃがみこんで、麻衣子の顔を間近で見た。
「どっちなんでしょうね」
「や・・・やめてよ」
私は、麻衣子の手を縛りながら言った。
「10分あげます。舌を噛み切ってみて下さい。それで死ななかったら、きっと神様がお許しになったてことなんでしょうね。病院に連れて行ってあげますわ。でも出来なかったら・・・分かりますね」
私は笑って椅子に座りなおした。
夜の街は静かだ。私はタバコを吸い終わると、ベランダから部屋に戻った。叔父さんが安らかな顔で寝ている。
私はしゃがんで、その寝顔を見ながら、しわがれた声でつぶやいた。
「さて、どうしようかしら」
元になったお話:舌切り雀
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