第2話 ハイジの帰郷

バート・ラガーツの駅前から8人乗りの乗り合い馬車に乗ると、空いている席は1つしかなかった。

アーデルハイドは周囲の乗客に軽く会釈をしてそこに座った。間もなく教会の鐘が正午を告げ、馬車は石畳の道をゆっくりと進み出した。

「やあ」

 彼女の向いに座る金髪の青年が笑って声を掛けた。

「君はこの土地の人かい?」

「ええ。デルフリ村の出身です。でも故郷に帰ってきたのは久しぶりだわ」

「へぇ、普段はどこで暮らしているの?」

「ローザンヌよ」

「どうりで。その、ずいぶんと都会的なファッションだと思ってね」

 アーデルハイドは白いブラウスの上に、鮮やかな赤いフード付きのケープを着ていた。確かにこの辺りでは目立つ姿かも知れない。

「マイク・スミスだ」

「アーデルハイドよ」

 青年はアメリカのボストン出身で、叔父の仕事の手伝いでフランクフルトにいるのだと言う。

「まあ、フランクフルト?私も時々、行きますわ」

「へぇ、何の御用です?」

「私の保証人になって下さっている先生がいるの。それにフランクフルトには古い友人も多いですし」

「そうか。じゃあ、フランクフルトに来る時は是非連絡を下さい。一番良いレストランを予約して待っているよ」

「でも、どうしてデルフリ村なんかにいらっしゃったの?」

 デルフリ村はこの辺りではありふれた田舎町で、特に珍しい名所があるわけでは無い。マイクは笑って言った。

「気まぐれさ。ラガーツには湯治で来たんだが、正直、退屈してきた所でね。しばらくこの辺りをぶらぶらして、趣味のスケッチでも描こうかと思っている」

「それなら、ぜひ、アルプスの山を描いていったらどうかしら? 出来れば少しで良いから登ってみると良いわ。そうしなければ、本当の山の姿は見えないですもの」

 アーデルハイドは、彼に、彼女が幼少期に過ごした山の話しをした。美しい朝霧。ヤギ達の群れ。夕焼けに燃える雄大な山肌。そのどれもが美しい思い出だった。

 マイクは身を乗り出して話し聞いた。話はハイジの山小屋の生活に移った。

「君のそのおじいさんというのはご健在なのかな?」

「元気よ。まだ、山で暮らしているわ。でも、もう年だし。私はせめてふもとの村で暮らして欲しいのだけど」


 村に着き、馬車が止まった。マイクは馬車を降り、アーデルハイドの荷物を屋根から降ろすのを手伝った。

「じゃあ、僕はこれで」

「ありがとう。良い一日を」

 アーデルハイドは彼と分かれ、久しぶりに戻ってきた村を見渡した。大きく変わった様子は無い。

「ハイジ、ハイジじゃない?」

 突然声を掛けられ振り返った。彼女と同年代と見られる女性が立っていた。

「まあ、ハンナ?」

「久しぶりねぇ。すっかり綺麗になって」

 ハンナは小学校の同級生だ。この村で結婚し、家業のパン屋を手伝っている。

「あなた、寄宿学校はお休みなの?」

「いいえ。実は、今度、卒業して小学校の教師として、ここに赴任することになったの」

 ハンナは目を丸くし、そして破顔した。

「ああ神様、なんて素晴らしいことでしょう」

「ありがとう、ハンナ」

「それにしても、あのハイジが学校の先生とはねぇ」

「ええ、小さいころは想像もしていなかったわ。私、勉強にはあまりいい思い出が無かったから」

「ペーターもね。ここにいたら一目散に逃げ出したかもね」

 2人は顔を見合わせて笑った。

 ペーターは幼馴染のヤギ飼いだ。幼い頃にはよく分からなかったが、今から思えば、あれが初恋だったかも、という感情の相手だった。彼は兵役であと1年は帰ってこれないらしい。


 それからしばらく、昔話に花を咲かせていたが、ハンナが不思議そうな顔をしているのに気づいた。その視線を追って振り返ると、灰色の外套を来た男が、遠くでこちらを見ていた。年のころは40か50か。どことなく異国の人間を思わせるような浅黒い肌をした、不気味な男だった。

「知らない顔ねぇ」

 ハンナは言った。

「そういえば、さっきの馬車で一緒だったわ」

 男はふいと視線をそらして立ち去った。小脇に、何やら長い包を抱えているのが印象的だった。


 アーデルハイドは、ハンナの店に行き白パンを買った。

「おんじによろしくな」

 彼女の父親は袋に入れたパンを渡して言った。

 アルプスの山道を登っていくと、次第に人家が減り、森がうっそうと繁ってくる。

 ふと視線を感じたような気がして後ろを振り返った。遥か遠くに、あの灰色の男の姿が見えたような気がしたが、改めて目をこらしてもそこには何も無かった。森の木々が風にざわめく。すでに日は傾き、暗くなりはじめていた。冷たい風が肌を刺す。彼女は赤いフードを被り、足早に山を登った。時々振り返るが、何もいない。それでも何故か、あの男が後ろから付けているような気がしてならなかった。


 懐かしい山小屋が見えてきた。アーデルハイドは、矢も立てもたまらず走り出し、扉から飛び込んだ。

「おじいさん」

「ハイジ!」

 彼女の祖父である、アルムおんじは、驚いて立ち上がった。アーデルハイドが駆け寄り、子供のように抱きついた。

「おお、どうしたのかね」

 アーデルハイドは大きく肩で息をしながら、笑って言った。

「ううん、何でも無いの」

 もう安心だった。思えば、実際に見たわけでも無い灰色の男などに怯えていたなんて、本当に子供のようだった。

 アルムおんじの逞しい手がアーデルハイドの頭を撫でた。

「そら、もう大丈夫だ。こちらにお座り」

 彼女の手をひいて、椅子に座らせる。

 その前にシチューの入ったスープ皿が出された。それから、木のコップが置かれ、ぶどう酒が注がれた。

「・・・おじいさん、私、お酒は」

「ああ、そうだったな」

 そう言って、おんじは家の扉に掛け金をかけると、暖炉の前に行き、背中を向けて屈みこんだ。

 アーデルハイドはシチューをすくって一口すすった。やわらかな肉が口の中で解ける。心がやすらぐような、懐かしい味だった。

「おじいさん、手紙読んだ?私、デルフリ村の小学校に務めることになったわ」

「ああ」

「ねぇ。また、村で二人で暮らさない?冬の家はまだあるのかしら?」

「ん?ううむ」

 おんじは曖昧な受け答えを続けた。

 ふと見ると、火かき棒を掴む手が、奇妙に大きく膨れているように見えた。

「おじいさん、手を火傷でもしたの?腫れているみたいだけど」

「ああ、ちょっとな」

 そういうとポタポタと何かがしたたり落ちた。

「泣いてるの?」

「ん?」

「それに何だか、震えているみたい」

「そうさな。それは・・・」

 おんじはゆっくりと振り返り、立ち上がった。暖炉の火にゆらりと影が揺れる。こんなに大きな人だっただろうか。ぎらぎらとする目でこちらを見て言った。涎がしたたり落ちる口には、人のものでは無い、するどい牙が見えた。

「それはな、お前を食う喜びで打ち震えているからだよ」


 おんじの顔は毛深い剛毛にうずもれた。口が左右に大きく割れ、巨大なあざととなった。身長2mほど。人の体を持つ狼だった。おんじ狼はアーデルハイドに飛び掛かり床に押し倒した。頭を打ち、視界がぼやける。突然の恐怖に体が強張り動けなかった。

 狼の巨大な口の中に、ぬらぬらとした赤い舌が見えた。生臭い息が掛かる。狼の手には鋭いナイフのようなかぎ爪があった。その爪の先端がアーデルハイドの首筋に掛かり、一気に降ろされた。

「!!」

 叫びにならない悲鳴。ブラウスの前面が切り裂かれ、ボタンが飛び、真っ白な肌が露わとなった。

「うまそうな肉だ」

 狼の舌が、アーデルハイドの頬を舐める。その舌が次第に下へと降りていく。アーデルハイドは、必死に身をよじった。右手が何かを掴む、床に転がっていたぶどう酒の瓶だった。

 思い切り、それを狼のこめかみの辺りに叩きつける。瓶は砕け散り、狼はよろめいた。

 その瞬間を逃さずアーデルハイドは立ち上がった。

「くそう・・・」

 狼は唸り声の混じる声でそう言って立ち上がった。

 アーデルハイドはテーブルの後ろに回った。狼がゆっくりとテーブルの周りを歩きながらこちらを伺う。テーブルにあったフォークを手に取り構えた。無いよりはましだ。

 狼はくぐもった声で言った。

「くっくっく、すぐに、大好きなおじいちゃんの所に送ってやるよ」

 アーデルハイドが分けも分からず黙っていると、狼は笑った。

「シチュー・・・・うまかったろう」

「・・・・」

 頭の中が真っ白になった。狼はテーブルの上に飛び乗った。唸り声と共に振り被った右手の鍵爪が光る。


 掛け金を弾き飛ばしてドアが開き、銃声が響いた。

 狼は飛び跳ね、地面に落ちた。

 灰色の外套を着た男が、肩口に長銃を構えていた。

「貴様は!!」

 狼は叫びながら男に襲い掛かる。男は床に転がり、それを避けた。狼はそのまま扉に突進して小屋を飛び出した。

 男に飛び掛かったというよりは、半狂乱で逃げ出したと言った方が近い。

 男は、ふぅっと深い息を吐き、一瞬呼吸を止めて引き金を引いた。轟音。そして闇の奥で、何かがくるくると舞い、悲鳴が聞こえた。


 灰色の外套の男は小屋を少し下った所の小川で、その死体を見つけた。変化を解いた姿は、馬車で見かけた自称アメリカ人だった。銀の弾丸は正確に急所を捉えたようだ。

 灰色の外套の男は、セルビア出身の先祖代々続く、ワーウルフハンターだった。町ですれ違った青年からわずかな獣の匂いを感じ、ずっと後を追ってきたのだ。デルフリ村では不覚にもまかれてしまったが、馬車の中でしきりに話しかけていた女性をマークしていればじきに奴の方から現れると読んでいたのは正解だった。

 男はしばし、その死体を眺めていたが、腹立たしそうに舌打ちして立ち上がった。この人狼もまた、彼が人生を掛けて追っている獲物では無かった。


 男が小屋に戻ると、まだ火薬の煙が漂っていた。アーデルハイドが床に座り泣いていた。口に指を突っ込み、何かを吐き出そうとしている。

「大丈夫か」

 アーデルハイドが涙目で訴える。

「お、おじいさんを、おじいさんを、私、おじいさんを」

 アーデルハイドの視線の先にはシチュー鍋があった。男は、鍋を覗きこみ言った。

「奴がそう言ったのか?」

 アーデルハイドは震えながら、頷いた。

 男はシチューから肉をすくい上げた。ほろほろと崩れる程の肉だった。2日ほど煮込んだようだ。

「この家に二階はあるか?」


 アーデルハイドの案内で梯子を上ると、干し草の上に、後ろ手に縛られた老人が倒れていた。男は腰のパウチから気付薬の小瓶を出して、老人に嗅がせた。

「う、うう」

 幸い、ケガだけで済んだようだ。アーデルハイドが駆け寄った。きつく縛られた縄を解こうとするが、上手く行かない。

「どきな」

 男が小刀を出して縄を切った。

「おじいさん!」

 アーデルハイドがおんじにすがり付く。

 灰色の外套の男は無表情に言った。

「奴らは子供か若い女性しか食わない。とは言え、ご老人の命が助かったのは、運が良かった」

「ありがとうございます。あの、何とお礼したら良いか」

 男は立ち上がり、横を向いた。

「気にするな。法王庁から金が出る。それよりも、前を何とかした方が良い」

 アーデルハイドはそこでやっと自らの姿に気付き、慌てて破れたブラウスの胸元を合わせた。

 男は背中を向けた。それにアーデルハイドが問いかける。

「あの・・・せめてお名前を」

 男はしばらく無言だったが、やがて

「じゃあな」

 とだけ言うと、梯子も使わず階下に飛び降りた。

 そして、そのまま足音も無く去っていった。

 暗い森の中へ。



元になったお話:赤ずきんちゃん


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