5-2 床入りの儀 

正面の壁を背にした、自分のために用意されたであろう席に近づき、思わず立ち止まった。

大人が二人は座れそうな長さの椅子に、獣の毛皮が掛けられており、その端には立派な角のある鹿の頭が付いたままになっていたからだ。

「どうぞお座りになって」と、その鹿の毛皮の上に座るよう促され、驚きを押し隠して何事もないような顔でそこへ座った。


自分の妻になった紅妃こうひが、脇に立って言う。

「今日からお世話になります、千慧里ちえりと申します。どうか末永くお導きいただきけますよう」

そう言って、愛嬌いっぱいに胸の前に両手を当て、一度膝を曲げ、挨拶をする。

それで明煌は、やっと妻になった人の顔を正面から見た。


儀式の時より幾分か化粧は薄くなっていたが、それでも目鼻立ちをはっきりとさせた顔に、結い上げた髪には金の簪が何本も刺してあり、顔を動かすたびに飾りが揺れる。

同様の金の飾りが首元を彩り、そのきらびやかな感じは、いかにも王女という感じがする。


丸い裾を腰に巻き付けて着る深衣は、彼女の国のものらしい。

今は下に柔らかい素材の裙を巻いているようだが、袴を履けば馬に乗れる。

多分、そんな機会はこの先ほとんどないだろうし、王宮に出るときは、この国の正式な服装に身を包むことになるだろうが、今日は特別なのだろう。

この宮にいる時は、祖国の衣類を着るつもりかもしれない。


『千慧里』と彼女の本名で呼べるのは、唯一、夫になった明煌だけだ。

それが未婚者ばかりの宮殿の中で、夫婦でいられる王と皇太子の証でもあった。


さきほどの式では、一度も口を開く機会がなかったので、容姿とともにその大人っぽい彼女の落ち着いた声に、自分の方がずいぶん子どものように感じた。

ふと見ると、彼女の椅子には虎のような毛皮がかかっており、やはり片側には首が付いたままになっている。

狩猟の盛んな国とは聞いていたが、まさか首がついたままの毛皮を調度品に使う習慣があるとは思っていなかった。


殿下でんかとお呼びすればよろしいのですか?」

他国から嫁いだ王女は、そう言って確認した。

明煌が頷くと、その手に親指ほどの深さのある玉盃を持たせ、酒を注いだ。

「どうぞ、お召し上がりください。祖国の酒をお持ちしました」


先ほどの婚礼酒とは違い、盃になみなみと注がれた酒をどうしようか、と考えていると、月桂げっけいが横から、

紅妃こうひさま、殿下は酒をたしなみ始めたばかりでして」と、助け舟を出してくれた。


「あら、そうでしたの。では、お好きなように。それであなたは?」

そう言って月桂を振り返る。

「申し遅れました。殿下の護衛を務めております月桂と申します」

そういって、剣を両手で捧げ持ち、紅妃に挨拶をした。


注がれた酒に口をつけないのもいけないと思い、明煌は盃からひと口飲んでみた。

婚礼酒よりさらに深く苦い大人の味がして、とても自分には無理だと判断し、それ以上は口をつけるのをあきらめ、盃を卓に置いた。


それからも、終始、紅妃が先導し、ほとんど口を利かない明煌の世話を焼いた。

料理も祖国のものを出してきたようで、小皿に取り分けては、これは何でどう美味しいのか、と解説して渡してくれるのを、何も考えずに口に運んだ。


結局、食事を終えると、今夜は疲れているから、と月桂が言ってくれて、床入りをどうこうと口にすることもなく、太子殿に帰ってきた。

それなりに食べたと思うのだが、何を食べたのか、何を話したのか、まったく覚えていない。


風呂に入る気持ちの余裕もなく、昨日までと同じように宮女の世話で寝巻に着替えると、顔と首を拭き、口をゆすぎ、寝台に横になった。

今日一日のことを振り返り、明日から千慧里にどう付き合っていけばいいか考えておかなければ、と思ったが、枕に頭をつけた途端、強い睡魔に襲われて、何も考えられなくなった。

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