第4話 たちましょらっぱで たちつてと

たちましょらっぱで たちつてと


 空が深いブルーになったら、ボクはボクしか眠らない家をでて道を進む。そう遠くないところだったけれど、目指す二階建てに水が枯れて回らなくなった水車がついた家は、ボクの家とはちっとも似ていなくて、あの屋根の上から見る街の景色は、地面から見つめる街よりもずっと広がっていて綺麗だった。

 生成色のゆるい布生地の袖を捲り、少し大きめなハウスにつけられた木製の梯子を登っていく。梯子はひんやりと湿っており、僕が十八になる頃にはハウスを包み込んでしまいそうなヘデラ・ヘリックスがこぼしたであろう朝露や、前日の小雨の残骸が感じられた。傾斜の緩い屋根に足をつけ、手についた土の香りを擦って払う、手が少し湿った。ボクはいつもの定位置である風見鶏の隣に腰を下ろし、肩に下げていた楽器ケースを脱いで、風見鶏の足が埋め込まれている台へと手を伸ばしそっと寝かせた。

 空の色がゆっくり明るくなっているのを、ボクはただじっと眺めて、心地よいくらいに冷たい風が前髪を優しく梳かすのを感じる。嵐の時の風はいろいろなものを乗せ、奪っていってしまうから嫌いだったが、快晴の日のボクに匂いを運び与えてくれる風は好きだったし、そういった面を知ってしまうと、単純に拒絶することはできなかった。

 少し斜めから陽が差し始め、空の色の変化が強くなり始める。ここからの時間はとても短い。ボクは立ち上がり、決して無駄にしないように、吹いてきた風を大きく息を吸い込む。


 ふと、香った。


 反射的に目を見開き、一瞬流され持ち上がった眉は持ち上がるまぶたの力へ反発するように降下、驚きの表情と険しい表情のミックスが、きっと今のボクの顔を構成しているのだろうと思う。自分の周り一面に貼られたガラスの汚れを熱心に拭き取るようにあたりを見回し、香りの根源となる場所を、あわよくば根源となるあの人を探した。一周の努力では見つけ出すことができず、その後も二、三同じ動作を続けた。彼女はいなかった。

 街の方を見下ろすと、東の方からの明るさに建物や道が浮かび上がっていた。サークルや扇形に敷かれた古めかしいレンガの道に、大きいの、小さいの、パン屋や服屋、そしてきっとあの街には花屋ができているはずなのだ。高貴でボクが目にできたのが奇跡に近いようなヴァイオレットのドレスを池に投げ入れてしまった彼女が、グレーの飾らない素朴なワンピースを着て、素敵な黄色いエプロンをつけ、たくさんの愛情を込めて見守った花々を今日も朝早くから束ねる。お客がその香りを嗅いで微笑む姿を見た彼女は、あの愛おしい笑みで後ろ姿を見送っているはず。あの優しいミモザの香りを纏って、きっとそうであって欲しい。

 心を落ち着かせようと深呼吸をすると、やはり彼女と同じミモザが、微かではあったものの香っていた。


「ヴァイオレットが好きなのかい?」

「嫌いじゃないけど、特別好きな訳じゃないわ。」


 全身ヴァイオレットで彩られた彼女がそのカラーを好まない理由がわからず、尋ねた。彼女は屋根の上で、ボクの隣で風を受け止め、街を眺めていた。


「黄色が好きなんだ。みんなは、いい色じゃないっていうけど。卑しいってね。」

 「そうなのか?」


 ボクの家にはあまり染色されたような高価な布生地がなかったこともあって、流石に色彩は知っていたけれど、色に対する世間の印象については全く知らなかった。彼女はそんなボクに対して緊張回が解けたのか、それともただ世間知らずに呆れたのか、スッと横に寝転んだ。あの街に花屋はないのね、と虚無感に苛まれている彼女が苦しそうに言ってから、長いまつ毛のついたまぶたで瞳を覆ってしまた彼女の表情は、あまりよくわからない。


「色に意味をつけるなんておかしいわ。」


 ひどく眠たげだった。家族から逃げたくて二日間歩いたという彼女は、そのまま眠ってしまいそうだったが、まだ話したいことがあるようで、うっすら、そしてゆっくりと語りを続けた。


「色はただ目に見えてるだけよ。」


 想いと意味は違うモノだって、みんなはまだわかってくれない。最後にひとおし、彼女はふーっと息を吐いた。


 定刻になったので、ボクはブラウンレザーの楽器ケーズから、少し錆びて灰汁色になったトランペットを取り出して背筋を伸ばしたのち、居心地が悪くならない程度に足を開き、目を瞑った。

 いつも通りの運指、いつも通りの響きとスピードを目指して、朝の街に金管楽器のファン、パァンという音が届くようにする。トランペットを吹く時、ボクはいつも隕石や流れ星をイメージしていた。音符一つ一つにクレッシェンドとデクレッシェンドかける。なるべく速く、譜面上で指定された場所でどれだけ完璧な音程と音量で奏でることができるか、違和感なく、なるだけ途切れずに次の音へと紡ぐ。お気に入りのファ♯を越えて、ボクは最後のフェルマータを今日は少し長めにとった。

 目を開くと朝日はだいぶ上昇して、パン屋は看板を出し、ある家の亭主は家の外へ新聞をとりに姿を現した。東側の家に住む奥さんは、2階のグリーンの木製の窓を開き花壇に水をやっていた。人々が動き出せば、街にはほんの少しだけの建物の影が残され、朝が訪れた。ここから見るその風景はミニチュアだったけれど、きっとあの街の中に住んでいたら、この朝の風景や時の流れが非常に素敵なモノだとは気づけなかっただろう。


「いいわね。」


 彼女の声に目を向けると、ボクの足元のすぐ先で座って街を眺めているようで、残念ながらトランペットの音色に関しての感想ではなさそうだった。


「私、あの街に行こうかな。


あの街でさ、おっきな台車に育てた花乗せて、売るの。リクエストされたら花束を作って、手を降ってくれた小さい子には花冠をあげるのよ。


いいなぁ、いい。それがいいや。」


 曲げていた足を伸ばして、腹筋の力を解いたらしく、彼女はボクの足元に頭をつけて脱力し、ひっくり返しになった表情を見せた。肌が綺麗で、朝日に当たると透き通ってしまいそうな優しげな表用の中に、強く意思を持った瞳が印象的で、彼女はとても可愛らしかった。


「あ、もちろんあなたもよかったよ。」


 少し前の自分だったら、その言葉を謙遜の用語で返したかもしれないけれど、今は何故かそう言った余計なワンクッションを挟む過程が不要に思えて、ありがとうという言葉を彼女に渡した。演奏に関するレスポンスはもらったことがなかったから、とにかくとても、嬉しかったのだ。


「素朴だけどさ、だけどっていうか、うまく言えないんだけど……素敵な素朴さだよ。」


 私は好きよ、と言って彼女は瞳を閉じた。ボクはトランペットを収納して、ゴロンと隣に寝そべった。まだ朝だったけれど、それともまたは朝だったからか、心地よい睡魔に襲われたボクは抵抗せずにそれを受け入れた。瞳を閉じると、一瞬だけミモザの香りが強く香って、そこで意識を手放した。

 目覚めると、そこにはもう彼女の姿はなかった。ただ、トランペットのケースの中に彼女がつけていたであろうシルバーのネックレスがマウスピースの横にさりげなく置かれており、くしゃくしゃに収納していたボクの譜面の端に、おそらく紅であろう薄い桃色で『感謝を貴方へ』との意が書かれていた。そのクシャクシャな紙を丁寧にたたみ直して収納、ボクはそっといつおどおりの日常へとハンドルを切った。


 それ以降もちろん彼女に会うことはなかったけれど……というありがちな語りを終幕に近づけながら、ボクは定刻を確認し、あの日とかわらないフォームで始めた。

 息を吸うたびに鮮明になってくるあの日の記憶に拍を乱されないように、今日は目を見開いた。街が見える。十八小節目で、ぽつぽつと街に動きが見え始め、気づく。ボクがあの街を起こしていたらしい。目覚める街を見つめ、視界が揺らぎ始める。いつもよりも少し顎が震えて演奏がしづらく、不安定な音符を安定させようと息が強くなってしまって、心なしか力強い演奏になる。焦る気持ちを、彼女の香りが落ち着けた。たまにはこういう情動的な演奏もいい。

 背中側から吹く風に託す、どうか彼女に、街で花を売るミモザの彼女にこの情動を届けて欲しい。そうしたら、きっといつか彼女はもう一度ここへきて、前みたいに自由に憧れた瞳で、演奏後のボクに花束をくれる。ボクはネックレスを君の首にかけるから、ほら、イエローとシルバーだって相性がいいと思うんだよ。色に意味を背負わせない君は、感謝の想いを持ったシルバーのことは嫌いじゃないでしょ?

 意図しない不恰好なビブラートのかかったフェルマータは、あんまり聴かれたくないような気もしたけれど、君ならきっと、好きだと言ってくれる気がして、ボクは今日強く君を待っていた。

 朝日が照り、灰汁色がボクの手の中で暖かそうにしていた。


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