第6話
拝啓、兄上様
肌寒さの増す頃となりました。兄上様におかれましては益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。
一昨日は薄氷が庭の池に張るほど寒くなっております故、僭越ながら兄上様と義姉上様に綿入れの羽織りを縫いました。
拙い心ばかりの品ではございますがお使いいただけましたら嬉しく存じます。
お心、お身体共にご自愛くださいますようお願い申し上げます。 敬具
筆を置き、一息つくと横にある包みが目に入ります。
兄上様には黒地に銀の市松模様の布で、義姉上様には山吹色に鮮やかな紅葉をあしらった布で、それぞれ作った綿入れの羽織り。お気に召していただけるでしょうか。
おもえばこの十年、あまりにも織田家にとって慌ただしい日々でございました。
父上が亡くなり齡十八にして家督を継いだ兄上様は尾張の平定に力を入れておいででしたが、織田家の家督を巡り争いが起こってしまいました。
父上の代からの織田家家臣とてそれぞれの考えがあります故、一枚岩とは参りません。兄上様のなさり方に反対なものも少なからずおりました。
家督争いに担ぎ上げられたのは信行兄様。気性は全くの逆のお二人でしたが兄上様も信行兄様もお互いを嫌っていたりはしておられなかったというのに……。
織田家の当主として、ひとたび家督の
兄上様がそれでもお心を壊さず瞳の色を曇らせずにいることができたのはひとえに義姉上様のおかげと確信しております。
そして昨年の五月、この尾張を揺るがす一大事が起きたのでございます。
勢力拡大のため
率いるのは二万五千もの軍勢、対して織田の兵力は三千。
家臣一同、余りに勝ち目の無い戦だと口には出さずとも半ば諦めかけておりました。
『今川義元は若いおなごを好むと聞きまする。織田が負けたとあらば……お市様は
……』
ある家臣からそんな話があがったと聞き、
もし負けたならば今川義元のもとに人質として嫁がなければならないのではと思っておりました。
今川義元は四十二歳。古くからある平安の公家風の装束を好んで身に付け、顔も青白く化粧をして、なまずのような髭をたくわえた風貌の武将だといいます。
思い浮かべただけで背筋がざわざわと泡立ちました。
わたくしの心配を他所に、すべてをひっくり返したのは兄上様です。
夜も更けた頃、清洲城にいらした兄上様は側近に
「出陣の準備をせよ。」
と一声かけて馬に乗り、家臣たちに伝令が伝わりきらぬうちに自ら出陣なさり慌てて追いかける家臣達と道のさなかに合流しながら兵を整えられました。
その後神器
天も味方したのでございましょう。吹き荒ぶ暴風と季節外れの
そのただ中を駆け抜ける織田の兵は、桶狭間山にてもはや勝ったも同然と祝杯をあげくつろいでいた今川の本陣を攻め落としてしまいました。
これは後に家臣に聞いた話なのですが──
熱田神宮で兵を前にいざ出立の際、兄上様の一言で士気が上がったと言います。
「貴様らは公家にかぶれた四十二の『白なまず』に市を差し出した方が織田のためなどと思うか?」
「断じて為りませぬ!!お館様!」
「何をおいても其だけは阻止致しましょう!」
「お市様は織田家の至宝、三河の公家なまずになど………っ!耐えられませぬっ!!」
「ふ……この点において皆思うことは一つであるようだな。
狙うは今川義元が首ただ一つ、何がなんでも討ち取ろうぞ!!」
「「「「「応!!!」」」」」
三千の兵の怒号混ざりの声に熱田神宮の本殿の方からも鎧兜の擦れる音がし、まばゆいほど美しい白鷺が飛び立ったというのです。
兄上様の大勝利には
大勝利の知らせを受け何か祝いの品をと考えて作り始めた綿入りの羽織りは思いのほか難しく時間がかかり、すっかり冬になってしまいました。
わたくしもいつかは織田のために何処かへ嫁ぐ日も来るでしょう。兄上様と義姉上様のようにお互いを支え合う夫婦になれたらどんなに幸せか……
こうしてまだもう少し夢見ながら考えるゆとりができたのでした。
兄上様 春夜如夢 @haruno-yono
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