第2話
兄上様には
わたくしが幼い頃に美濃から嫁いでいらしたそうで、花の咲くような微笑みをなさるお美しい方。
兄上様とお会いする機会がなく寂しく思っているときは帰蝶様がお部屋に招いてくださいます。
貝合わせをしたり絵巻物を見せてくださったり、少女らしい遊びや手習いを教えてくださったのも帰蝶様でした。
「帰蝶さまは兄上さまがお好きですか?」
九つになったわたくしが帰蝶様にそんなことを聞いたとき、大きな瞳をしばたいて驚いたご様子でした。
「本当はね美濃の父から、殿に……信長様に嫁げと言われた時に『お前の眼にかなわぬ時はその寝首かっ斬ってこい』と言われていたのよ。」
「ぇ、………ええっ!?」
「ふふっ、でも斬れなかったわ。悔しいけれど充分すぎるほど眼にかなってしまったから───」
そう言って輝く瞳の奥で兄上様の影を思い出されている帰蝶様はわたくしの眼にこの上なく眩しくうつりました。
「───あぁ~……では今は『大変お好き』なのですねっ!これで市は安心でございます。」
「あら、何か心配がおありだったの?」
「兄上さまは安心できるところが少ないと思っていらっしゃるので、帰蝶さまがお近くで兄上さまをよくつかまえていてくだされば良いのです。
そうすれば家を出ていったりはなさらないでしょう?」
「────っふふふっ……っそうね、はははっお市さまはもぉ、敵わないわぁ」
「帰蝶さま……これからは
「まぁ、嬉しい!」
「兄上さまをよろしくおねがいいたします。どこぞに飛んでいってしまわぬようにつかまえておいてくださいませ!」
「ふふふ、任せておいて」
そんなやりとりをして半月もたった頃、兄上様とお会いする機会が巡ってまいりました。
「久しいな市、息災であったか。」
兄上様はこの頃ぼろぼろの着物を着るのをやめて身なりを整えていらっしゃるようでした。
もともと精悍なお顔立ちなので、はっとするほど爽やかな若武者に見えます。
「はいっ兄上さまもお元気そうで何よりでございます。」
「あまり遊んでやれなんだ……。
しかしそなたも間もなく十になる歳。野山を駆ける遊びしか知らぬ俺と遊ぶのでは差し障りがあろうな。」
常々厳しい眼光で家臣たちを見渡す兄上様がわたくしには見違えるほど穏やかに話して下さる。その瞳はお優しい……それがたまらなく嬉しいのです。
「市は兄上さまがつれていってくださるなら野駆けでも鷹狩りでもよろこんでまいります。」
「ふ……大きく出たな、それはまた次にとっておくとしよう。
今日はな、帰蝶がそなたの話ばかりするので顔が見とうなったのだ。」
「うれしゅうございますっ!義姉上さまに市はよくよくたのんでおいたのです。」
「なにをだ?」
「義姉上は兄上さまを大変お好きなのがわかったので、つかまえておいてくださるようにとおねがいいたしました。」
「───そ、そなたは……なにを」
兄上様は口のあたりを忙しくうごかしているうちみるみるお顔に赤みがさしておりました。
「兄上さまを出ていかせないためには嘘なく兄上さまを好いてくださる方がたくさんいればいいのです。
義姉上さまは、市の頼みに『任せておいて』とおっしゃいました。」
目を伏せながら口元を手で隠した兄上様が深くため息をつかれました。
「何故そのような話を……」
「信用ならぬ方ばかりでは兄上さまが心休まる時がないではありませぬかっ!
義姉上さまならきっと兄上さまのお心を守って下さると市は思ったのです。
幼い頃、兄上さまは市のことは信じられると言ってくださいました。」
兄上様は視線をわたくしに向けて何も言わずに耳を傾けてくださいます。
「いつか───市は織田にとって最良となる方に嫁ぐことになりましょう。
そのときになって兄上さまのお心をお守りするものがいなくては、兄上さまとて壊れてしまいまする。ですから………」
兄上様は上座からすっくと立ち上がり、わたくしの小さな肩をつかむと胸の中にかき抱くように閉じ込めてしまわれました。
「嫁には、まだやらぬ。」
頭の上から降ってくる兄上様のお声は寂しそうで、わたくしは涙が溢れてしまいそうになりました。
「兄上さまは、ずるうございます………」
「そうか」
「……次はきっと鷹狩りに連れていってくださいませ」
「わかった。楽しみにしておれ。」
『兄上様には、自分にしか成し得ぬことを健やかなお心持ちで遂げていただきたいのです』
兄上様に大きな手で頭を撫でられながら、終いまで言わせてもらえなかったことを胸の内でつぶやいておりました。
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