兄上様

春夜如夢

第1話


 小高い丘の上にある太い木の、枝に腰掛けて心地よい風に吹かれたあの日


 兄上様は幼いわたくしの話を聞いて

 泣きそうな顔でくしゃりと笑った。









 わたくしは織田家に生まれた末娘。

 父上、母上は可愛がって育ててくださった。

 戦乱の世においては精一杯の愛情を受けたのだと自負している。


 ただ、それは織田家の娘という範囲での話


 ただの少女として、子どもとして楽しく遊んだ記憶にはいつも兄上様がいた。


 織田家の嫡男、信長は稀代の大うつけ

 そう言われていた兄上様はよくぼろぼろぼろの薄汚れた着物を着て酒の入った瓢箪ひょうたんをぶら下げていた。


 他にも兄姉はいても、わたくしに構ってくれたのは一回りも歳の離れた兄上様だけだった。





「あの樹に登るとないろんなものが見えるのだ、ついてこい!」


「はいっあにうえさま!」





「あぁぅ、あにうえさまっ!へびっ、へびがおりまするぅ~っ!」


「お、まむしか。でかしたぞいち!こいつは酒に漬けると売れるのだ」




「わぁ、あにうえさまっ!かぜがここちようございますねっ」


「──なぁ、市よ……生きるとはどういうことなのであろうな……。

 飯を食らい、眠り、糞を垂れて

 一日をただ過ごすことを生きるというなら獣と変わらぬ。

 この身にしかできぬことを己の全てを掛けてやりきってはじめて生き抜いたと云える。

 織田の家は俺には息苦しくてな、どいつもこいつも偽りばかりで信用ならん。」



「いちもでございますか?」



「そなたは、信用できる。


 ……市がおらなんだら俺はとうに織田家から出ていったであろうなぁ。」


「そんなっいやでございますっ!

 いちはっ……いぢはっぁ゛あ゛にう゛ぇさまとぉ

 う゛えええん」


「こぉら泣くでないわ、今出て行かずに側に居るであろうが。」


「……ひ……っ……くっ……あにっうえっさまっどこにもいきっ……ませぬか?」


「ああ、市がおるからいかぬ」


 わたくしの頭を撫でる兄上様の眼は優しい。

 嬉しくて涙も止まり口元に笑みがこぼれる。



「そなたは好きに生きたいとは思わぬのか?」


 流れる雲が優しい瞳に影を落としたとき兄上様はわたくしに言った。





「ほんとうは、もっと……あにうえさまと、まいにち───たくさんあそびとうございますっ……」




「俺と遊ぶことが好きに生きることか」



「はいっ」



「…………敵わぬなそなたには」



 後にも先にもあれ程に泣きそうな兄上様の笑顔を見たのは初めてでございました。







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