優しい音

飛鳥休暇

ひきこもりの息子

幸生こうせい、ご飯、ここに置いとくから……」


 わたしはいつものように部屋の外から声を掛ける。


 中から返事は返って来ない。

 ただカチャカチャとパソコンを触る音だけが鳴り続いている。


 わたしはいつものようにほんの少しだけため息をついてから一階のリビングへと降りていく。



 夫は今日も帰りが遅いのだろう。

 残業で、なんて言ってはいるが、きっと家に帰って来たくない言い訳だろう。


 わたしは綺麗に敷かれたランチョンマットの上に、自分のぶんだけの食事を並べる。


 家族そろってテーブルを囲んだのは、もう何年前の話になるだろう。


 わたしが味噌汁をずずずとすすっていると、ドアが激しく閉められる音が二階から聞こえてきた。


 息子の幸生が、きっとゲームかなにかで負けて不機嫌になっているのだろう。


 いつものことだ。


 わたしがまた一つため息を味噌汁のお椀に吹きかけると、沈殿した味噌が椀の中で微かに舞った。




 幸生がひきこもるようになったのは小学校三年生の頃だから――もう十年も前になるか。


 聞くところによるとクラスメイトに「臭い」と言われたのが原因だったらしい。


 それがきっかけで徐々に不登校になった息子は、三年生の後半から完全に学校に行かなくなった。


 はじめの頃はわたしも夫も、担任の先生も、なんとか彼を登校させられないかとあの手この手を使ってみた。

 しかしその度に幸生は癇癪かんしゃくを起し、最終的には自傷行為や暴力行為にまで至ったため、ついにはわたしたちが折れる形で彼の籠城ろうじょうを許したのだ。


 中学に上がる年齢になる頃に買い与えてやったパソコンが、彼をさらに開かずの間の住人にしてしまった。


 今では会話もほとんどなく、部屋から漏れ聞こえるキーボードを叩く音で生存確認をしている程度だ。


 わたしたちが寝静まった頃に、彼が部屋を出て冷蔵庫をあさっているのは知っている。


 ただ、声を掛けると烈火のごとく怒りだすのが目に見えているので、わたしは気付かないふりをしているのだ。



 そんなある日、いつものように彼の部屋の前に食べ終わった食器を取りに行ったときだ。


 食器の下にノートの切れ端のようなものが挟まっていた。


 見てみると、歪んだひらがなで「ふくかってきて」と書かれていた。


幸生こうせい、新しい服が欲しいの?」


 部屋の外から声を掛けてみるが、中からはいつもと変わらずキーボードやマウスを叩く音だけが聞こえてくる。


 しかし、久しぶりに息子が自分からコミュニケーションを取ろうとしてくれたのが嬉しくて、そのノートの切れ端を大事にポケットにしまいこんだ。



 その日のうちにデパートにおもむき、若者向けの服を売っている店を探した。


 どれがいいかと色々手に取って悩んでいると、長髪を後ろで縛った男性店員が「何かお探しですか?」と声を掛けてきた。


「あ、あの、息子の服を探してまして……」


「息子さん用ですね。おいくつですか?」


「いま……十八、ですね」


「高校生くらいですね。どういった系統がお好きとかありますか?」


 何気なく発せられた「高校生」という言葉にほんの少し心臓が痛む。


「いや、どういうのがいいか分からなくて……」


 あの子はどんな格好をしていただろう。

 家にいる時はほとんどTシャツにジャージのような格好をしていたような気はするが。


「なるほど。そうですねぇ、いまの流行りだとこちらに飾ってあるようなのが結構人気ありますね」


 そう言って長髪の店員が近くにあったマネキンを指さす。


「じ、じゃあこれ一式もらえますか?」


 慌てた様子で答えたわたしに対して「即決ですね」と店員が笑う。


「えーっと、息子さんのサイズって分かりますか?」


「……サイズ」


 わたしは深夜に見かけた幸生の体格を必死に思い出す。

 冷蔵庫を漁っていた彼の後ろ姿から推測すると、夫とほとんど変わらないように思えた。


「たぶん、Mサイズで大丈夫だと思います。身長は百七十センチちょっとくらい、かな」


「分かりました。それではいまご用意しますね」


 見た目からは想像できないほど人懐っこい笑顔を見せてから、店員がバックヤードに消えていった。


 わたしはほっと胸を撫でおろし、いま買う予定の服を着こなすマネキンに目を移す。


 これが幸生だったら、と想像する。


 ――似合うだろうか。

 ――気に入ってくれるだろうか。



 ******



 家に帰ってから、買って来た服が入った袋を幸生の部屋の前に静かに置く。


 ドアをノックしてから「服、買って来たよ。店員さんに聞いたらいま流行ってる服なんだって。……気に入らなかったらまた言ってね」と声を掛ける。


 相変わらず返事はない。


 わたしはそのまま刺激しないように、静かに階段を下りた。


 しばらくして、いつものようにバタンと大きな音を立ててドアが閉じられたので、服はちゃんと彼の手に渡ったようだった。




 数日後、驚くべきことが起きた。


 夫が出勤したあと、風呂場からシャワーの音が聞こえてきたのだ。


「……幸生?」


 洗面所から様子を伺うと、そこには確かに息子の幸生がシャワーを浴びているのが確認出来た。


 普段であれば風呂に入るのも月一回か二回あればいいほう、それもわたしたちが寝静まった深夜に隠れて入っているような彼が、こんな時間からシャワーを浴びている。


 わたしは驚きつつも、彼を刺激しないようにゆっくりとリビングに戻った。


 水音が止まり、代わってドライヤーの音が聞こえてくる。


 ほどなく、洗面所から出てきた彼の姿を見て声が出そうになった。


 わたしが買ってきたあの服を着ていたからだ。


 久しぶりにはっきりと見た息子の顔は、同世代の男の子からすればどこか幼いようにも感じたが、服装も相まってしっかりとした青年に成長しているようにも見えた。


「……おこずかいちょうだい」


 あぁ、そうか。あなたはこんな声をしていたのか。

 怒鳴り声でない息子の声を聞くのも初めてのような気がした。

 わたしはあなたの声変わりの時期すら知っていないのだ。


 しばし呆けていた私の顔を幸生がじっと見つめてくる。


「あ、あぁ、おこずかいね。……幸生、どこか出かけるの?」


「……オフ会」


 オフ会とはあれだ。ネットで知り合った人と会うことだったはずだ。


 わたしは急いでカバンから財布を取り出し、入っていた二万円をそのまま幸生に手渡す。


「大丈夫? 足りる?」


「……分かんないけど。……うん」


 そう言って幸生は貰った札をそのままポケットに突っ込んだ。


「……ねぇ、母さん」


「うん?」


「……おれ、臭くない?」


 その言葉を聞いた瞬間、涙が出そうになった。

 なんとか歯を食いしばりぐっとこらえる。


「……ないよ。臭くなんてないよ」


 震える声でそう答えると、幸生は口を尖らせてからゆっくりと頷いた。


 そのまま振り返って玄関のほうへと向かうので、わたしも後をついていく。


「あ、靴」


 玄関の前で立ち止まった幸生がぽつりとつぶやく。


「あぁ! そうよね! 服が要るなら靴も必要だったわよね! お母さんうっかりしてたわ……」


 ふがいない自分が嫌になる。どうしてそこまで頭が回らなかったのか。


「ごめんね、幸生。あ、お父さんが普段履いているスニーカーがあるわ。今日は、それでもいい?」


 わたしの言葉に、幸生が黙ってうなずく。


 夫のスニーカーを下駄箱から取り出し、幸生の前に置いてやる。


 幸生は腰を落とし、もそもそとスニーカーに足を入れた。


「……じゃあ、行ってくる」


「気を付けてね。何かあったらすぐに連絡してきてね」


 わたしが言い終わるか終わらないかというところで、玄関のドアが閉じられた。




 それから。


 待っている間は気が気でなかった。

 オフ会とはどこでやっているのだろう。

 どんな人たちが来るんだろう。

 そもそもあの子は電車の乗り方が分かるのだろうか。


 心配と不安で心がいっぱいになり、家事の一切が手につかなかった。



 夜も深くなり、そろそろこちらから連絡してみようかと考えだした頃、玄関のドアが開く気配がした。


 わたしが急いで玄関に向かうと、スニーカーを脱いでいる幸生の背中が見えた。


「おかえりなさい」


 声を掛けるが返事はない。


「楽しかった?」


 すっと立ち上がり振り返った幸生は、目を合わせずに「うん」と答えた。


「そう。……良かったね」


 幸生はわたしの横を素通りし二階へと続く階段へと向かう。


 階段を数段上ったあたりで、ふいに幸生が立ち止まる。


「……服。ありがとう」


 それだけ言うと、幸生は再び階段を上り始める。


 わたしは必死に涙をこらえる。

 せめてあの子が部屋に入るまでは。


 しかし思考とは裏腹に、いつしか頬には熱い涙がつたっていた。


「こ、今度は靴も買ってくるからね!」


 二階に向かって叫ぶように声をかける。


 返事はなかった。



 しかし、二階から聞こえてくるドアの音は、いつもよりとても静かなものだった。





【優しい音――完】

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