本当に大切なもの

 その男は、不機嫌さを隠しもせずに盛大なため息を吐き出しながらやってきた。朝早くと言っていい時間の、役所の会議室の中。寮と同じ理由でか、扉も天井も全てが大きく作られているその部屋で尚、その男の威圧感は以上だった。

「はぁ……。来てやったぞ、シルフィー。わざわざ朝からしかも会議室まで取って、何の話だ」

 大きな翼を背中に生やし、皮膚は青銅色の鱗に隙間なく覆われている男。話には聞いていたが、こうして目の前にすると威圧感に足が竦みそうになる。

 これがシルフィーさんの上司、ドルグライフと言う名の竜人だ。歳は老齢……メイヤーによると『おいぼれ』らしいが、威圧感は俺の知る老人のそれとは程遠い。どこか疲れを感じさせる声色ではあるけれど、それも落ち着きと凄みに感じてしまう。

「それから、そこのヒューマンはその話に関係があるのか?」

 ギロリ、と爬虫類によく似た縦長い瞳孔の黄色い瞳が、まるで品定めをするようにこちらを向く。朝っぱらから職場に着くなり会議室に呼び出されたからか、それとも自分のテリトリーに俺のような見知らぬ人間が居るのが気に食わないのか。

 推測するにその両方からくる不機嫌さが、その瞳に奥から垣間見えるような気さえする。今にも燃やし尽くされてしまいそうなほどの緊張。ひと晩かけてしっかりと打ち合わせをしてきていなければ、緊張で何も言えなくなっていただろう恐怖心。

 だけどそんな俺の視界を、長い銀色の髪がふわりと舞い、彼との視線を遮るように立ちふさがった。

「お時間を取って頂いてありがとうございます。こちらの彼はケースワーカー候補生で、今回の話にも関係があるので同席してもらっています」

「ユウトです。昨日から、候補生としてお世話になることになりました」

 大袈裟なくらいに深く頭を下げて、俺は新人のような挨拶を口にする。いや、事実この役所の内部には初めて足を踏み入れる新人なのだから、特に間違ってはいないのだけど。

「候補生だと? なんだそれは。そんな話、俺は──」

「昨晩、決まった話ですので。所長より、人員増強のためのケースワーカー候補生を連れてくる許可は頂いていますので、問題ないかと思いますが」

 有無を言わさぬシルフィーさんの口調。後ろからなのでその表情は見て取れないが、恐らくはいつもと変わらない凛とした表情なのだろう。

「……それくらいは知っている。俺はただそいつが何なのか確認したかっただけだ」

「これからよろしくお願い致します」

「二度も言うな。ふん、せいぜい頑張ることだな。……それで? まさかそいつの紹介のために会議室まで抑えたわけではないのだろう?」

 ドカリ、と大きな音を鳴らしながら、ドラグライフはそうするのが当たり前とでも言うように椅子に腰を下ろした。嫌味な奴だ。メイヤーやシルフィーさんが嫌いだと言っていたのも頷ける。

 だがシルフィーさんは、そんな態度はおくびにも出さない。本当なら眉の一つもひそめたいだろうに、鈴の音のような涼しい声で言葉を返した。

「ええ、もちろんですとも。今日のお話は昨夜、私が提出した新規の保護申請について、訂正と新しい情報を付け加えた上で、改めて説明をさせていただければと思いまして」

「訂正だと?」

「はい。昨日はアルラウネの子供、とお伝えしたと思いますが、あれは誤りでした。今朝、改めて聞き取りを行ったところ、既に成人を迎えている年齢だと分かりましたので、訂正をしていただければと」

「……ふざけているのか、シルフィー。お前ほどのエルフが珍しい種族とは言え、年齢の見積もりを誤るものか」

 竜人の声色が変わる。先程までの、不機嫌ながらも怪訝そうな声色ではなく、明らかな怒りを滲ませた声へと。こうなれば、もう後には引けない。俺たちの目的は、きっとこの男には全てバレている。

「私を高く買っていただけるのは嬉しいのですが、そのまさかです。外見から思い込み、先走って聞き取りを怠ってしまった……。全ては私の不徳の致すところです」

 だからこそ、シルフィーさんが出来ることはたった一つ、開き直ることだけだった。目的が予想されても、決定的な証拠がなければ構わない。明らかな嘘だろうと、嘘だと認めなければそれは嘘にはなりはしない。

「……本当か? もしもそれが事実なら、お前の査定にも響くんだぞ」

「事実です。彼に指摘して頂いたおかげで、誤りに気がつくことが出来ました」

「……なるほど、な。ではそこのヒューマンも、聞き取りの場に一緒に居たわけか。では、ふむ……主な聞き取りはどちらが行ったのだ?」

 それはきっと、シルフィーさんの上司であるにも分かっているのだろう。査定の話を出したのは、彼の出来る最大限の脅しだ。だけど俺も、そしてシルフィーさんも。そんな脅しで態度を変えるくらいなら、最初からここに来たりしない。

「私です。彼には同席してもらい、共に聞き取りとそして確認を行ってもらいました。申請に疑義が生じた際には、こうするのが決まりですので」

「二人で確認をした? なにをバカなことを。君のような候補生に今日なったばかりの男とが、一体どんな責任を負えると言うのだ。バカバカしい、そこまで言うなら俺が直接サンドラ寮まで──」

「本当にいいんですか? 自分の目で真偽を確かめて」

 言葉とともに炎を吐き出しているのではないかと錯覚するほどの声を、俺は途中で遮るようにそう言った。怒りに瞳孔を大きく開いた瞳が、俺を燃やし尽くそうとするように睨みつけてくる。

 だが、そんなことは想定通りだ。この男の性格を鑑みれば、こんな流れは火を見るよりも明らか。それに、いくら怒れる竜人とは言っても、俺を刺殺した狂人の目に比べれば十二分に理性的に見えてしまう。

「……どういう意味だ」

「いえ、確かに自分の目で確認するのが一番でしょう。そうするのが、最も責任を取れる立場になるのですから」

「どうしてそうなる。俺がこの目で見て判断をすればそもそも……」

「そう、自分の目で確認して行動を起こせば、必ずそこには責任が生じます。例えばの話ですが、クレームを言ってくる親に引き渡した子供に身の危険が及べば、それはその判断をした人間の責任が問われる。だけど今のままなら……」

 何も知らないことが、最も責任を取らず済む。当然だ、何も知らなかったのだから。部下がやった、秘書がやった。そんな見え透いた言い訳で、責任なんて簡単に押し付けられる。それは係長と言う立場を鑑みたとしても、基本的には変わらない。

 官僚制組織とはそう言うものだ。形式的で恒常的な規則に基づいて運営されて、上から下へと伝わるトップダウン型の意思伝達システムを持つ。組織は専門的に分化され、分業のメリットと共に縦割り型の組織構造を持つ。

 強固で安定している代わりに前例踏襲による保守的な傾向や、権威主義的な方向に進みやすい逆機能を持つ。官僚制組織とその逆機能、こんな学説を提唱したのは誰だったか。公務員試験でやった以来だから忘れてしまったが、まさかここまで実態に即していたとは思わなかった。

「なにを、バカな。仮にそうだとしても部下の行動を確認しなかった上司への責任はどうなる。しかもシルフィーならともかく、お前のような新人の行動も監督しないなどあり得ないだろう」

 そして目の前にいる竜人は、その逆機能の象徴とも言える存在だ。だからこそ、責任を増やす行動は取ろうとはしない。俺のような彼からすればどこの誰とも分からない新人の言葉を、笑い飛ばすことも出来やしない。

「確かに理屈の上ではそうです。だけど、俺の名前は書類の上ではどこにも現れない。あくまでも疑義が生じた際の聞き取りに二人で立ち会うというのはこの事務所内の慣例です。明文化された法律ではないから、書類にはシルフィーさんの名前しか載らない。……そうですよね、シルフィーさん」

「ああ、そうだ。事務所内を回覧する書類にはユウトの名前も載るが、あれは公文書ではないただのメモのようなもの。仮に開示請求が来たとしても提出の義務はないのだから、書類の上では私が判断したということになる」

 シルフィーさんに話を振ると、彼女は小さく微笑みながら俺の言葉を補強してくれた。事前の打ち合わせもある程度はあるけれど、会話の流れ自体はアドリブだ。けど、不安はない。シルフィーさんなら、俺がどんな流れに話を持っていきたいか分かってくれているはずだから。

「そしてあなたがさっき言ったように、ベテランであるシルフィーさんの判断を疑わず審査を通したとしても、誰もあなたの責任を追求したりなんてしない。アルラウネの子供に関する問い合わせにも、なにも答えられるはずがありませんから」

 だから、あと一歩。俺は目の前に居る竜人が冷静さを取り戻す前に、話を締めくくりにかかる。これに彼が頷けば、それで俺たちの勝ちだ。しかし、目の前の竜人は数秒ほど考え込むように黙り込むと、

「……だがそれは、お前の候補生としての扱いに所長が決裁をしてからの話だろう? 正式な発令が下りるまでは、お前はただの一般人だ。それとも、五日前から街の反対側の議会まで出張に出ている所長の決裁印が、ここにあるとでも言うのか?」

 そんな、決定的な一言を口にした。

「それ、は……」

 思わず言葉を詰まらせて、俺は密かに歯を食いしばる。これだけは気が付かれたくなかった。これに気が付かれては、今までの理論自体が破綻してしまう。彼の言う通り今の俺はただの一般人でしかないのだから。

「……所長の許可は頂いています。決裁書類はすぐにでも……」

 所長の許可は取り付ける算段がついていると、シルフィーさんは言っていた。だが正式な発令が下ったという書類は、今のこの場にはまだない。そしてこの場になければ、その効力は当たり前だが発揮されない。

「この国は文書主義だ。所長が許可を出すと決めたのがいつなのかは知らないが、印を押した日付以前の彼の行動は公的な裏付けを得られない。……その意味が分からないお前じゃないだろう」

「裏付けが得られなければ……私が行った聞き取りの効力は発生しません。つまり……」

「この訂正自体が白紙に戻るというわけだ。となると、訂正を行う場合は再び二人以上で聞き取りを行う必要がある。……すぐにでもな。そうだろう?」

 その言葉への返事すら出来ず、シルフィーさんは赤い唇を噛み締めて俯いてしまう。当たり前だ、彼の言葉に俺たちは肯定も否定もできないのだから。だって彼の言っていることは、間違いなく正論なんだから。

「そう、かもしれねぇ……」

 そう、正論だ。全てが正しく、理としては一部の隙も見つからない。公務員としてあるべき姿、官僚制組織の体現。それがこの長い年月を生きてきた竜人の言葉だ。

 だが──。

「正論で……人は救えないんだよ。俺はただ、あの子を助けたいだけだ。路地裏で一人震えていたあの子に、ちゃんとした幸せな生活を送ってもらいたい。ただ……それだけなんだ。そのための福祉じゃなくて、何だって言うんだよ」

 黙っておこうと思っていた。こういう事を言っても、冷笑されてばかりだったから。凄いね。やる気あるんだね。いいんじゃない。そんな言葉と冷ややかな目に晒されるのは、もう嫌だって思っていた。

「ユウト……」

 だけど、シルフィーさんが隣りにいてくれた。俺が取った小さい手のひらを、救いたいと言ってくれる人が居た。いや、シルフィーさんだけじゃない。メイヤーもニシキさんも同じだった。一緒にディメルノを助けてくれた。だから──。

「ディメルノの保護を認めるって言うまで、この部屋からは出て行かせない。もしも触れば暴行されたって大騒ぎしてるからな」

 扉の前に立ちふさがりながら、俺はハッキリと顔を上げてそう言った。竜人の表情が歪み、目が大きく見開かれる。

 分かってる、こんなことをしても無駄だって。公務員として正しい行いでないことも、この竜人相手なら腕の一振りで俺なんて吹き飛ばされることも分かっている。だけどそれでも、ただ待っているなんて出来なかった。

「私も、同じ気持ちです。助けられる命がそこになるのなら、この手が届くのならば助けたい。……それが、福祉の理念の根幹だと私は信じている」

 そんな俺の気持ちと、シルフィーさんが同じことを考えていたのかは分からない。だけどシルフィーさんもまた、まるでそうするのが当然みたいに俺の隣に立ってくれていた。

 銀色の髪が魔力灯の明かりに照らされて、夕日のような橙色に染まる。チラリとこちらを見たその表情は固いまま。けれどそこに、絶望の色はもう見つからない。それどころかその口元は、どこか吹っ切れたような笑みを浮かべていた。

「福祉の理念の根幹、か……」

 竜人は立ちはだかる俺たち二人を見て、どこか感慨深い声を出しながらため息を吐き出した。それはまるで長年の捜し物を見つけたような。それでいて、見たくないものを見せつけられたかのような。そんな複雑な感情の籠もった声を吐き出して──。

「それは役人としての基本的なことが出来てから言うべきことだ。形式すら整えられない今の状態では、ただの子供の我侭と変わらない」

 俺とシルフィーさんと、そして自分自身の言葉を吐き捨てるようにそう言った。

「……は?」

「子供の我儘だと言ったんだ。情熱だけでは仕事にならん。役人として仕事をしている以上は、ルールに則った仕事でなければ何の価値もない」

「ふざ、けんな……」

 歯を食いしばり、拳を握りしめる。手のひらから血が出てるんじゃないかと錯覚するほどに強く、怒りを全てそこにぶつけるように。

 殴りかからずに済んだのはきっと、ディメルノの姿が思い浮かんだからだ。俺がここで怒りに身を任せて殴りかかったとしても、彼女は決して救われない。それどころか返り討ちにあった俺の傷に、きっとあの心優しい子は心を痛めてしまうだろう。

「それなら、もしも……。もしも所長の印が昨日のうちの押されたものなら問題はない……。そういう理解でいいんだな?」

「ああ、その通りだ。だが所長は出張に出ていて、そんなものは──」

 ない、とでも言おうとしたのだろうか。しかしその言葉は、窓の外から聞こえてきた大きな羽ばたきの音によって、最後まで紡がれることなくかき消されていた。

「わわっ、ドラゴさん危ない!!」

 穏やかな春の陽気に合わせてか、開け放たれていた窓。そこから飛び込んできたのは、見覚えのある俺にとっても聞き覚えのある。いや、忘れられるはずもない、この世界に来て初めて聞いた人の声だった。

 焔のように赤い髪と漆黒の翼。二の腕から先は全て真っ黒い羽で覆われていて、その翼を大きく広げてなんとか勢いを殺すと。その少女は大きな鉤爪のついた足を床にそっと下ろした。

「……ガルーダ急便の社員……だと?」

「はい、運べるものならなんでも配達!! 疾風迅速がモットーのガルーダ急便ですよー。ってそれよりシルフィーごめん、待たせた?」

「……全く。遅刻だぞ? ノスリ」

「ごめんごめん、これでも大急ぎで飛んできたんだから許してよ。って言うかこんな無茶な依頼、シルフィーとメイヤーからじゃなきゃ絶対断ってるんだから」

 窓から飛び込んできたノスリさんの姿を見て、シルフィーさんはどこか力が抜けたような笑みを浮かべる。ガルーダ急便。この街の配達業務の一角を担う、有翼人種の企業。その社員であるノスリさんが来たと言うことは、

「ああ、それは感謝しているよ。ギリギリだが、間に合った。ありがとう、ノスリ」

 俺とシルフィーさんが事前に想定し、そして備えていた策が届いたということだろう。

「俺からも、ありがとうございますノスリさん」

「どういたしまして、ユウト。メイヤーから聞いたよ? 色々と、頑張ったみたいじゃん」

 彼女にどこまで話が通っているのかは分からない。話をしたのはシルフィーさんだから。だが、どこか頼れるお姉さん肌のノスリさんに褒められるのは、素直に嬉しく感じてしまった。

「いや、俺なんて全然……」

「ふふっ、なにを言っているんだい? 君が居なかったら、そもそも私はこのスタート地点にすら立てなかったんだ」

 そう、これはあくまでもスタート地点。まだドラグライフを止められたわけでも、ましてやディメルノを救えたわけでもない。だけど少なくとも、その見込は立った。

「おい、何の話をしている。そもそも窓から飛び込んで来るなんて非常識な配達を──」

 シルフィーさんはノスリさんから手渡された書簡を開くと、その中身を確認してから竜人の言葉を遮って、しかし丁寧にその書類を差し出した。

「どうぞ、確認してください。昨日付の所長印が入った決裁書です」

 シルフィーの目線を受けて、ドラグライフの不満を表すように一度だけ唸ってから、恐る恐るといった様子で書類を受け取って視線を落とした。それから彼はその中身を一字一句を確かめるように時間を掛けて確認すると、その書類をそっと丸めてから口を開く。

「……確認した、間違いはないようだ。お前……ユウトと言ったか、は昨日付けでケースワーカー候補生としてうちの職員になったという通知だ」

「……と言うことは」

「ああ、お前ら二人が行った聞き取りは有効になる。……癪だがな。そしてその上で、お前らは俺に目をつぶれと言っているんだな?」

「そうするのが、最も責任を負わずに済むのでは……と、言っているだけですよ。そしてそれだけで、一人の小さな命が救われるのです」

 シルフィーさんが、念を押すように言う。何も迷惑は被らないのだから、何も言わずに引いてほしいと。数秒、その竜人はその黄色い目をシルフィーさんに向けて、そして結局は大きなため息を吐き出してから歩き出した。

「……はぁ。もういい、分かった。そこまで言うのなら、お前らの思惑に乗ってやる」

「え、それって」

「昨日止めた申請はすぐに通す。あとは好きにしろ。ただし……バレないように上手くやれ。今回のことだって、最初から俺なんかに相談せず勝手にやればよかったんだ。あと、俺は今日この会議室には発令書の確認に来ただけで、何も聞いていないからな」

 鼻を鳴らして歩き去っていく老齢の竜人。ドラグライフは俺とシルフィーさんの間を割るように歩いていき、扉に手をかけてから──。

「ユウト、入ったばかりということで今回だけは見逃すが、目上の相手には敬語を使え。……それくらい出来なくては、役所でやっていけんぞ」

 そんな捨て台詞を残して、来た時と同じように大きな音を立てながら扉を閉じて去っていった。その姿を、俺たちはただ唖然と見送るしか出来なくて。たっぷり数秒は経ってから、俺とシルフィーさんは顔を見合わせて。

「やった……? やったよシルフィーさん!!」

「ああ、やった……。やったんだよユウト!!」

 手を握り合い、二人揃って子供みたいに飛び跳ねていた。やった。本当にやったんだ。言葉にもした、そんな簡単なことしか考えられないくらいに嬉しくてたまらない。

 シルフィーさんもまた、いつもの冷静でどこか余裕のある笑顔ではない。夏の日差しの中に咲くひまわりのような満面の笑みを浮かべていて、その笑顔もまた遅れてやってきた実感に拍車をかける。

「これで……」

「ああ、ディメルノは保護できる!! それに成人として保護をすれば、あの寮に居てもらうことも出来るだろう。まだあの子の心の傷も残ったままで、今すぐに安定した生活を送らせてあげることは出来ないかも知れないけど……」

「でも、身の安全は保障できる。それだけで、今は十分だ。それから先のことは、これから頑張っていくしかないんだから」

 まだ全てが解決したわけじゃない。ディメルノの父親はまだこの国に居て、ディメルノの身の安全を考えるのであれば行動も制限されるだろう。だけど少なくとも、あの子が恐怖と暴力に晒されることは、もうない。

「よかったね、二人とも。子供を助けるためだったんでしょ? 急いでかっ飛ばしてきた甲斐があったよ」

 そんな俺達を、どこか温かい目で眺めながら、ノスリさんは楽しげに笑った。昨夜、この作戦を思い付いた夜中の呼びかけに応えてくれて、早朝の配達を二つ返事で請け負ってくれた彼女が居なければ、今俺達はこうして笑いあえてはいなかった。

 夜の内にシルフィーさんが作った書類を受け取って、まだ日が昇るか昇らないかの内に出張で街の反対側に居た福祉事務所の所長まで書類を届けて、そしてきっと大急ぎで戻ってきてくれたのだろう。それは表情にこそ出さないけれど、乱れた羽を見れば分かる。

「ああ、ノスリさんもありがとう。もしもあれが間に合わなかったら……」

「そうだな。改めて、ありがとうノスリ。君のおかげでまた助けられたよ」

「あはは……面と向かって言われると少し恥ずかしいけど……。うん、でもまあ、どういたしまして」

 恥ずかしさを誤魔化すように、それでいて隠しきれない嬉しさが溢れ出したような苦笑をノスリさんは浮かべる。その笑顔に俺とシルフィーさんは顔を見合わせて、そして笑い出しそうなのを堪えてから、シルフィーさんは柔らかい笑顔を浮かべて口を開いた。

「それから、君にも感謝の言葉を。君が居なければ、私はあの子の存在すら知ることは出来なかっただろう。今回のことは、全て君があの子の手を取ってくれたから、なし得たことだ。だから……ありがとう、ユウト」

「いや、俺なんてなにも……シルフィーさんのおかげで、ディメルノを助けられた。俺一人だったら、きっとなにも出来なかった」

 偽ることのない素直な気持ち。彼女が居なければ、きっと俺は何も成し得なかっただろう。もしかしたら、それこそ誘拐犯として扱われることすらあり得たかも知れない。それくらいに、シルフィーさんの存在は不可欠だった。

「本当に……ありがとう」

 そう口にして、深緑の瞳と見つめ合う。吸い込まれてしまいそうな程に透き通った宝石の瞳。喜びからか目尻に涙を讃えたその瞳は、いくつもの光を反射してその輝きをより一層強めていく。

 ずっと見ていたい。その瞳から、目を逸したくない。こんなにも美しいものから、目を逸らすことなんて出来るはずがない。そんなことを俺は頭のどこかで考えて、

「ちょっと二人とも。情熱的なのは構わないけど、私が居るってこと、忘れてない?」

「うわっ!!」

「ひゃわ!?」

 呆れた声色で掛けれたその声に、繋いでいた手を離してお互いに飛び退いていた。

「うわ、そんなに驚くなんて思わなかった。しっかしまさか本当に忘れられてるとは……流石に少しショックだなぁ」

 わざとらしく肩をすくめて苦笑するノスリさん。口でこそショックだと言っているけれど、彼女の金色の目は楽しげに細められている。もうどう見ても明らかに楽しんでいるのだが、しかしどちらにしてもその誤解は解かなければならないと、俺は慌てて口を開く。

「いやその、これは違うんだ。情熱的とかそういうんじゃなくて、単に嬉しさを分かち合う儀式と言いますかお約束と言いますか様式美と言いますか」

「そ、そうだぞノスリ。これはただその、上手くいったことが嬉しくてだな。べっ、別にユウトとなにかあったわけじゃ……」

「あーはいはい、まあ言い訳はいいからさ。でもユウト、シルフィーには気をつけるんだよ? こんなに可愛い顔しておきながら思い切った時の行動力は──」

「ちょっとノスリ!? ユウトにこれ以上、変なことを吹き込んだらどうなるか分かっているだろうね?」

 数日前に福祉事務所で見たような、二人の力関係がなんとなく分かるやり取り。きっと昔からこんな感じなんだろう。まあシルフィーさんって見た目とか話し方に反して中身は割と幼いところがあるから、からかい甲斐があるのは分かるけども。

「あー、ごめんごめん、ちょっとした冗談だって。それじゃ私は怖いエルフのお姉さんが居るからさっさと退散するよ。またね、ユウト。あと役所の仕事、頑張ってね」

 けどノスリさんは思っていたよりもアッサリと引き下がって、窓の方へと歩いてく。

「あっ、はい。ありがとうございました」

「どういたしましてー。シルフィーも、あんまりユウト君のことイジメちゃ駄目だよー?」

「なっ、そんなことしないよ!!」

 怒ったシルフィーさんの声に、ノスリさんは手……と言っていいのか分からないが、手をひらひらと振ると、入ってきた窓からそのまま外に飛び出していった。……いや、扉から帰らないのかよ。

「……ふぅ。ようやく落ち着いたね」

 だけどそれにツッコみたいのは俺くらいなようで、シルフィーさんはどこか感慨深い吐息を吐き出した。それに窓から帰るんだな、と言う気も起きなくて。俺は横目に彼女の綺麗な銀髪とそして横顔を眺める。

「これ、聞いて良いのか分からないんだけど……。シルフィーさんって、昔なにしたんだ? なんかメイヤーもノスリさんも色々と言ってたけど……」

 なんだかシルフィーさんの昔馴染みに会った時は、いつも昔のことでいじられている気がする。単にシルフィーさんがいじりやすいキャラだからなのか、それとも本当に昔何かをやらかしたのか。

 そんな単なる興味本位で聞いただけだったのだが、横目に見えるシルフィーさんは思い切り言葉に詰まったように固まっていて。それから真っ赤な顔で真っ赤な目を、恨めしそうな上目遣いでこちらに向けてきた。

「か、彼女たちの言うことは忘れてくれ……。別になにかしたわけじゃないんだ。ただこう、エルフの里から出たばかりの私は少しばかり、常識を知らなかっただけでね……」

「あはは……なるほど。いやまあ、なんとなく想像は付くけどさ……」

「う、もしかして変なこと考えてないかい? 違うよ? 別に犯罪を犯したわけではないんだ。ユウトなら……し、信じてくれるよね?」

 可哀想なくらいに慌てるシルフィーさん。可哀想、というよりもハチャメチャに可愛いのだが、こうも不安がられると流石にからかったりもし辛い。上目遣いとか潤んだ目とか少しだけ尖らせた唇とか、その何もかもが可愛らしい。

 だけどここで動揺したらシルフィーさんを不安にさせてしまう。だからこそ俺は努めて冷静に、シルフィーさんに向かって出来るだけ優しく言葉を返す。

「わわわ、分かってるって。そもそもシルフィーがそんなことするなんて、最初から思ってないから、本当本当」

 思い切り動揺していた。いや無理だって、そもそも女性に縁のない人生を送ってきました……なんだから。

「……本当かい?」

「本当だよ、俺を信じてくれ。って、それより、そろそろ俺もそろそろ戻らないと。メイヤーとニシキさんに無事成功したって伝えたいしさ」

 これ以上話したらボロが出そうだから、俺はさりげなく話を逸らす。いやまあ嘘じゃない。今回の事で色々と協力してくれた二人には、出来るだけ早く報告をしたいのは本当だ。

「それもそうだね。私もディメルノに限らず、色々とやらなければならないことも多い。……君を事務所に迎える準備も含めてね」

「ああ、確かにそれもあるか。俺が手伝えることは……って、新人なんて居ても忙しい時は邪魔なだけか」

「そんなことはないよ。けれどまあ、今日はメイヤーたちの報告のためでもあるんだし、寮に戻ってゆっくりしてくれると、私としても安心できる。……けれど、本当によかったのかい?」

 俺の真意を確かめるように、俺の心を見透かすようにエメラルドのような瞳が俺を見る。その瞳を、俺は目を逸らすことなくしっかりと見つめ返してから、自然と溢れた笑みとともに口を開いた。

「いいんだよ、本当に。シルフィーのおかげで、全部思い出せたから」

 どうして公務員を志したのか。ケースワーカーになって、何をしたいと願ったのか。そんな最初に思っていたことも全部、思い出せた。隣に同じ志を持っている人が居てくれる心強さを知れた。だからもう、怖いとも嫌だとも思わない。

「……分かった。後で寮の方には私も寄るけれど、その前に……」

 笑顔のまま、シルフィーは手を差し出してくる。それはまるであの日、事務所の面接室の中で交わした握手の再現のよう。俺の希望をくれた彼女の手のひらを、俺は再びそっと握り返す。

「これからよろしく頼むよ、ユウト。同僚として、そして以前よりも親しくなった友として。君のことを歓迎しよう」

「こちらこそよろしく、シルフィーさん。これからは同僚としてお世話になるけど、出来るだけ足は引っ張らないように頑張るよ」

 言葉すら、あの日とほとんど同じ。だけどきっとお互いの心の中は、あの日とはまるで違うのだろう。だって彼女の手のひらは、あの日よりもずっと熱くて。そして少なくとも俺はあの日よりもずっと、その手のひらから希望を貰えたのだから。

 こうして俺の異世界ケースワーカー生活は幕を開けた。どうして異世界まできて福祉の仕事をしてるんだとか、異種族相手のケースワークとかどう考えても無理ゲーだろとか、そういうことは思うけれど。

 だけどとにかく、俺のこの世界での本当の生活は今日、この日から始まったのだった。


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