定義と根拠

「シルフィーさん、この条文の運用はどうなってます? 申請から十四日以内に原則は結論を出すっていうところなんですけど」

「申請の部分かい? 基本的に申請を許可する場合はほとんど即日には回答を行っているね。却下する場合は……明らかな場合はやはり即日の回答が基本だ」

「なるほど……どっちにしても回答は早めにしているんですね。今だけは迅速じゃない方がありがたかったんだけどなぁ……」

 窓ガラスを雨粒が叩き、ガタガタと窓枠が風に揺れる。台風、という気象現象がこの世界にもあるのかは分からないが、それでも大雨には違いない。

 しかしそんな外の騒々しさとは対照的に、部屋の中で聞こえるのはページを捲る音と時折する会話くらい。既に日を跨いで久しいくらいの時間にも関わらず、俺たちは魔力灯の明かりの下でお互いの保護手帳に向かい合っていた。

 ちなみにメイヤーさんは近くの机に突っ伏して寝てしまっている。よく考えたら今日はディメルノの事で朝からてんやわんやだったのだ、かなり疲れていたのだろう。一応毛布は掛けておいたが、もう少ししたら一度起こしてベッドに行ってもらうべきかもしれない。

「全くだ。まさか同僚たちの勤勉さを恨む日が来るとは……流石に予想していなかったよ」

 なんとも言えない苦々しい苦笑を零すシルフィーさん。確かに逆ならともかく、同僚が勤勉で困ることになるとは普通思うまい。

「はは、確かに。まあ難しいものを嘆いていても仕方ないし、他の手段を探しましょうか」

「ふふ、そうするとしよう。だが……ふむ。やはり読めば読むほど君の居た国の保護制度は、この国のものに似ているね。何か繋がりがあったのかと疑いたくなるくらいだよ」

 シルフィーさんは俺の持ってきた保護手帳に、興味深そうな視線を落としている。そしてその考えは、シルフィーさんは持ってきたこの世界の条文を見ている俺もまた思うことだった。

「そう、ですね……。要所要所は違う部分も多いんだけど、大本の骨子と言うか理念がほとんど同じって言うか。まるでどちらかを参考にして作ったみたいな……」

 そんなはずがない。はずがないのだが、そうとしか思えないほどに似通っている部分が、この二つの法律には多すぎる。条文の構成から何もかも、まるでコピーしたような似通い方。

 自然と、こうまでに法律が似通うことがあるのだろうか。その法律が成立するに至った根本の理念が似ていれば、こんな偶然も起きるのか。それとも、この世界に生活保護の理念を持ち込んだ、俺のような人間が居たのか。

「……まあどっちでもいいか。おかげでこうして、二つの法律を照らし合わせたり出来てるんだし」

 もしかしてかつて、俺みたいな人間がこの世界に日本の法律を持ち込んだのかもしれない。もしもそうなら時間の流れが変になるけれど、そもそも俺がどうしてここに居るのかすら分からない以上は、否定する根拠もない。

 そもそも俺とシルフィーさんが、お互いの本を交換して読むことが出来ている時点で意味が分からないのだ。俺が文字を読んだり言葉を理解できているのは、なんとなくこの世界の言葉を翻訳して理解しているのだと思っていたのだが……。

「それは置いておいて……」

 シルフィーさんの言う通り、今はそんなことを考えている暇はない。俺は軽く頭を振って余計な思考を追い出し、法律の吟味に戻る。

「無差別平等とか必要即応の原則は変わらないんだよな……。世帯の原則は……まあ同居している事実が確認できないことをもって例外に出来るだろうけど」

 見落としがないか、基本的理念の部分から見直していく。日本で子供を一時保護する際、生活保護の法律を使うことはあまりない。しかし類推適応出来る条文は、必ずどこかにあるはずだ。

「……あれ、成人の定義に関しては最終的に現業職員が判断するってありますけど、これは?」

「ああ、それかい? それはその言葉通り、成人しているかの判断はケースワーカーが行うというものだよ。この国には色々な種族が来るからね。成人の定義も様々で、その人物が成人しているかは我々が判断することになっているんだ」

 俺の世界にはなかった条文。当たり前だ、日本には人間という種族しか存在しなかったのだから。だけど、そう、この国には多くの種族が存在していて、寿命だってそれぞれだ。よく考えれば二十歳から成人という定義が使えるはずもなくて……。

「もしかして……戸籍制度が、存在しない?」

「戸籍……? そういう名前の制度はないけれど、どんな制度だったのかな?」

「ええと、その国に住んでいる住民の名前や年齢などを、本籍地と呼んでいる土地に結びつけて管理するシステムだったんですけど……」

 俺の拙い説明に、シルフィーさんは小さく首を振る。

「そういう制度はこの国には存在しないよ。龍船などの往来を管理する制度はあるけれど、年齢まで管理したりはしていないからね。この国で生まれた人に関しても、基本的に扶助を受けるために自ら申告してくるものだから、管理などはしていないんだ」

 何か疑問でも? と小首をかしげるシルフィーさん。その顔を俺は数秒だけ見つめてから、思わず息を呑む。

「……なんで今まで気が付かなかったんだ……」

 もしかしてこの国には戸籍制度が存在しないのではないか。それは俺自身がこの国に来て、保護の申請をする際に思ったことだ。なんで今まで忘れてしまっていたのか。色々な出来事が重なってそれどころではなかった、それは言い訳だ。

 だって俺の考えが正しければ、それだけでこの件は解決するはず。

「シルフィーさん、年齢だよ!! こんな簡単なところに抜け道があったんだ!!」

「きゃっ!? きゅ、急にどうしたんだい? 年齢? なにか気が付いたのかい?」

 可愛らしい悲鳴を上げて、シルフィーさんはその鮮やかな若葉のような瞳をパチクリと瞬かせている。そんな彼女の可愛らしい仕草もほとんど目に入らないまま、俺は高揚感を抑えきれずに口を開く。

「ディメルノの年齢、シルフィーさんは見て分かるか? 証拠になる資料は存在するか?」

「それ、は……」

 シルフィーさんは不思議そうに眉間にシワを寄せて、それから何かに気が付いたようにその深緑の瞳を大きく見開いた。それが俺と同じ理由だというのは、きっと問いただすまでもない。

「そう……か。ディメルノがアルラウネであることは明白だが、年齢までは分からない……。本来であれば申し出に基づいてケースワーカー二人で判断をすることになるが、それさえクリアできれば……」

「そうだ。ディメルノは問い合わせにあるアルラウネには当てはまらなくなる。あくまでの福祉事務所が回答出来るのは保護を受けているかどうかだけ。そして問い合わせてきた年齢と保護上の年齢が大きく乖離していれば、問い合わせには該当しないと判断できる」

「そうなるね。いくら種族毎の独立性が強いとは言え、同じ種族で保護を受けている人全員に会わせろ……なんて要望はいくらなんでも通らない。プライバシー保護の観点から考えてもね」

 あくまでも今回重要なのは、ディメルノが父親からの問い合わせに該当する人物ではない、と断定すること。少なくとも彼女の父親はまだ、アルラウネが保護申請を行っていることを知らないのだから。

「だとしたら、その断定さえ行えれば保護を開始できます。そして保護を開始してしまえば、父親が問い合わせを改めて行ってきたとしてもディメルノが大人の扱いで保護が開始されている以上は何の問題もありません」

「理屈の上ではそうだが……」

 言葉に迷うように、シルフィーさんは上目遣いの視線を送ってきた。彼女が何を言いたいのかは、その視線からなんとなく分かる。

「上司次第……ってことですか」

 だから俺は、彼女の視線を受け止めながら尋ねるようにそう言った。それにシルフィーさんは、何も言わずに頷く。

 分かっていたことだ。そもそもの壁は上司の説得なのだから。だけど彼女の上司が、典型的な事なかれ主義のお役人であるのなら──。

「それも、きっと大丈夫……のはずです。責任を負いたがらない人間なら、この規定を使うだけできっと申請を通します。……ディメルノの年齢を判断したのが、自分じゃないのなら、それだけで」

 これだけで十分なはず。成人と判断されたのならば、ディメルノの父親が問い合わせた年齢とも合致しなくなる。問い合わせには回答のしようがないのだから、上司に対しても責任は生じない。そして成人であるのなら、保護の受理を渋る理由は存在しない。

「……ただ、この方法には一つだけ欠点があって」

「欠点……? なんのことだい?」

「それは、その……。シルフィーさんが形式上、すべての責任を負ってしまうことにはなるんです。どう見ても問い合わせに適応する子供を、大人だと偽ったということに」

 もしも発覚すれば、それこそただでは済まないだろう。この国の罰則規定は分からないが、日本なら懲戒もあり得る。そして今の俺は発案者でありながら、彼女の責任を肩代わりすることすら出来きやしない。

 だけどそれを、

「ふふっ、なんだそんなことか」

 シルフィーさんはまるで俺が面白い冗談でも言ったみたいに、楽しげにそして何故か嬉しそうに笑った。

「そ、そんなことって……。もしも責任を問われる事態になったらシルフィーさんの立場が……」

「もちろん分かっているとも。そして、だからそんなこと……なんだよ」

 笑みを浮かべたまま、シルフィーさんは一度立ち上がって俺の隣の椅子に腰を下ろす。目の前にやってきたシルフィーさんの、輝く深緑の瞳は今も嬉しそうに細められていて、そしてその笑顔は確かに俺に向いていた。

「私の立場なんて、ディメルノの命に替えられるのなら安いものだ。私はこの立場を失っても、きっとなんとか生きていける。だけどディメルノはそうじゃない。……それくらいは、君も分かっていると思うけどね」

「それは、もちろん……。でも、シルフィーさんはちゃんとした理念を持って今の仕事をしている人だ。……俺なんかと違って、ケースワーカーでいるべき人なんです」

「……ありがとう、私のことをそこまで買ってくれて。けれど、私にとっては君こそがケースワーカーで居るべき人だと思う。こうして、誰かのために心を痛めてくれる君みたいな人が、私達の職場には必要なんだ」

 そっと、シルフィーさんのほっそりとした手が俺の手に触れる。まるで俺の痛みを少しでも癒やしてくれようとするように、優しく俺の手を包んでくれる。その手のひらは、ほっそりとしていながら温かくてそして柔らかい。

「俺なんて……シルフィーさんが犠牲になるかもしれないアイディアしか、出せない男ですよ」

「それでも、私には思いつかなかったアイディアだよ。ディメルノを助けるために、君が考えてくれたアイディアだ。それに……」

 シルフィーさんは一度だけ息を呑み、繋いだ手のひらから俺の顔へと視線を上げて、

「私が失職すると決まったわけじゃない。私と……そして君が上手くやれば、何も失うことはない。……そうだろう?」

 茶目っ気のある楽しそうな笑顔でそう言った。

 その笑顔は、かつてあの役所の部屋で見たものときっと同じ。俺を安心させるために浮かべてくれている、そんな優しい笑顔。だけどあの時の笑顔よりも心からシルフィーさんが楽しんでくれていると感じたのは、俺の願望だろうか。

「……そうですね。はい、確かにその通りです。全部うまく行けば、それでいいんですもんね」

「その通りだとも。君が今から気に病むのは、少し急ぎ過ぎというものだ。皆が笑える結末だって、決してない未来ではないのだから」

 繋いだ手に少しだけ力を入れて、シルフィーさんはそう言った。その力と一緒にどんな気持ちが込められていたのかは、きっと聞くまでもないこと。

 信頼と期待、そしてきっと願い。彼女だってこの件が上手くいくかは分からない。不安だってあるはずだ。けれどそれを表情にも出さない。そんな彼女に俺が出来ることは……。

「なら、一つだけお願いがあるんですけど。……いいですか?」

「お願い……? もちろん、君の頼みなら何だって二つ返事で請け負いたいところだけれど……。内容を聞いてもいいかな?」

 小さく首を傾げるシルフィーさん。何を言われるのだろうかと、きっとそんなことを考えているであろう彼女に、俺は確かな決意を持って口を開く。

「……上司を説得するために、俺を連れて行ってくれませんか? この作戦は、もうひとりケースワーカーの協力が必要です。ただ、今からシルフィーさんの同僚を説得する暇はない。だから……」

 今の俺はただの受給者だ。そういう立場の声が役所に届きやしないなんてことは、俺にだって分かっている。だけど内部に関わる人間であれば、その限りではないはず。時に人手を欲しているこの国の役所であれば、きっと尚の事。

「それは……。いい、のかい? 私としては願ってもないことだけれど、今回のことがもし上手くいけば恐らく君は……」

「いいんです、それで。思い出したんです、どうしてかつてケースワーカーになったのかを。それから、本当にやりたかったことも」

 今でも怖い。また人の人生に関わって、ちゃんと責任を取れるのかと心配にもなる。だけどそれでも、ディメルノとそしてシルフィーさんを助けたいと思ってしまったから。それが出来るのは、あの仕事だけだと分かっているから。

「……分かった。本当なら誰かをなんとしてでも説得しようと思っていたのだけれど、君が協力してくれるのであればそれが一番確実だ。……ありがとう」

「どこまでお役に立てるかは分からないですけど……でも、頑張ります」

「ああ、頼りにしてる。だけど……ふふっ。まさか期せずして私の勧誘が実を結ぶことになるとは。なんていうか、嬉しい予想外だよ」

 安心したのか、シルフィーさんはいつもと違う気安い口調で笑った。もしかしたらこれが本来の彼女の素なのか。それは単に油断しただけかもしれないけれど、なんだか心を許してくれたみたいで、俺もまた思わず破顔してしまう。

「ははっ、確かにそうかもですね。まあ俺は、自分が元ケースワーカーだって明かした時から密かに覚悟はしてたんだけどさ」

「そうなのかい? それならもっと早く言って欲しかったよ……。私が一人で上司と対峙することに、どれだけ緊張していたと思っているんだい?」

 シルフィーさんは拗ねたみたいにプイッとそっぽを向いてしまった。その仕草がやたらと可愛らしくて、俺は苦笑してしまうのを隠しきれずに口を開く。

「いやその、悪かったですって……。ただその、なかなか言い出すタイミングがなくって。って言うか、それどころじゃなかったですし」

「そんなのはただの言い訳だろう? 私の胸を傷ませた理由にはならないと思うな」

「確かにそうだけど……。でもそれなら──」

「そ、それなら……これからもさっきみたいに話して欲しい」

 そう言って、シルフィーさんは上目遣いにこちらを見上げる。その頬は怒っているからか微かに赤く染まり、その瞳には少しだけの責めるような色とそしてそれ以上に期待が詰まっていた。

 そんな目を向けられて、動揺しない男が果たしているのだろうか。いや、世の中には居るのかもしれない。きっと居るんだろう。だけど、少なくとも俺はそうじゃなかった。

「えっ、その、さっきみたいって、どういう意味ですか……?」

「……敬語」

「え、敬語?」

「うん。……敬語ではなく、メイヤーと話すみたいな口調で話してくれるのなら、許してあげてもいい……」

 恥ずかしかったのか、シルフィーさんは話しながら最後の方は目を逸らしてしまいながらそう言う。そんな彼女のエメラルドの瞳が、赤く染まった頬が、そして繋いだままの手のひらの温度が、まるで俺に送り込まれてくるように顔が熱くなってくる。

 そう言えばさっき、少しだけ勢いのあまり敬語を忘れてしまっていた。けどそれにしてもどうして急にこんなことを言いだしたのかと思っていたけど、俺とメイヤーの距離が近くなっていたのに実はずっと嫉妬していたなんて。

「可愛すぎんだろ……」

「へ? か、かわ……?」

 俺の言葉で目を丸くしているのも可愛すぎる。可愛すぎて頭の中が真っ白だ。こんな美人と手を繋いでるんだから無理もない。まあそもそも女性と手を繋いだことなんて人生でなかったのだけど。

 って言うか口に出てたのか、しまった。思うだけのつもりだったのに。

「……な、なあユウト? 今なんて言ったのか、もう一度だけ聞いてもいいかな……?」

「えっ、それはその……」

 期待に満ちた目を向けてくるシルフィーさん。彼女には恩もあるし期待には応えたい。だけど、これはいくらなんでも恥ずかしすぎる。

「あー……それはその、いつかってことで……」

「そんなぁ……。なぁ、いいだろう? あと一回だけでいいんだ。君がなにを口にしたかを私に教えてくれ。もう一度だけ、君の口から聞きたいんだ」

「恥ずかしいから駄目!! 今日は口調を直すのだけで勘弁してくれ。……って言うか、上司の人をどう説得するかをちゃんと詰めないとでしょ!!」

 シルフィーさんには申し訳ないが、これ以上は限界だ。なんかシルフィーさんの声がいつもよりも艷やかに、そして熱が帯びているように感じてしまうくらい、頭がやられてしまっている。このままではそれこそ明日、役所に乗り込む体力までなくなってしまいかねない。

「……むぅ、確かにそれはそうだけれど……。はぁ、仕方ない。今日のところは君が親しく話しかけてくれるようになっただけで満足するとしよう」

 シルフィーさんはいつも通りの飄々とした口調ではあるけれど、顔は真っ赤なままだった。そのギャップがまた可愛いくて面白いのだけど、突っ込んだらきっとやぶ蛇だからなにも言わないでおく。

「あー……それより、そろそろ本の方に戻らないとなんだけど……」

「……ん?」

 視線を下げて、繋いだお互いの手を見る。別にシルフィーさんと手を繋いでいるのが嫌なわけじゃない。嫌どころかずっと繋いでいたい。けどこのままでは、単純に本が読めない。

「あっ」

 シルフィーさんも、俺の視線を追いかけて手を繋いだままなのを気が付いたのだろう。かつてないほどに俊敏な動きでシルフィーさんは手を引っ込めたシルフィーさんは、顔を赤くして恥ずかしさを誤魔化すように苦笑した。

「えっと、その……す、すまない。つい話をするのに夢中になっていたみたい……だな」

「いや、俺も気が付かなかったから。それよりもいい加減に、どう説得するかちゃんと詰めていくか。俺も今度は、待ってるだけじゃないからな」

「ああ、頼りにしているよ」

 お互いに微笑みあって、俺達は揃ってお互いの保護手帳に再び視線を落とす。まだなんとかなると決まったわけじゃない。俺がどこまで助けになるのかも分からない。それこそ全てを失ってしまうかもしれない。

 だけどそれでも希望が見えた。歩むべき道が見えた。それだけで、きっと俺たち二人にはもう十分だ。そんな願いにも近いことを思いながら、俺はまだ温かさの残る手のひらを密かに握りしめたのだった。

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