生活保護手帳
「……本当に、すまない」
「と、とりあえず中に入りなよシルフィー。ユウトは事務所からタオル持ってきて」
「わ、分かった」
土砂降りの雨の中、傘もささずに走ってきたのだろう。白銀の髪は濡れて輝きを失い、黒いドレスのような服は水を吸って重たくシルフィーさんに張り付いている。
声もそして表情も、いつもの掴みどころのない超然とした雰囲気とはまるで違う。見たことがないほどに暗く沈んだ表情で、肩で息をする姿に余裕は一切感じられない。きっとそれは、走ってきたからというよりも精神的なものが原因なのだろうけど。
「失敗した……か」
タオルを手にとって、俺はひとりごちる。何を、とは聞くまでもない。そしてきっと、聞くまでもなくシルフィーさんなら話してくれるはず。
「はい、タオルです。そのままじゃ風邪引いちゃいますよ」
「ああ……ありがとう。ご厚意に甘えさせてもらうよ」
「本当ならシャワーでも浴びてから……って言いたいところなんだけど」
「そこまで甘えるわけにはいかないよ。私は……君たちの信頼に応えられなかったのだから」
「……なら、せめてストーブの前で話そうよ。寒かったからさっき火を入れたばっかだしさ」
メイヤーは優しい声色でそう言って、シルフィーさんがそれに小さく頷く。どちらにしろ玄関先で出来るような話ではないのだし、きっと長引くだろうから。
「……ほら、温かい紅茶。ちょうどお湯、温めててよかったよ」
「私は……」
「いいから。せっかく入れたんだし、余らせても困るんだよ。それに、別にお茶を飲みながら話したってバチは当たりはしないでしょ」
炎が轟々と燃える昔ながらの薪ストーブ。その前に座ったシルフィーさんに、メイヤーは湯気の立ち上るマグカップを渡してから、その隣に椅子を持ってきて腰を下ろした。
「ほら、ユウトのも。要らないなら私が飲むけど」
「いや飲むけど。……それで、その。失敗したってのは……」
メイヤーからカップを受け取って、俺は重たくなる口を無理矢理に開く。俺が聞くべきだと思ったから。自分で撒いた種をシルフィーさんに全てを押し付けたのは俺だし、そして何よりもあんなに優しいメイヤーにこんなことを聞かせたくはなかったから。
「……ディメルノの申請に、受理が下りなかった。まだ却下されたわけではないが、恐らくは受理されることはない……と思う」
「そんな……。受理が即座に下りないにしても、いくらなんでも結論が出るのが早すぎじゃ」
申請に対して結論を出すのには、普通なら数日はかかる。俺の居た事務所では、ケースワーカーのもとに申請が下りてくる前に、相談係という人たちが申請出来る状況かを確かめる係があった。そこで止まるのであれば分かるが……。
「……なにか、あったんだよね。状況が変わった何かが」
メイヤーが、沈んだ声でそう尋ねる。それにシルフィーさんは力なく頷いて、ぽつりぽつりと零すように言葉を口にしていった。
「彼女の……ディメルノの父親が現れたんだ。いや、正確には私がここから役所に戻ったときには既に居た。幸い、直接事務所に現れたわけではなかったのだが……」
「もしかして、それが事務所の人の耳に入ったってことですか?」
「ああ、そうだ。……私の上司が、子供が失踪したと別の部署で騒いでいる父親のことを聞いてしまっていた。そのせいで私が通そうとした申請を止めてしまって、それを確かめるべきだと……」
隠し浮きれない悔しさを滲ませて、真っ白い指先が赤く染まってしまうほどに強く拳を握りしめながら。それでも耐えられないとばかりに、シルフィーさんは言葉を途切れさせて俯く。
「私が、悪いんだ。この事態を予期できなかった……。あの子の父親のような人物なら、すぐに動き始めてもおかしくないと分かっていたはずなのに……」
「……それを言うなら、俺もです」
俺はシルフィーさんよりも知っていたはずだ。虐待を行う親は子供を自身の所有物として見ていて、決して手放そうとしないことを。だから父親がすぐに動き出すと、俺は予想するべきだった。
「俺が気が付かなきゃいけなかったんだ。俺なら気が付けたはずなんです。それなのに俺はシルフィーさんに任せきりにして、何もしないままで……。だから、シルフィーさんだけのせいなんかじゃありません。……絶対に」
彼女の責任なんかにさせない。彼女一人に背負わせたりなんて絶対にさせない。だってこれは、俺が始めたことなんだから。
「……ありがとう、ユウト。だが少なくとも、私の力不足でディメルノの立場が危うくなったことは確かだ。それは……私の責任だよ」
「で、でもそもそもは俺が……」
ディメルノのことをお願いした立場でと、そんなことを言おうとしたのだと思う。だから責任は俺にあるんだと、とにかくそう言いたかったのだ。だけどその言葉は、
「あーもう!! 二人ともいつまでも責任の取り合いしてんのさ!!」
──メイヤーの叫び声にかき消されていた。
「そんな事したってなんにもならないでしょ。今回の件は私達、全員の責任。シルフィーもユウトも、それからもちろん私も。全員で、なんとかしなきゃいけないことなんだから」
だからお終い!! と、メイヤーはほとんどヤケクソ気味にそう言った。それに俺は、そしてきっとシルフィーさんも、思わず言葉を失ってしまう。そしてたっぷり数秒は経ってから、俺たちは二人同時に苦笑交じりの吐息をこぼしていた。
「ふふ、責任の取り合いか……。確かにその通りだな。責任の所在なんてどうでもいい話だった」
「はは、確かにそりゃそうだ。責任がどこにあるかなんてのより、これからどうするかを考えなくちゃ」
「そういうこと。ほら、さっさと頭切り替えて考える。モタモタしてたら時間なんてあっという間になくなっちゃうんだから」
「確かに。……とは言え、どう対策を打つかと言う話なんだけど……」
時間がない。早ければ明日の朝には、ディメルノは再び地獄の日々に舞い戻ることになる。それだけは、絶対に避けなければならない。
「いくつか選択肢は思い浮かぶが……。そうだな、まずは現状の問題点の整理から始めようか」
メイヤーの言葉でいつもの調子を取り戻したシルフィーさんは、人差し指を立てながら冷静に話し始める。
「まず今の最大の問題は、ディメルノの父親の問い合わせと、それに役所が対応して彼女の保護申請を却下しようとしていることだろうね」
「そうですね……。その却下の決定を遅らせるか止められれば、ひとまず時間は稼げます。父親への問い合わせの回答も、その時間でなんとか出来るかもしれません。保護の開始までこぎつけられれば、それこそ回答の心配もなくなりますけど……」
だが問題はその方法。役所……と言うよりも、シルフィーさんの上司をどうやって説得するか。
「正直に言って、今のままだと絶望的だ。あの事なかれ主義の上司のことだ、父親と揉めるのを嫌がってそちらに有利な回答を出すだろうというのは、簡単に想像がつく」
「事なかれ主義……ですか」
「ああ、典型的なお役人そのものさ」
小さなため息をシルフィーさんが零すのは、自分の上司の性格を思い出してなのだろう。確かに自分の上司が尊敬に値しない人物であるというのは、いろいろな意味で辛いものがある。
典型的な事なかれ主義のお役人。常に前例踏襲しか頭になく、問題が起きないことだけを最優先に行動する。そんな人物であれば、確かに子供が居なくなったと喚き散らす男を前にして、自らの身を盾にしてまで子供を庇うような勇気ある行動はしないだろう。
「あー、あいつかぁ。私、苦手なんだよねぇ。なんか全然何もしてくれないし、私が新しい入所者を向かいに行ったときもめちゃ適当な対応されたしさ」
「メイヤーがあの人のことを苦手なのは知っているよ。かくいう私も、正直に言って得意とは言い難い」
「はは、それだけでどんな人なのか大体は分かるな。でもそっか、典型的なお役人か……」
そういう人は、俺の居た事務所にも居た。ただでさえトラブルが起きやすい部署だ、出来るだけトラブルに巻き込まれたくないという思考は理解できる。だがそのために法律を盾にして受給者の権利を無視してまで面倒事を避けるというのは──。
「あ、法律」
ふとした、ほんの小さなひらめきが下りてくる。この国は何だ? 福祉の理念に基づいて建国された国家だ。けれどその前に、明文化された法律の存在する法治国家だ。だとしたら、役所は法律に基づいてでしか仕事をすることが出来ない。それはきっと、日本とそう変わりはしないはずだ。
「典型的な前例踏襲のお役人なら、法律に則って説得すればいいんだよ!! そうだ、なんでこんな当たり前の事に気が付かなかったんだ……」
「え、ちょ、ちょっと待ってくれ。法律に則ってと言っても、この国の法律には私なんかよりも上司の方が詳しいくらいなんだ。それなのに説得なんて……」
出来るはずがない、それはそうだ。役所で出世している時点で、人間性はどうあれ法律には当然精通しているはず。だがそれは、この世界の法律には……だ。
「……前に言いましたよね、俺が前の職場から持ってきた保護手帳があるって。それには生活保護に関する法律だけじゃなくて、その運用についても記されているんです。それらをこの国の法律と照らし合わせれば……」
「そう……か。類似した法律であるのなら、その運用に関しても合理性を損なうことなく援用することが出来る。前例踏襲主義とは言っても、法に則った運用であれば門前払いをすることは出来ない」
「そうです。それで門前払いさえされなければ……」
それだけで時間は稼げる。ディメルノの申請が却下さえされなければ、そのあいだの彼女の身の安全は保証されるのだ。
そして事なかれ主義であるのなら、子供を保護して父親の問い合わせに白を切ることに法的根拠という後ろ盾を得られるのであれば話も変わってくる。要はその上司に責任がいかない形を提案してやればいいのだ。
「……いけるかもしれない。それならば、本当に」
「ええ。そしたら今夜は終わるまで徹底的に付き合ってもらいますよ。シルフィーさんの知識がなきゃ、どうしようもないんですから」
希望の光が見えてきた。か細いけれど、それでも確かに先に続く道が見えてきた。まだこんな自分にも、ディメルノのために出来ることがあった。それだけで、顔を上げるには十分だ。
「……あのさ、私は専門外だから分からないんだけど。とりあえず、温かいスープでも作ればいい?」
「そうだね、お願いするよ。メイヤーの料理があれば、徹夜も気にならないだろうしね」
「大げさだなぁ。……まあいいけど」
メイヤーの表情も、どことなくさっきまでより明るくなっている。まあ普段がどんよりと暗いせいもあるかもしれないが。
「それじゃ早速、保護手帳を取ってきますね。」
頼むよ、というシルフィーさんの返事すら待たず、俺は食堂の扉を開けて階段を駆け上る。自分でも急いている自覚はあるけれど、希望に熱を持ってしまったこの心はもうどうしようもない。
そう、思い出したんだ。すっかり忘れてしまっていたけれど、どうして自分はあの仕事を志したのかを。
──多くの人を助けたい。
最初はそんな、子供みたいな理由だった。困っている人に手を差し伸べたい。苦しんでいる人の力になりたい。かつて自分がそうしてもらったみたいに、何もかも失って何一つ持っていなかったこの手でも、誰かの手を取れるのならと。
『え、そこまでしないでいいよ』
だけどそんな思いは、現実の前では何の役にも立たなくて。
『君さぁ、熱意があるのは分かるけど余計なことしないでよね。仕事が増えるだけでしょ』
それどころか、あの場所では邪魔なものでしかなくて。
『割り切れないなら、この仕事向いてないよ』
だからいつの間にか、そんなものはなかったものと自分でも思い込むようにして、心の奥に封じ込めていた。楽に生きるために公務員になったんだと自分に言い聞かせて、仕事なんて適当でいいのだと諦めて。
だけど──。
「今度だけは……」
助けてと、そう呼ぶ声が聞こえたんだ。覚えながらこちらを見る、丸い瞳が見えたんだ。そして震えながらも伸ばされた、小さな手を俺は掴んだんだ。一度は他人に任せて取り落しそうになったその手を、今度こそ掴み直す機会がそこにあるんだ。
「絶対に……見つけてみせる……」
今度こそ、俺が。いや、シルフィーさんと俺とそしてメイヤーで、今度こそ成功させてみせる。そう思いながら俺は、部屋の扉を開けて自分の持ち慣れた訪問バッグ開く。
「まさかこれが役に立つ日が来るとはな……。本当、捨てないでよかったよ」
この世界に来た時は真剣に捨てていこうかと思った本。ただ重たいだけだと思っていたその本を、俺はしっかりと手に取った。
実際に仕事をしていた時には重たい辞書みたいで読む気も起きないし、なによりも役に立つことなんてほとんど書いてないとすら思ったその本の重さを俺は。今だけはどうしようもなく、頼もしく感じてしまうのだった。
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