共生都市エッセ・ウーナ

「え、えっと……急にどうしたの?」

 静まり返った室内で、目を見開いたノスリさんが恐る恐る声を掛けてくる。その心配そうな、それでいて完全に異常者を見る目で、俺はようやく我に返った。

「……はっ。あ、いえ、その……ちょっと心の叫びが」

「ううん、それはいいんだけど……。もしかして、生活保護になにか嫌な思い出でもあるの? この辺りの国でこんな制度がある国はないし、よっぽど遠くから来たんだね」

「そう……みたいだ。ええとそれで、なんだっけ……。ああそうだ、ここで仕事を……?」

 ノスリさんが上手く納得してくれている間に、俺は話を元の軌道にさり気なく戻す。まあ遠くには違いないけれど、異世界から来たというのはたいてい信じてもらえないのが城跡だから。

「うん、そうだよ。ここは仕事の求人が集まる場所でもあるんだ。それで仕事がしたいって人の面接も斡旋してくれててね? あと仕事が決まるまで、最大で三ヶ月くらいは住む場所の面倒も見てくれるんだよ」

「……なるほど。就労移行支援施設、みたいなものか……」

「就労移行……うんっ、まあ意味合い的にはそんな感じかな? 私も詳しいわけじゃないんだけど」

「ああ、まあそりゃそうか。ってことは、これから並んで申請すればいいのか?」

「そうだねぇ。少し待つとは思うけど、今にも倒れそうってわけじゃないでしょ?」

「それはまあ……。そこまで疲れてないわけではないけど」

 日本の生活保護にも似たような制度はあった。住む場所がない人で、就労がスムーズにできそうな人に限っては、衣食住を提供して就労を斡旋するというものだ。

 確かに今の俺は住む場所もないし、就労を阻害する要因も特にはない。だとしたらその枠に収まるのも納得ではあるのだが。

「ちょっと複雑だなぁ。一応は生活保護を受ける側ってことだし……」

 制度である以上、必要ならば受けることに負い目を感じるべきではない。それは仕事をしていく中で分かっていたはずなのだが、人を保護していた立場だったせいかどうしても抵抗があるのだ。多分これは、実際に仕事で関わった人しかわからないと思うが。

「まあ贅沢を言ってられる場合じゃない……か。よしっ、とりあえず申請用紙はどこに──」

「あれっ、ノスリ?」

 申請書はどこだろうと辺りを見渡していた俺は、この世界で唯一知っている人の名前を呼ぶ声に振り返った。そこに居たのは腰まで伸びた美しい白銀の髪と、その髪から除く特徴的な尖った耳。そして何よりも、エメラルドのような深緑の瞳とその髪すら霞むほどに美しい美貌を持った女性だ。

 黒を貴重としたドレス……でいいのだろうか。足元まで届く長いスカートに、ゆったりとしたケープにはところどころ白いリボンが添えられていて、彼女の白銀の髪とコントラストになっている。

 協会のシスターも思い出すような地味な服装のはずなのに、ケープの隙間から時折覗く素肌の白さと、そして何よりもそのゆったりした衣装を下から押し上げるプロポーションのせいで扇情的にすら見えて。その姿はまさしく、神代の森に住まうエルフの女王のようだった。

「シルフィー、ちょうどよかった!!」

「ちょうどよかったって……まさかまた厄介事でも持ってきたのかい? もう今月でも二回目なんだけど……」

「ち、違うって。今回はそういうんじゃないの!! 今日ここに用事があるのはこの人なんだから」

「この人って……ヒューマンじゃないか、珍しい」

 エメラルドの瞳がこちらに向く。まるで本当に宝石が埋め込まれているんじゃないかと錯覚するほどに透き通った、それでいて鮮やかな木の葉のような色の瞳。そんな目を向けられて、俺は思わず息をつまらせる。

 こんなにも美しいものは初めて見たと、心の底からそう思う。その瞳は俺を値踏みするようにじっくりと足元から頭までを眺めて、それからあっさりとノスリさんの方にその視線を戻した。

「見たところ普通のヒューマンみたいだけど、彼がどうしたんだい?」

「実はこの人……ユウトって言う名前なんだけど。話を聞いてみたらドラゴニュートの落とし物みたいなの。気が付いたら草原に居て、それでドラゴンにうっかり踏み潰されそうになってるのを助けたんだけど……」

「ドラゴンに……? あっはは!! そうか、もしかして大型種族用の門に来てしまったのかい? それは、なんというか……た、大変だったね」

「大変どころか死にかけたんだけど……」

 目尻に涙を浮かべる勢いで笑うシルフィーさん。その神秘的ですらある雰囲気からは想像できないリアクションに、俺はどこか親しみを覚えながらわざとらしく唇を尖らせる。

「いやいや、バカにしたわけじゃないんだ、ごめんよ。ただ少しだけ驚いてしまってね。とにかく無事でよかった。ノスリが人の役に立つなんて、明日は槍が降るかもしれないけれどね」

「あっ、酷い。そういうことばっかり言ってると、シルフィーがエルフの里から出てきたばっかの時の話しちゃうんだから」

「それを言い出したら君だって、仕事を始めたばかりの時は……ああいや、悪かった。これ以上は言わないから勘弁してくれ」

 きっとお互いに勝手知った仲なのだろう。上手く噛み合っている二人のやり取りを眺めていると、最終的にシルフィーさんが折れて、それをノスリさんはどこか満足気に微笑んでからこちらを向いた。

「さて、と。手続きが終わるまで付き合うよ……って言いたいところなんだけど、私もそろそろ配達に戻らないと。あとはシルフィーが居れば大丈夫だと思うからさ」

 心から申し訳無さそうな表情で、ノスリさんは目尻を下げながらそう言った。そう、よく考えれば彼女も仕事中なのだ。恐らくは郵便屋のようなことをやっているのだろう。だとすれば腰にぶら下げた大きなカバンの中には、届けなければならない手紙がまだまだあるはず。

「いや、ここまで連れてきてくれたら十分だって。それに……ノスリさんが居なければ、今頃はぺちゃんこだったんだし」

 わざと冗談めかしてそう言うと、ノスリさんは一瞬だけ目を丸くして。それからニカリとまるで太陽みたいに晴れやかな笑顔を向けてくれた。

「ははっ、もう大丈夫そうだね。それじゃまた今度……そうだなぁ、手紙を届けるついでに様子見に来るからっ。あとはよろしくね、シルフィー。私の友達のこと」

「ふふっ、もちろんだ。君の友人なら私の友人でもあるんだからね」

「そう言うと思った」

 そう言うと彼女は、最後にもう一度だけハツラツとした笑顔を浮かべてから役所の出口に消えていった。その扉が閉まる直前、その美しくも力強い翼を大きく羽ばたかせたのが見えて、そしてそっと分厚い扉は閉じられた。

「……さて、と。それじゃ早速、詳しい話を……といきたいところなんだけど、見ての通り窓口は順番待ちでね。この書類を書いて待っていてくれるかな? 今までの経歴とかは分かる範囲で大丈夫だから。……すまないね、融通が効かなくて」

「いえ俺は何もやることがないので、気にしないでください。それに役所が知り合いだからって優先なんてしてたら、他の人に示しがつきませんから」

「ふふっ、まるで役人みたいなことを言うんだね君は。ああ、そこの机を使ってくれ。それじゃ順番が来たら声をかけるから、また後でね」

 窓口の方へ歩いてくシルフィーさんが微笑みながら小さく手を降ってくれるのに、俺は恥ずかしさを堪えながら軽く手を振り返す。見た目は神秘的で、話し方はどこか超然とした雰囲気ではあるけれど、どうやら思っていたよりも茶目っ気がある人らしい。

「それじゃ、さっさと書くか……って」

 自分の生活歴、と書かれた紙を見て大きなため息をこぼす。なんというか、見覚えがあるのだ。細かい書式は違うけれど、自分の職場で使っていたものと。流石に俺の世界の紙ほど白く薄くはないけれど、恐らくは似たような製法で作られている紙に、印刷されたようにしか見えない枠や文字。

「まあ、似たような制度ならここも似たようになるか……」

 どれだけ目をそらそうとしても、この世界に生活保護の制度があることは変わらない。それにこの制度があるおかげで、ひとまず野垂れ死なずに済んでいるのだから、文句ばかりも言っていられない。

 ひとまず渡された紙に羽ペンで必要事項を書いていく。とは言っても、この世界においては俺はまさしく異邦人だ。住所には現在地と書くしかないし、職歴もそのまま役所の名前を書いても伝わりはしないだろう。

 本当にほとんどが俺の職場で使われていたものと同じで、皮肉にもそのおかげで記入はあっさりと終わった。違う点と言えば学歴の欄が無いことと、

「……種族欄ってちゃんとあるんだな」

 性別の隣に、種族を書き込む欄が割と大きく用意されていることくらいだ。それに拭いきれない違和感を覚えつつ、しかし同時に俺は思わず納得もしてしまうのを感じる。その理由は、辺りを見渡せば一目瞭然だ。

 窓口には俺の世界の福祉事務所と同じように沢山の……ノスリさんたちの言い方に従うのであれば、人たちが並んでいる。

 牛のような角が生えている人。大きな翼が生えている人。深い毛に覆われた体に、犬のような顔をしている人……とあえて呼称するけれど。あと更には見たところ三十センチにも満たない体で、ふわふわと空を飛んでいる人までいる。

「……大変そうだな、窓口。って言うか、あのミノタウロスと妖精って生活扶助の基準額とか同じなのかな……。あと子供たくさん生む種族とかも居るだろうし、母子加算とかも……」

 書類も書き終わってしまった俺が窓口を眺めていて思うのは、この世界のケースワークの難しさだった。我ながら頭の切り替えが出来ていないと思う。だけど、どうしても考えてしまう。同じ人間という種族を相手にするだけでもあんなに大変だった仕事が、この世界ではどれだけ大変になっているのだろうと。

 例えばあの世界では生活費なんかは単純に年齢と、あとは障害のあるなしで加算が着くかどうかとくらいでしか変わらなかった。家賃も基本的には国が定めた地価の基準があって、機械的にそれを当てはめるだけだったのだが、こうも種族で大きさなどに差があると……。

「って止めだ止め!! 別にここで働くってわけじゃないんだし、それにもう俺には関係ないんだから」

 見ればシルフィーさんも書類の書き方を一緒に教えていたり、相談に乗っていたりするのが見える。ちなみに聞こえてくる声は、普通に敬語だ。さっきの話し方は、もしかしてあれが素なんだろうか。

 そんな事を考えながら、ぼんやりと窓口を眺めていること一時間近く。窓から覗く太陽が傾いて影が伸びてきた頃に、ようやくシルフィーさんは小さなため息をこぼしながら歩いてきてくれた。

「ふぅ、待たせてしまってすまない。ようやく一息ついたよ」

「本当に忙しそうですね。大丈夫なんですか? まだ列はありますけど……」

 数は減っているものの、窓口には絶えず人が訪れている。俺の世界の事務所でも、こんなに混雑することは稀だったのに。

 だがそんな俺の視線に、シルフィーさんは小さく苦笑してから首を振る。

「誰も居なくなるのを待っていたら、それこそ夜になってしまうさ。それに君も、ウチにとっては大切なお客様で順番を待ってくれていたんだ。私達の忙しさを気にしてくれるのは嬉しいが、気に病む必要はないよ」

「そういうものですか」

「ああ、そういうものなんだよ。さて、それじゃ最初の面談はあっちの個室で行うことになっているんだ。ついてきてくれるかい?」

「分かりました。そういう配慮もやっぱりあるんですね」

 シルフィーさんに連れられて、俺は建物の奥に並んでいた部屋の扉の一つに入っていった。恐らく元々は大きな部屋だったのだろう。隣とを遮る壁だけが真新しく、真ん中に机が置かれた部屋はやたらと細長い。

「狭くて申し訳ないが、ここなら話が外に漏れる心配もない。さぁ、どうぞ遠慮せずその椅子に座ってくれ。私はこっちに……んっ、座るから。……やっぱり少し狭いと思うなぁ、この部屋は」

「あー……はい、ありがとうございます」

 その机の隙間を、シルフィーさんはどこか艶めかしい声を出しながら通り抜けて、部屋の奥の椅子に俺と向かい合うような形で座った。

「あ、別に私が太っているわけじゃないよ? 本当だよ? エルフの標準体型を考えたら私はむしろ一部分を除けば細い方なんだ。でもこの部屋が急ごしらえで作られた頃のままなのが悪いんであって……」

「わ、分かってますよ。いえ、エルフの人の標準体重なんて知りませんけど、シルフィーさんが太っているわけじゃないことくらいは見れば分かります」

「そ、そうかい? ならまあいいんだが……。って、コホン。それより仕事の話だね。ノスリから、ここの話はどこまで聞いているのかな?」

 真っ白い肌を微かに赤く染めたシルフィーさんは、気恥ずかしさを誤魔化すみたいに咳払いをしてからこちらに向き直る。肌が白いせいで頬が染まっているのが分かりやすいようで、まだ朱色が頬に残っているのは分かったけれど触れなかった。

「そうですね……ここが役所の中で生活保護を担当している部署で、俺みたいに住む場所がない人には住む場所とかを提供してくれる……とは」

 ノスリさんから聞いたのはこの程度だ。まあ元の世界の制度から推測できることはいくらでもあるけれど、憶測で物を言うべきではない。それに俺の予想通りなら、就労移行支援施設であれば細かい制度とは無縁のはずだ。

「まあそんなところか。そうだね……大体はノスリの説明と同じだと思っておいてくれて構わない。それで、君は住む場所も仕事のアテも、果ては自分の住んでいた場所さえも分からない……ということでいいかな?」

「その……こことは別の世界から来たんじゃないかってくらい、元の世界とここは違っていて。いやなんか変なところだけ似てたりしますけど。でもとにかく、今は戻る方法も分かりませんし、それに……」

 戻りたいとも思えない。そんな言葉が喉まで出かかって、俺は咄嗟にその言葉を飲み込んだ。なんとなく、シルフィーさんにそんな情けない弱音は吐き出したくなかったから。

 だけどシルフィーさんは俺のそんな心の機微を察してか、優しげな笑みを浮かべて小さく首を傾けてきた。

「それに、なんだい?」

「それに、その……まずは今を乗り切らないと、って。食べるものも住む場所もないのに、検討もつかない帰り方なんて考えても仕方ないですから」

「ふむ……まあ、それは道理だね。だとすると、私が今の君に提案できることは一つだ。私達が君に一時的な住む場所と食事を提供してあげよう。そしてその間に、君は仕事を探して、そして望むのなら帰り方を調べる。……これが私の。いや、この国が君に対して出来る最大限の提案だ」

 椅子に深く腰掛けて、まるで魔女みたいに不敵に笑いながら彼女は続ける。

「もちろん詳しい説明はするよ? その上で君は私の提案を受け入れてもいいし、断ってもいい。ただ断った場合は、今すぐに自力で生きていくことになるけどね」

 そう言ってから、どこか悪戯っぽい笑みをシルフィーさんは浮かべた。俺に選択肢がないことは分かっていて、そしてそれを暗に示してくれている。しかも俺が気に病まないようにと、わざとらしく茶化しながら。

「他に選択肢はありませんから。お世話になるのが負い目にならないって言ったら、まあ嘘になりますけど……」

「ふふっ、そうかもね。だけどちゃんとこの国にあるれっきとした制度なんだ。それを利用する権利は、例えこの国に今日来たばかり君だろうと変わらず保証されているんだよ? だから君が困っているのなら、手を伸ばすことを躊躇いも恥じ入ることもするべきではないと思う。少なくとも私は、君にそれを負い目に感じては欲しくないな」

 最後はその笑みを、悪戯っぽいものから優しそうな柔らかいものに変えて、シルフィーさんはそう言った。優しくて温かくて、そして同時にどこか悲しそうなその笑顔に、言葉に、俺は思わず息を呑む。

 彼女は美しかった。その姿も、そしてその精神までも。彼女の言葉は、福祉そのものの根幹だ。俺がかつて胸に抱き、そして働く内に忘れていってしまったものだ。それを彼女は、当たり前のように持っている。それが美しくて、そして眩しかった。

「そう……ですね。確かにそうかもしれません。……シルフィーさんは優しいんですね」

「ふふっ、こう言ってはなんだけど、これが私の仕事だからね。それより、まずは説明を聞いてくれるってことでいいのかな?」

「はい、もちろんです。それに俺が説明は不要ですって言っても、説明しないといけないんでしょ? お役所だから」

 俺なりの精一杯の冗談に、シルフィーさんは一瞬だけ目を丸くして、そして心から楽しそうな笑顔を浮かべてくれる。そこには、さっきまでのどこか暗い表情は、もうない。

「……ふふっ、分かってるじゃないか。君と話していると、お客さんというよりも同僚と話してるみたいだよ」

 俺もですよ、とは言わなかった。言っても伝わらないだろうから。

「っと、いつまでも雑談をしているわけにもいかないな。それじゃまずは制度の説明からだ。君の場合は家がないから、私達が提供する宿に住んでもらうんだけど……」

 シルフィーさんの説明は、丁寧でわかりやすかった。彼女の説明なら、理解力が低い人達でも制度についての理解は違えないだろう。

 ただ俺の場合は聞き覚えがやたらとある制度や説明ばかりだったせいで、頭にあまり入ってこなかったのだけど。

「……と言うわけなんだ。大体わかったかな?」

 説明を一区切りつけて、シルフィーさんは可愛らしく首を傾げてくる。俺は思わずその仕草に見惚れそうになるのをなんとか堪え、今までの説明を頭の中の記憶と照らし合わせていた。

「まあ、大体は。基本的には三ヶ月が目処で、仕事が見つかっても住み込みでなければ宿は貸してもらえる。それで自分で部屋を借りる貯金を集めたら晴れて卒業。仕事の面接は、役所が斡旋してくれるってことですよね」

「うん、そうだね。飲み込みが早くて助かるよ」

 感心したように頷いているシルフィーさんに、俺は曖昧に笑って頷き返す。理解が進むのも当然。なぜなら、俺が元いた国の制度と殆ど変わらないのだから。

 まさかここまで似ているとは思わなかった。三ヶ月の目処も、宿に居ながら貯金をするというところも全てそのまま。つまり端的に言えば、俺は自分がかつて面倒を見ていた人たちの立場になる、ということになる。

「ま、まあなんとなくですよ。……いや本当に」

「ふむ……まあいいだろう。それで次は君の経歴を聞かなければならないんだけど……。話す準備はいいかい? 聞きづらいことも聞くかもしれないけれど」

「まあ聞かれて困ることは多分無いと思いますし。まず生まれた場所……は言っても仕方ないので、家族構成からでいいですかね。俺の家は……」

 かつて自分が聞き取りをしていた頃を思い出しながら、俺は出来るだけ完結に自分の経歴を話し始めた。まあ話すとは言っても、元の世界のことを細かく話しても仕方ないので、どうしても簡単になってしまうのだけど。

 そう、かつて俺が聞き取ってきた人たちの人生に比べれば、俺の過去なんてありふれたものだ。平凡に育って、平凡に生きてきた。順風満帆とは言わないけれど、大きな失敗も大きな成功もない人生。

 強いて言うなら親が母子家庭で、大学には奨学金を借りて通ったとか。子供の頃は少し虐められていたり、気が付けばファンタジーのアニメやゲームが好きなオタクになっていたくらいだけれど、そのどれもが今の日本ではよくある話だ。

「……って感じでしょうか。あと不足点があったら聞いてください」

「ふむふむ。君が学んでいたのはかつて居た国の法律で、前にしていた仕事は接客……と。なんだか君に親近感が余計に湧いてきたよ。話し方も、こんなに分かりやすいお客様は初めてというくらいだ」

 微妙に褒められているのか分からない反応に、俺は内心を誤魔化すように曖昧な笑みを返す。彼女の聞き取りは端的で効率的だった。思っていたよりも細かく聞かれなかったので拍子抜けなくらいだ。特に前住所地などに関しては詳しく聞かれるかと思ったのだが……。

「あはは……ありがとうございます」

「だけど、そうか……法律と接客ときたか。仕事に関しては今日の今日に結論を出すようなものではないんだけど……」

「もしかして、ぴったりな仕事があるとか……ですか? こんな俺に出来る仕事がもしかしてこの世界にも……?」

「あー、うん、まあそうなんだ。そうなんだけど……。ただ、うーん……流石にこれはなぁ。私としてはアリだと思うんだけれど……右も左も分からない君に、果たしてこんな提案をしていいものか」

 考え事をしている癖なのだろうか。シルフィーさんは長い髪をくるくると指で弄びながら、俺を値踏みするみたいに真っ直ぐ見つめてきた。その視線はどこか熱っぽく見えて、そんな目線を彫刻みたいに美しい顔で向けられるだけで、俺の頭はあっさりと真っ白になってしまう。

 ただでさえ女性に縁のない人生を送ってきたのだ。よく考えたら、見惚れるような女性と狭い部屋で二人きりのこの状況で、マトモに喋れているだけで奇跡みたいなものである。

 肩から流れ落ちる絹のような銀髪、こちらを見つめるエメラルドのような深緑の瞳に、陶磁器みたいに美しい肌。それこそ漫画やアニメに出てきてもおかしくないくらい……いや、俺が今まで見てきたキャラクターの誰もが見劣りしてしまうほどの美しさがそこにはあるのだ。

 唇を尖らせた彼女が、悩むように唸りながらその細い指をそっと唇に添える。その仕草から、シルフィーさんのその唇から目が離せなくて、俺はその唇が開かれるのをただ見つめるしか出来ない。

「……ねぇ、君。もしもよかったらなんだが、私達と一緒にケースワーカーになるつもりはないかい?」

「それはないです」

 彼女に見惚れて何も考えられていなかったのに、いや何も考えられていなかったからこそ、俺は咄嗟にそう返していた。そんな俺の返しに、シルフィーさんはがっくりと頭を落とす。

「そ、即答だね……。そこまでキッパリと言われてしまうと、まるで私と働きたくないと言われているようで傷付くんだが……」

「あっ、すみません、そういう意味ではないんです。むしろその、シルフィーさんと同じ職場で働けるなら、俺も凄く嬉しいんですけど……」

「私と一緒に働けるということが君にとってどれだけの価値があるかは分からないけれど……ありがとう。だけど、それでも……という理由があるんだね?」

 机に肘をついて、彼女は小さく首をかしげる。

「まあ、そう……ですね。どうしても福祉の仕事に、あまりいい思い出がなくって……」

 あまり、どころではない。そもそも俺はその仕事のせいで一度死にかけたのだ。いや、本当は死んでこの世界に来たのかもしれないけれど。

 あんな経験をしておいて、そして何もさせてもらえないあの日々を思い出して、それでも美人とお近づきになれるなら……と。そう思えるほど俺の頭は陽気には出来ていないらしい。

「そう、か。……まあそこまで言われてしまっては仕方ないな、君を勧誘するのは一旦は諦めておくとしよう。それに仕事に関しては、今日決めなければいけないものでもないんだ。じっくりと考えて、もしも気が変わったらその時は教えてくれればいいさ」

「あー……まあそうですね、分かりました。それであとは……」

「そうだね、あとは……。うん、今日聞かなければいけないことも手続きも、これで完了のようだ。お疲れ様、そして……」

 シルフィーさんがにこやかに笑いながら立ち上がる。それから彼女は笑顔のまま手を差し出してきて、俺は少しだけ遅れてからその手をそっと握り返した。

「これからよろしく、ユウト。担当として、そして友として。君のことを歓迎しよう」

「こちらこそ、よろしくお願いします、シルフィーさん。色々と、お世話になります」

 力を込めたら折れてしまいそうなほどに細い手のひらと、俺はしっかりと握手を交わす。真っ白いその肌は今まで触ったどんな布よりも滑らかで、まるで手の平を滑り落ちていくみたいに離れていく。

「さて、次は君の今夜から泊まってもらう宿泊所に案内するんだが……。そうだな、少し時間も遅いし説明は道すがらでいいかな?」

 小首をかしげるシルフィーさんの言葉を聞くに、これで本当に申請は終わりらしい。元の世界の役所に比べたら手続き関係は簡素だが、戸籍などのシステムがなければこんなものなのだろう。ネットもなく、恐らくは福祉事務所も大きな街に一つだけ。

 ノスリさんに見せてもらった周囲の景色を見るに、街と街の距離はおいそれと移動できるものではなく、だとしたら複数の事務所で保護費を受け取る不正受給の心配もない。そこだけは前の事務所よりも楽かもしれないと考えて、俺はもう関係ないことだと頭を振る。

「あ、はい。ルールとかですよね、門限とか」

「ああそうだ。あとは注意事項と……んっしょと」

 またもや机と壁の隙間を、シルフィーさんは少し苦しそうに乗り越えてくる。

「……さ、さてと。それじゃ行こうか」

 微かに頬を赤らめて、彼女は俺の様子を伺うようにチラリと上目遣いで視線を送ってきた。

 いや可愛いかよ。と言うかシルフィーさんが自分で言っていたように、彼女はどこからどうみても痩せているのだ。腰はほっそりとくびれているし、足だって見るからにスラッとしている。ただ、なんというか、代わりに出るところがとても出ているだけで。

 ……具体的には、お尻とそしてお胸の辺りが。

「あー……ゴホン。そうですね、行きましょう」

「……?」

 思わず視線が下の方に向いてしまいそうになるのを、俺は咳払いをして誤魔化す。その意味は幸いにして彼女には伝わらなかったようで、一瞬だけ首を傾げてから歩き出した。

「ああ、そうそう。あとは施設の使い方とかなんだが、それは着いてからでいいかな? 遠くから来たなら、使い方も分からないものもあるだろうからね」

「そうですね。助かります」

 部屋を出て事務所を横切るシルフィーさんの後ろを歩きながら、俺は辺りを見渡す。この世界の生活様式すら俺は知らないのだ。天井に吊り下げられている灯りも、ガス灯のように見えるのに電灯並に明るいし、更に肝心のガス管も見当たらない。

 恐らくは魔力かなにかの灯りなのだろう。だとすると、電気が生活の基本だった現代とはそもそもの文化圏が違うことになる。現代の人類だけで発展してきた科学技術とはまるで違う。様々な種族がいて魔法があって、恐らくはその中で発展してきた文明だ。

「……この街には、どれくらいの種族の人が暮らしてるんですか?」

「ん、種族かい? そうだなぁ……百は超えていると思うけれど、きっと正確な数は誰にも分からないだろうね。端から端まで歩けば丸一日はかかるくらいの広さがあって、住民も日々入れ替わっているからね」

「日々入れ替わってる……って言うと、他にもこういう街が?」

「うーん、ないんじゃないかなぁ。そうか、君は当然だけどこの街の成り立ちも知らないんだったね。誰でも知っていることだから失念していたよ」

 話しながら、俺達は事務所を横断して扉を開けて外に出る。いつの間にそんなに時間が経っていたのか、日は既に傾きつつあり煉瓦作りの町を紅く染めていた。その太陽を背に、シルフィーさんは手を後手に組んだまま踊るように振り返る。

 彼女の美しい銀髪が風になびいて、橙色の陽光を反射して輝く。そして夕日に染まった世界でも色褪せない、いやその中でも最も美しくそして強く輝く宝石の瞳が、真っ直ぐに俺を射抜いていた。

「この街はね、多種族共生を目指して作られた街なんだ。この世界で唯一の、そして最先端の福祉の理念を掲げて作られた街。ありとあらゆる種族が共存し、そして手を取り合って行きていける世界を作るために、無数の国家が協力して作り上げた街。それが──」

 そこまでを口にして、彼女は顔を綻ばせる。それはまるでお祭りの会場に着いた子供みたいな、まるで一世一代の告白が上手くいった少女のような、それでいて全てを慈しみ包み込む聖母のような微笑みで。

「これから君が暮らす街。共生都市エッセ・ウーナだよ」

 謳うように、そう告げたのだった。

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