一章
異世界での出会い
草木の匂い。鳥の声。頬を撫でる穏やかな風。いつからそんなものに包まれていたのかは分からない。気が付いたら、とそう表現するしかない。だけど兎にも角にも俺は、見ているだけで空に落ちていってしまいそうな程に透き通った青空を、まさしく気が付いたら見上げていた。
「あれ、俺……」
声が出る。体も動く。自分が自分であるという実感が、今更になって湧き上がってくる。体を起こそうと地面に手をつくと、くしゃりとした草の感触が手の平を通して伝わってきて。俺はそこでようやく、自分が草原に大の字に寝ていたことを自覚した。
草原……。そう、草原だ。緑に輝く芝のように背の低い草が、自分の手のひらに押しつぶされているのが見える。それ自体は、まあ珍しいものではない。大きな公園の手入れされた原っぱで、こんな草は見たことがある。
「なんだ……ここ」
だけど、辺りを見渡した俺は思わず呟いていた。視界に広がる光景だけで、ここ俺の知っている世界ではないのだとハッキリと分かる。
草原は彼方、遥か先まで続いていて。そしてその先には、やたらと大きく見える城塞の尖塔が立っていた。これだけでもうここが、少なくとも東京ではないのだと考えるのに十分なのだけど。
「ドラ……ゴン?」
遥か遠くの空を飛ぶ巨大なドラゴンの姿に、俺の脳内のキャパシティは完全にオーバーしてしまっていた。見間違えではないかと何度もまばたきをしてみるが、悠々と空を飛ぶその姿は忽然と消えたりもしてくれない。
大空を駆けていく竜。空の上で遠近感が掴みにくいせいか、その姿はやたらとゆっくり飛んでいるように見える。巨大な翼を羽ばたかせて、何にも縛られずに飛んでいくその姿に俺は目を奪われそうになり。
「夢……? でも確か俺、さっきまで──」
思い出した。自分がさっきまで何をしていたのか。痛みも熱さもそしてあの男の血走った目も、全てが俺の頭の中を走馬灯のように駆けていく。そうだ、俺は須藤に刺されてそれで……。
「って、傷は!!」
慌ててシャツをまくる。あれだけの傷だ、治っているはずがない。
「……ない」
しかしまくってみたYシャツには血の汚れ一つなく、そして俺の腹部にも傷の一つもついてはいなかった。恐る恐る触ってみるが、ただ筋肉も録についていない柔らかい感触だけしか感じない。痛みもないし、なにか縫い合わせたような跡すらない。
だとしたら今見ているのは刺された後に見ている走馬灯、のようなものなのだろうか。だけど走馬灯といえば過去のことを思い出すもののはず。確かにこういう世界に憧れる所謂オタクではあったけれど、死に際にこんな夢を見るほど俺はのめり込んでいたのか。
「明晰夢なら思い通りになるものだと思うんだけど……」
見たことはないが、夢を夢と自覚したのなら思いのままに夢を変えられるとよく言う。だけど、どれだけ強く意識しても場面は草原の真ん中から変わらないし、それに好みの美少女が現れてもくれなかった。
「はぁ……なんなんだよ。夢なら覚めてくれー。夢じゃないなら……夢じゃ、ないなら」
辺りを見渡す。もしも、もしも万が一これが夢ではないのなら。これが仮に現実で、俺が自分の住んでいる場所とは違う世界に来てしまったとか、そんなファンタジー小説のようなことが起きているのだとしたら。
「夢じゃないなら……って言うか、もしあれが夢じゃなくて本当に刺されたんだとして。それで死んだんだとしたら……」
異世界に行く話といえば、古くはそれこそ不思議の国のアリスやナルニア国物語など、世界中に数多く存在する。浦島太郎だって、言ってしまえば亀によって異世界に連れて行かれる話だ。
あれらの物語ではたいてい、親切な人に拾ってもらったり呼び寄せた存在がいて面倒を見てくれる。だが、今の俺はまさしく草原に立った一人きりで、身の回りには使えそうな物の一つも落ちていない。
「……どうすればいいんだ、俺」
体に力が漲るわけでもなく、なにか特殊な力が使えるような感覚もなく、更にこの世界に関する知識もない。そもそも異世界に来たからと言って喜べるほど、俺は無邪気な子供ではない。もういい年をした大人だ。
具体的には、残してきた仕事のこと……はともかくとして、これからどうやって食べていけばいいのかという現実的な悩みが先に立ってしまう。
「とりあえず、見えるのは森かあの城塞っぽい建物だけか……」
その二つのうちどちらを目指すべきかとは、流石に悩みはしない。仕方なく俺はスラックスとYシャツについていた草を軽く払い、訪問用のカバンを手にとって遠くに見える城塞に向かって歩き始めた。
「えーっと、持ち物は時計と保護手帳と訪問地図と、あとはメモとか筆記用具くらいか……。なんで俺は非常食の一つも持ち歩いてないんだよ……」
役所で配っている乾パンでも持っていれば違っただろうに。少なくともこの保護手帳に比べれば、幾らか役に立っただろう。
手帳とは名ばかりの、辞典みたいに分厚い本。中には生活保護法や実際の運用に関わることがズラリと書かれていて、家賃の基準額表なども載っている。まあそんなもの、仕事をしている時だってみたりはしなかったのだけど。
「捨てて……いや、もしかしたらなにかに使えるかもしれないか……」
その本を地面に投げ捨てようとして、だけど結局すぐに思い直す。そう、もしかしたら珍しい本として価値が付くかもしれない。それになんとなくだけど、三年間もの間ずっと付き合ってきた本を捨て去るのが申し訳ない気がしてしまったのだ。
やりたい仕事だったわけではなかった。配属先を知った時は、思わず肩を落としたくらいだ。けどそれでも、誰かの役に立てる仕事なら頑張ろうと思った。人のためになる仕事がしたくて、俺は公務員という立場を選んだのだから。
「……結局、ほとんど何も出来なかったけど」
でも、これでよかったのかもしれない。あの職場で責任も取れないのに他人の人生を中途半端に手伝って、決まりだからと他人の意思に口を出して、その挙げ句に中途半端なところで放り出すしか出来ないくらいなら。
それで苦しい思いをし続けるくらいなら、いっそのこと何も関係ない場所に来て、そしてもう誰の人生にも踏み込まなければそれでいいんじゃないかと。
そう思った途端、少しだけ足が軽くなった。ここがどこなのかも分からず、先行きも全く見通せてないのに、自然と顔を上げることが出来た。重かった肩が、急に軽くなったような気さえした。
「……ははっ、そっか。もう何もしないでいいんだ」
わざとらしく声に出す。構いやしない、どうせ周りに人なんて居ないんだ。それに、もしここが異世界なら聞かれて困る相手も存在しない。
「もう、自由なんだ」
そう口にして、ようやく自覚した。あの日々からどれだけ解放されたがっていたのかを。それはこんな世界にワケも分からず放り出されて、住む場所も食べる物もなくたって構わないと思うくらいに強かったということを。
そう考えれば、どこかに行きたいという願望がこれ以上ない形で叶ったのだ。先行きを心配こそしても、現状を憂う必要なんてありはしない。そう考えて、俺は頭を切り替えるように回りを見渡した。
一面の草原、それは変わらない。だが一面のただ緑の草たちが、さっきまでよりも輝いて見える気がする。透き通った青空、それも変わらない。だがどこまでも続く大空は、まるで自由の象徴のように見えた。
「って言うか、日本じゃないのはいいとして、マジでここどこなんだ……?」
あの東京の町中から二時間程度でこんな草原に来られるはずがない。というかそもそも、日本の草原にはドラゴンは居ない。気温も適温。コンクリートジャングルにうだるような暑さを覚えていたのが嘘みたいなくらいで、ここが地球でないことは確実だろう。
「……太陽の角度から緯度を計算するとかそういうの、勉強しておけばよかったなぁ。……あれ、経度だっけ」
手に入る情報は青い空と太陽、そして足元にある草くらい。これで何かを考察しろというのが無理な話だ。植物の植生に関しても、ケッペンの気候区分とかやったなぁとかいう程度の知識しかない俺も悪いのだけど。
そんな益体の無いことをあれこれと考えながら、気が付けば一時間近く。飲み物でも買っておけばよかったと後悔し始めた頃に、俺はようやく見上げるほど巨大な城門に辿り着いていた。
「……いや、いくらなんでもデカすぎるだろ……」
思わずツッコミがこぼれてしまう。だって見上げる城門は、それこそビルの十階建てくらいの高さがある。何が通るんだよ、この世界ではビルを組み立てたまま運びでもするのか? と聞きたいが、残念ながら聞く相手はどこにもいない。
城門は開きっぱなし。門番も立っておらず、これではなんのために城塞のような壁が作られているのかも分からない。
「……とりあえず、入ってみるか」
門番が居ないということは、入ることを禁じてはいないのだろう。と言うか入っていいのか聞こうにも相手が居ないし、インターホンのようなものがあるとも思えない。だから仕方ないのだと、そう思いながら俺は門を潜ろうとして、
「えっ!? ちょっと君なにしてるの!!」
「へ? いや俺は……ぁ!!??」
突然首根っこを掴まれたかと思ったら、まるで宙を舞うみたいに道の隅っこに飛び跳ねていた。
「ご、ごめんなさいすみません許してください!! 別に泥棒に入ろうとしたとかそういうんじゃなくて誰も居なかったから話を聞こうと──」
「ちょっ、ちょっと落ち着いて。別に私は君を捕まえようとしたわけじゃなくて、道の真ん中は危ないから助けてあげたんだよ?」
「危ないって」
なにが、と。そう言おうとした言葉は、最後まで続かなかった。それはズンッ!!と大地を揺らす音にかき消されたからであり、そしてその音の正体を……巨大な“それ”を俺がこの目で見たからだ。
「相変わらずここの門は狭いなぁ」
「まあまあ、これでもこの街で一番大きな門なんだから。それに入る時だけ屈めば大丈夫だろ?」
聞こえてくる声は遥か上方。それこそビルの如き高みから聞こえてくる。まるで、俺が読んでいたお伽噺そのものだ。赤い鱗に覆われた巨大な体躯と俺の体くらいはありそうな鋭い爪。そう、そこにいたのはまさしく、さっき遥か彼方に見えたような、巨大なドラゴンだった。
「ね? 危なかったでしょ?」
そのドラゴンたちは、俺の存在に気が付かずそのまま街の中へと歩いていく。これだけ大きさが違うのだ、俺が足元の虫に注意を払わないのときっと同じなのだろう。だから俺がもしもあのまま、あの門の前に居たらきっと……。
ゾッと怖気が走る。あの時、包丁を持った男を眼前に見た時と同じような感覚。死が目の前にあったという事実に、身が竦んで動けなくなってしまう。
「……ねぇ、ちょっと君。大丈夫?」
「あ、ああ……その、ありがとう」
「別にいいけど、見たところヒューマン……よね?」
「ええと、確かに私は人間、だけ……ど……」
ようやく動くようになった体を動かし、俺は命の恩人に礼を言うべく振り返った。
そこに居たのは、間違いなく美少女だった。大人びた整った顔つきに、少し跳ねたくせっ毛気味の髪は焔のように紅い色で。短く切り揃えた髪の下からこちらを見つめる大きな金色の瞳は、疑問符を浮かべているもののそこに俺を疑うような色は見つからない。
モデル体型、というのだろうか。無駄のない均整の取れた体は、やたらと露出度の高いピッタリとした緑色の服に包まれている。水着みたい、とは言わないが正直似たようなレベルのものだ。
だけど、女性に免疫のない俺だというのに、今の俺にはそんなことは全てどうでもよくって。
「……へ?」
それよりも彼女の足がかぎ爪になっていることと、二の腕から先が黒い翼になっていること。つまり俺の知る限り、漫画とかに出てくるハーピーと呼ばれる種族であることしか、目に入っていなかった。
「……? どうしたの?」
「あ、ええとその……すみません、なんでもないです。ちょっと見慣れないものが見えただけで、はい」
それは本物ですかと聞きたかったのをなんとか堪えて、俺はとっさに首を振った。今更ここが異世界……少なくともそれに準ずる場所であるかどうかなんてのは、もう疑う余地はない。だとしたら彼女の鉤爪も翼も、全て本物だと考えるのが妥当だろう。
「そう? ならいいけど……。でもヒューマンがなんでこんな場所を歩いてるの? ここはドラゴンとか巨人族用の門なのに」
「それは、その……気がついたら俺、近くの草原に倒れてて。それで……」
正直に話すかを少しだけ迷って、だけど俺はさっきまでの自分の状況をそのまま伝えた。下手に知ったふりをして怪しまれるよりも、最初から何も分からないと言ってしまったほうが情報を集めやすいと思ったし。それに、彼女の真っ直ぐで優しそうな目を見ていたら、嘘をつくなんて出来なかったから。
「近くの草原に? それより前はどこにいたの?」
「それが、俺もよく分からなくって……。こことは全然違う、日本っていう国に居たんだけど……。そもそもどうやってここに来たのかも全然分からないんです」
「ニホン……聞いたことない国ね。この辺りの国の名前なら、私が知らないってことはないはずだから……。もしかして、ドラゴニュートの落とし物?」
「え、ドラゴ……なんですか?」
聞き覚えのない単語に、俺は小さく首を傾げる。この世界独自の慣用句だろうか。……と言うか、今気がついたのだがどうして俺はこのハーピーの少女と話が通じているのだろうか。
彼女が話しているのはどう考えても日本語だし、俺も日本語しか話していない。それなのに日本という国に聞き覚えがないというのは、いくらなんでもおかしい。
「ドラゴニュートの落とし物。知らない? って、遠くに居たんなら知らないか」
だが俺の疑問を他所に、彼女は日本ごとしか思えない言葉で、勝手に自分で納得してから話し始めてしまう。
「この国ではたまに、君みたいなどこから来たのかも分からない人が見つかることがあるの。調べてみたら凄い遠くの国が出身だったりして、どうやってここに来たのかも分からない。そう言う人達を、まるで空から落っこちてきたみたいだからってそう呼ぶのよ」
「なるほど……。ええと、俺がそのドラゴニュートの落とし物なのかは分からないんですけど、こういった場合はどうすれば……?」
「え、そりゃまあ働いてとりあえず食い扶持稼いで故郷に帰るお金作って……かなぁ。
あ、もしも働きく場所に心当たりが無いなら紹介してあげよっか? 仕事を斡旋してくれる場所なら知ってるんだ」
「え、本当ですか!? 是非お願いします!!」
これぞ渡りに船。右も左も分からない俺にとって、食い扶持ほど必要なものもない。大抵の物語では異世界のガイド役のような人が現れるものだが、この面倒見の良さそうなハーピーがそうなのだろうか。
「……あ、そうだ。ええと、なんてお呼びすれば」
「そっか、そう言えば自己紹介もまだだったね。私はノスリ、見れば分かると思うけどハーピーだよ。君は?」
「俺は、江口優斗です。種族は……」
「ヒューマンでしょ? それも見れば分かるよ。よろしくね、えーっと……エグチユウト君?」
妙な発音で俺のフルネームを言うノスリさん。ありがちだが、どうやら日本人の姓名は伝わりにくいらしい。彼女が名字を名乗らないのを見るに、もしかしたら姓という概念自体がないのだろうか。
「ああ、長くていいにくいんだったらユウトだけでいいですよ。友人からはそう呼ばれていたので」
「ん、分かった。ユウト……ね。うん、これならしっくりくるよ。あー、あとさ、敬語じゃなくていいから。って言うか敬語使われると疲れちゃうし、普通に話してくれた方が嬉しいかな」
彼女は俺が異論を挟む間もなくそう言って、器用にもその翼と一つになった腕を伸ばしてくる。その手のひら……と呼んでいいのかは分からないけれど、翼が握手を求めていることに一瞬だけ気が付けなくて。
「ほら、握手。それとも君の故郷ではやらないのかな?」
「あっ、いえすみません……じゃなくて、ごめん。少しだけボウッとしてて。その……よろしく、ノスリさん」
彼女に促されて、俺は慌ててその手を握った。最後に女性の手を握ったのなんて、いつ以来か分からなかったけれど。しっかりと握ったその手はとても温かくて、そしてふわふわとした生まれて初めて触る感触だった。
「うん、よろしく。追い風と飛んだら降りるな……って言うし、ちょうど用事もあるから気にしないでいいよ。それに私は、運べるものならなんでも配達!! 疾風迅速がモットーのガルーダ急便で一番……じゃないけど、速さには定評のある配達員なんだから」
なにやら聞き覚えのない単語と、あと微妙に物騒なモットーを慣れた様子で口にする。なんだか腰に手を当てて胸を張っているところを見ると、決めポーズと決め台詞なのだろうか。
「あー……ありがとう、助かる。自分だけだと道も何も分からなからさ、どうしようかって思ってたんだ」
そんな頭に浮かぶ色々な疑問を俺はひとまず置いておいて、俺は話を前にすすめることにした。知らない単語全てに質問をしていたら、それこそ日が暮れてしまう。まあこの世界に日がどれくらいで暮れるのかは知らないけど。
「あはは、そりゃそうでしょ、来たばっかなんだから。でも心配しないで、これでも郵便屋なだけあって道には詳しいんだから」
ああ、なんていい人なんだろう。久しぶりに触れた人の親切心に、思わず涙がこぼれそうになる。酷い人生だったけれど、こんな異世界で親切に出会えるなんて。今までの不幸は全部、この時のためにあったんじゃないかとさえ思う。
「……俺、最初に出会ったのがノスリさんみたいな親切な人で本当によかった」
「あはは、大げさだなぁ。って、もしかして泣いてるの?」
「ちっ、ちが。その、ちょっと目にゴミが入って」
「目にゴミかぁ……」
慌てて俺が目尻に浮かんでいた涙を拭うと、ノスリさんは微かに赤く染まった頬を恥ずかしそうに手で掻いていた。いや、正確には翼なんだけど。なんていうかもう彼女に翼が生えていることも足に鉤爪がついていることも、既に気にならなくなっていた。
「まあ、ゴミなら仕方ないよね。でも私でいいなら、時間がある時に話くらいは聞くよ? 今は仕事もあるからアレだけどさ」
「あはは……そこまで迷惑はかけられないって。でも……ありがとう。本当に優しいんだな」
「もうっ、おだてても何も出ないよ? それより背中を向けてから、ちょっと真っすぐ立ってくれる?」
「え? ああ、うん」
彼女に言われるがまま、俺は立ったまま姿勢を正す。何をするんだろうと、そんな疑問を浮かべたのはほんの一瞬だった。なぜなら次の瞬間には、俺は文字通り空中に飛び上がっていたのだから。
「うわっ、ノスリさん、これ!!」
「ん、どうしたの? あっ、もしかして痛い? どこかに爪、引っかかっちゃった?」
さっきまで真後ろから聞こえていた声は真上から、大きな翼が羽ばたく音と共に聞こえてくる。自分の身になにが起きているのか分からずに上を見上げると、そこには心配そうにこちらを見下ろすノスリさんの顔が、大きく膨らんだ胸越しに見えた。
「いっ、いえ痛くはないんだけど。俺、もしかして飛んでる!? っていうか高い!! 高いってノスリさん!!」
下を見る。地面は既に遠く離れていて、恐らく数メートルは浮かび上がっているように見えた。
「あはは、そうだね高いねー。あ、もしかして君、飛ぶの初めて?」
「ただのヒューマンなので飛ぶ経験はないですね!!」
正確には飛行機に乗ったことくらいはあるが、あれとこれとではわけが違う。生身で、しかもノスリさんの鉤爪に掴まれているだけの状態で俺は飛んでいるのだ。もし落ちたら間違いなく助からない。そんな高さにいるという実感に、本能が否応なしに悲鳴を上げる。
本能的な恐怖で体が固まりそうになり、体が勝手に暴れだしそうになる。当たり前だ、人間は空を飛ぶように出来ていないのだから。でもそれをしないで済んだのは、
「それならあまり下は見ないほうがいいよ。怖いなら私の足を掴んでもいいから、落ち着いて私の方を見て」
支えてくれる彼女の声が聞こえたからだ。見上げれば、彼女の若葉みたいな明るい緑色の瞳としっかりと目が合って、そして優しげにそっと目を細めてくれるのが見えた。
「わ、分かった。その……ごめん、少しテンパっちゃって」
「ううん、飛ぶのが初めてなら仕方ないよ。誰だって初めてはそんなものだもん」
「えっと、ここでは飛ぶのってそんなに普通なのか?」
「まあ竜船とかガルーダ急便とかもあるからねぇ。それに、私たちハーピー族が連れて行ってあげるって言ったら、飛んでに決まってるでしょ? ……って、ドラゴニュートの落とし物だとそれも知らないのか」
ノスリさんはそう言って、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。その愛嬌のある笑顔に俺も思わず苦笑してしまい、そこでようやく体の奥底から湧き上がってくる恐怖心が落ち着いていることに気がついた。
「……落ち着いたみたいだね、よかった。流石にずっと君と見つめ合いながらじゃ私も飛べないし……それに、流石に少し恥ずかしいからさ」
頬を赤らめて、今度はノスリさんがはにかむように笑う。その笑顔は、俺がそう思いたいだけかもしれないけれど、俺を落ち着かせるためのものではなくて。彼女の心からの笑顔に見えた気がした。
「あ、ああ、もう大丈夫。その……ありがとう」
「ううん、気にしないで。それよりさ、平気そうなら私ばっかり見てないで、見渡してみなよ。きっと、見たことない景色だよ?」
「景色……?」
ノスリさんに促されて、俺はようやくずっと見つめ合っていた彼女の目から視線を動かす。空を飛んでいるのだから当たり前だが、視界は大きく開けていて視界いっぱいにその景色が広がる。
──そこに広がっていた景色を、俺はきっと一生忘れることはないだろう。
ビルのように巨大な木々が生い茂る森。大断層のはるか高みから海原へと流れ落ちる大瀑布。頂きが見えないほどに高い山と、更にそれよりも高みに浮かぶ島。遥か彼方……それこそ東京のようにどこまでも続く街と城塞。俺がさっきまで居た草原が、まるで小さい庭にすら見えるほどに圧倒的な世界。
子供の頃に夢見た絵本の、中学時代に夢中になったファンタジー小説の中に広がる世界。その全てを凌駕する景色が、そこにはあった。
「……凄い……」
ただそんな言葉しか出ない。人は本当に感動した時には、言葉が出ないものなのだろうと初めて実感する。だけどそんな俺の一言に、ノスリさんどこか満足げに笑ってくれた。
「ふふっ、良かった。普段はこんなところまで上がったりはしないんだけど、飛んだことないって言ってたからさ。満足してもらえたみたいで安心したよ」
「満足どころかもう本当に……言葉にならない景色って言うか……。多分……いや、絶対に人生で一番の景色だ……」
「あははっ、私も最初に飛んだ時はそんな感じだったから気持ちは分かるよ。……って、あんまりモタモタしてると配達に遅れちゃう!! それじゃ行くよ~? 舌噛むから、口はちゃんと閉じててね!!」
彼女の言葉に俺は返事をしようとして、思い切り吹き付けてきた風圧に文字通り息を飲む羽目になってしまう。周囲の景色が急速に流れていき、混ざり合っていく。
「ぐがっ!?」
思い切り空気を飲み込む。まるで台風の風みたいな突風が全身を打ち付けてきて、俺は気が付いたらノスリさんの足を思い切り握りしめていた。
「あっはは!! 凄い反応だね!!」
「はっ、疾すぎないか!?」
「えー、こんなもんだよー? でも怖かったら言ってね、少し速度落とすから」
「だ、大丈夫だ!!」
もう泣き顔まで見せてしまっているのだ、これ以上情けない姿は見せられない。この世界で最初に出会って親切にしてくれた人で、しかも翼などに気を取られていたがかなりの美人なのだ。それくらいの意地は張りたいのが男の子というものである。
「よし、偉いぞー。そしたら少しでも早く着くように、もっと飛ばすからね!!」
「あー、もう好きなだけ飛ばせばいいよこんちくしょー!!」
半ばヤケクソ気味に俺はそう答えた。その後、嬉しそうなノスリさんの笑い声が聞こえた気がするけれど、もしかしたら気の所為だったかもしれない。その答えは分からないまま、しかし更に景色は素早く流れていって。ほとんど目を回して気絶しかけた頃、俺はゆっくりと石畳の上に降ろされていた。
「はいっ、着いたよー。……って、大丈夫?」
「あ、ええとその、なんとか」
「あはは……ちょっと調子乗ってスピード出しすぎたかも、ごめんね。君が子供みたいに素直な反応するからつい」
ぺろりと可愛らしく舌を出して、ノスリさんは楽しげに笑う。そんな顔をされたら文句なんて言えない。まあそもそも助けてもらった立場なのだ、文句なんて言えるはずがない。
まあ、しばらくはハーピーに運んでもらうのは止めようと心に固く誓ったのだけど。
「いえ、まあ珍しい経験が出来たってことでいいけどさ……。それで、アテのある働き口っていうのは」
「うん、それがここだよ。この建物が役所なんだけど……あ、役所って分かるよね?」
分かる、どころではない。聞き覚えしかない。そもそも俺の体感では、つい数時間前までそこにいたのだ。
そのあまりに見知った単語に、心はまるで冷水を浴びせられたように冷めるのを感じる。急に現実に引き戻されたような、こんなファンタジー世界にあまりに似つかわしくない言葉。手のひらに汗が滲んで、それを誤魔化すように握りしめた。
「ええと、一応は。公共の仕事をしてる場所……だよな」
「そうそう。それで、ここに君みたいな生活に困ってる人の支援をしてる部署があってね?」
「へ、へぇ…」
なんだろう、嫌な予感がする。これ以上先を聞くべきではないと、本能が警告を発している。
そう、あるはずがない。こんなファンタジーな、ドラゴンやハーピーが居るような世界で、そんな制度があるものか。そもそも成立するはずがない。人間だけでだって、ケースバイケースが多すぎて振り回されていたのだ。色々な種族がいたら、それこそ手が回るはずがない。
だが開いた扉の向こうから聞こえてくる声は無情にも、あまりにも聞き覚えのあるような会話だった。
「それではこちらに、必要事項を書いてお待ち下さい。アラクネ族ですと枠が足りないと思うので、足りない分はこちらの用紙もお使いください」
「え、もうこの前に渡した分使っちゃったんですか? いやトロール族が大食いってのは言い訳になりませんよ……」
「え、腰が痛くて働けない? 確かにケンタウロス族の種族病かもしれませんが、それなら病院に通ってちゃんと治療をですね」
「いいから金出せよ金をよぉ!!」
ところどころ聞き慣れない単語が混じっているが、聞こえてくる会話の意味がほとんど分かる。いや、分かってしまう。それはほんの数時間前に聞いていたような会話。就職してからの三年間、毎日聞き続けた話。それはつまり──。
「はい、ここだよ。今のこの国を支える要所、あらゆる種族が訪れる国の中心。生活に困っている人たちの最後のセーフティーネット。それがこの、福祉事務所だよ」
当たり前みたいな顔で、ノスリさんはその名前を口にした。ああ、分かっていた。嫌な予感はしていたのだ。けどそれでも、期待していた。これでようやく、自由になったんだって。それなのに……。
「……あんまりだ……」
「へ? ど、どうしたの?」
「なんで!! 異世界に!! 生活保護があるんだよ!!!」
魂の絶叫が、荘厳な異世界の福祉事務所に響き渡る。かくして俺の願いはともかくとして、こうして俺は異世界転生と共に二度と関わることがないと思っていた福祉行政に、こうもあっさりと再会してしまったのだった。
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