【完結済】異世界異種族福祉

ダニエル

プロローグ

ありきたりで退屈なつまらない日々

「はい。福祉事務所保護第四係で……。え、またお金を落としたですか? はぁ……もうこれで何回目ですか……」


「ちょっと佐藤さん、あの書類は今月中に出してくださいって言いましたよね?」


「はい? え、今すぐ死にたい? もしかして、薬飲み忘れてませんか?」


「いいから金出せよ金をよぉ!!」


 鳴り止まない電話。時折怒声が聞こえてくる窓口。処理しなければならない書類はうず高く積まれていて、更には訪問しなければならない世帯は行列を成している。


 端的に言って地獄。沢山の人に手を差し伸べて、多くの人のためになる仕事をする。感謝の言葉を日々の糧にして、公共の利益のための仕事に邁進する。


 ……そんな子供じみた俺の幻想は、入庁して一ヶ月が経つ頃には粉々に砕け散っていた。


「おーい、江口」


「あ、はい」


「お前、そろそろ訪問行く時間じゃないか? ケースにまた文句言われるぞ」


「え? ……うわ、本当だ。すみません、ありがとうございます!!」


 係長の声に慌てて時計を見れば、既に出発しなければならない時間を大幅に過ぎていた。俺は慌てて立ち上がって家庭訪問用のカバンを手に取り立ち上がる。


「訪問行ってきます」


 そう一言だけを口にして、俺は騒々しい事務所から逃げるように外に出た。


 照りつけてくる真夏の日差しに、俺は手をかざして顔をしかめる。なんでこんな最高気温を日本中で更新しているような異常気象の中、自転車で出かけなくちゃならないのか。分かっている、仕事だからだ。


 国が定めた基準に従って、年に数度の機械的に家庭訪問をする。普段から事務所に顔を見せに来るような人や、ヘルパーが入っていて近況が分かる人だろうと関係ない。実績のためだけに、チャイム越しだろうとしなければいけない家庭訪問。


「意味あんのかな……こんなこと」


 自転車を駐輪場から取り出しながら、俺はひとりごちる。仕事をする中で、国の制度や周囲に疑問を持つことは少なくない。もっと助けが必要な人に力を入れるべきだ。制度を悪用する人を、もっと厳しく取り締まるべきだ。思うのはそんなことばかりだ。


 きっとそれは俺だけではなく、誰でも経験することなのだろう。だけど誰もが疑問を覚えながら、それを仕方ないの一言で諦めてしまう。


「……まあいいや。早く終わらせて、ついでにあの母子家庭の家でも見に行くか。少し前に虐待疑惑があったばかりだしな……」


 けど、どうしようもないから。上司や同僚の誰の意識なんて変えられるはずがないから。そして俺でさえ、制度を変えられるなんて思ってやしないから。だから俺は自分に言い聞かせるようにそう言って、そして今日も流されていく。


 そうして日々の暮らしを積み重ねていくしか、俺みたいな平凡な人間には出来ないのだから。


「ええと、確か201号室だったか。はぁ……須藤さんちょっと怖いから苦手なんだよなぁ」


 少しガラの悪い今日の訪問相手を思い出して、俺は小さくため息をこぼした。俺が生活保護開始の手続きをして、かれこれ半年くらいだろうか。何度も逮捕歴のある人で、人相も人柄もいいとは言い難い、今でも対応するのは正直に言って苦手な人だった。


 だからまあ、せめて手早く済ませようと俺はチャイムを押す。幸い話が長い人ではないのだから、挨拶して部屋の様子でも見せてもらえればいいだろう。どうせ国や上司がやれと言っているからやっているだけの、定期的な家庭訪問なんだから。そう思いながら俺はチャイムを押して、


「あれ、出てこないな……。いつもすぐ出てくるのに」


 しかし部屋からの反応はなく、俺は玄関に立ち尽くして首を傾げる。もう一度押してみるが、部屋の中から物音がする気配もない。


「うーん、メーターは回ってるから居るとは思うんだけど……」


 居留守を使うような人ではないと思うのだけど、少しの間だけ外に出ているとかだろうか。最後にもう一度だけチャイムを押してみるがやはり反応はなく、俺はもう一度ため息を吐き出しながらカバンからメモを取り出した。


 連絡するように書かれた小さなメモ。それを更に小さく折りたたんでから、扉の隙間に挟み込む。これで人の出入りがあったらメモが落ちるので分かるという仕組みだ。先輩に教わった時、少しだけドラマみたいとワクワクしたのが今となってはもう懐かしい。


 だけど今、俺の口からこぼれてくるのはため息だけだ。出てこないのなら扉を叩くなんてのは、トラブルになるから止めておくようにと上司に言われている。


 その時に、もしも中で倒れてる人が居たらと質問したのを、ふと思い出す。その答えは、公務員は決められたこと以外はやってはいけない仕事なんだし、それにトラブルになるリスクを犯すほどじゃないという冷たい言葉だけだった。


「はぁ……この熱い中わざわざ来たのに、これじゃ実績にもならないんだもんなぁ……。まあいいや、それじゃさっさと次に──」


 ガチャリ、と。背後から聞こえてきた扉の開く音に、俺は足を止めていた。


「あァ、江口サん……?」


 聞こえてきた聞き覚えのある声に振り返る。そこには髪をボサボサにかき乱し、目を血走らせて、そして口からはよだれを垂らしている。まるで廃人のような男が立っていた。


「……須藤、さん?」


 それは、俺の担当している男だ。俺が開始手続きをして、そして何度も面接をした男のはずだ。だがその姿を見た瞬間に、その男がもう俺の知っている担当じゃないことだけは分かってしまった。


「す、どう……? あぁ、そっか、スどうか、おレは」


「ど、どうしたんですか? もしかして体調が……」


「イや、体調はイイんですよ、本当でス。けど……江口サんは、よくなサそうですね?」


 そう言って須藤さんが、こちらに体をゆっくりと向ける。体に隠れて見えなかったその右手には、大きな包丁が握られていた。


「なにを、言ってるんですか……」


 マズイ。絶対にマズイ。今すぐに背中を向けて、走って逃げ出すべきだ。そんなことは分かってる。分かっているのに、まるで足は安っぽいアパートの廊下に縫い留められてしまったみたいに動かない。


「ヒヒヒ……。江口サんには、親切ニしてもらっタから。恩返シをしまスね?」


 男が近づいてくる。包丁を腰だめに構えて、しっかりと体重をかけられるような体勢で。そんなことが考えられる程度には冷静で、そしてそんなことを考えてしまう程度には動揺していたのだろう。


 なんでこんな時に限って動いてくれないんだこの足は。ただ後ろを向いて走って逃げさえすればそれでいいのに。それだけなのに、


「こレで……江口サんも」


「え……?」


 そんなことを考えている間に、いや本当は何も考えられていなかったのかもしれないけれど。とにかくさっきまでスローモーションにすら見えていた狂人の顔が目の前にあって、そしてその手に握っていた大きな包丁は、その根本まで俺の腹にしっかりと突き刺さっていた。


「──ヨく、なりマすよ」


「く、そ……」


 熱い。熱い。熱い。


 痛い。痛い。痛い。


 視界が赤く白く明滅する。さっきまで何を考えていたのか、ここがどこなのか、目の前にいる男が何なのか。その何もかもが分からなくなって、ただ自分が地面に倒れ伏しているのだけは分かった。


 どうしようもなく気持ち悪い。痛い、熱い、吐き気がする。いや、もう既に血を吐いているのかもしれない。体の中に異物をねじ込まれた不快感で、頭の中がぐちゃぐちゃにかき回されていて、なにか大切なものがどんどんと体からこぼれ落ちていく。


 こんなはずじゃなかった。まだ役所に入って、たった三年しか経っていなくて。ケースワーカーになって周囲との温度差に苦しんだ時も異動するまでの辛抱で、他の部署に異動したらきっと誰かのためになるような仕事が出来るって思ってたのに。それなのに──。


「死にたく……ない」


 その言葉を口にできたのか、それとも俺の頭の中でだけ思ったことだったのか。それすらも分からないまま、俺の二十五年間続いた意識はあっさりと、暗闇の中に溶けて消えていったのだった。


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