二章

赤い悪魔がいる寝床

 橙色に染まる街を歩くこと十分程。シルフィーさんから宿のルールを道すがら聞きながら歩いていた俺は、街の外れにあるレンガ造りの建物に辿り着いていた。二階建てで横に長い建物。一見すると校舎みたいに見えなくもない建物で、門にはサンドラ寮と書いてある。

 ちなみに建物がレンガ造りばかりな理由をシルフィーさんに聞いたところ、簡単に作れるし火にも強いからだそうだ。

 土に詳しいノーム族や、火を操るサラマンダー族が居れば木材で家を作るよりも手軽だとか。元の世界の建材物の歴史については詳しくないが、専門家が聞いたら泣きそうな話である。

「さて、ここが君が今日から暮らす寮だ。軽くだがルールは説明したし、あとは中の案内だね」

 彼女から聞いたルールは、ほとんどが当たり障りのないものばかりだった。無断外泊は禁止。朝の清掃には出席すること。他の住民との金の貸し借りは禁止。お互いに共存の精神でもって譲り合い、それでも解決できない場合は職員に相談すること。こんなところだ。

「こんなところまで似てるなんてな……」

 元いた世界の施設とほとんど同じで、俺は思わずため息をこぼしていた。まさか職員側として説明に立ち会っていたのが、こんなところで役立つとは。人生とは分からないものである。

「ん、どうしたんだい? なにか気になることでもあったかな?」

「いえ、なんでも」

 扉に向かって歩いていたシルフィーさんが、不思議そうに振り返ってくる。それに首を振ってから、俺は慌てて駆け寄っていく。

「ふふっ、緊張することはない。確かに見てくれは少し大げさだが、所詮は寝泊まりするための寮だ。別に礼拝とかはないから安心してくれたまえ」

「はは、ありがとうございます。……それにしても、随分静かですね」

「ん? ああ、確かにそうだな。いくら空きが多いとは言え、この時間なら誰も居ないということは無いと思うのだが……。メイヤー。ニシキ。誰か居るかい!?」

 扉を開けたシルフィーさんが珍しく声を張り上げて中に声をかけるが、返ってくる返事はない。

「……不在みたいだな。予め連絡は入れておいたはずなのに、相変わらず適当な管理人だ。はぁ……仕方ない、とりあえず上がらせてもらうとしようか」

 シルフィーさんに続いて、俺も分厚い木の扉を開けて中に入っていく。魔力灯で照らされた木の廊下には扉が等間隔で並んでいて、まるでホテルみたいだと思った。木材は旧いものに見えるのに、ホコリ一つ落ちていないピカピカの床も含めて。

 それは入り口にある事務所のカウンターも例外ではなく。魔力灯の灯りに照らされた室内は、どこか厳かな雰囲気すら感じる。

「ここが事務所で、本来ならここに管理人が居るんだけれど……今は不在のようだ。まあ、管理人に用事がある時に使う場所だね。仕事で夕食に間に合わないなどが予め分かっているのなら、朝の内にここに知らせに来るといい」

「……普通は、管理人は居るんですよね?」

「……まあ、なんだ。おそらく、基本は居るはずだよ。……うん、きっと」

 珍しく煮え切らない態度で、挙げ句にシルフィーさんは気まずさを誤魔化すみたいに目を逸らす。

「いやそれあんまり居ない時の返事じゃん……。そんなんでいいんですか? 役所の運営してる寮なのに……」

「い、いやそんなことはない。ただなんというか、ここの管理人は少し変わった人でね。まあ同居人も変わった人が多いとは思うけれど、管理人の場合は更に輪をかけてというか……。いやっ、それでも料理は上手いし──」

「だぁれが変人だってぇ?」

「きゃっ!?」

 気怠げに間延びしたような聞き覚えのない声が聞こえて、続くようにやたらと可愛らしいこれまた聞き覚えのない悲鳴が聞こえた。慌てて顔を上げると、目の前には驚いてかその碧眼を見開いたシルフィーさんと、そして幽鬼のような禍々しい雰囲気を放つメイド服を着た女性が彼女の後ろに立っていた。

「……って、メイヤーか。はぁ……急に後ろから声を掛けて驚かすのは止めてくれと言っただろう? ……変な声が出ちゃったじゃないか」

「変って言うか可愛かったですね」

「はっ、いい歳こいて可愛らしい声出してるんじゃねぇよ年増エルフが。そこのヒューマンと違って、私はそんな見た目には騙されないからな?」

 やたらとキレのある罵倒だ。なんというか、微妙に怖い。最初の声はあんなに間延びしていたのに、罵倒はやたらと早口だし。

「わ、私はこれでも人間で言うなら二十歳だよ!! それに里を出てからは実際に二十年くらいしか経っていないんだから、歳は二十歳みたいなものだ!! あと、君は簡単に人のことを、その……か、可愛いとか言わないように」

「善処します」

「……それ、守る気がない時の返事じゃないか?」

 人間で言うとってことは……いや、考えるのは止めておこう。余計なことを考えそうになる俺の前で、シルフィーさんが声を荒げながら背後のメイドと向かい合った。シルフィーさんでちゃんと見えていなかったメイドさんの姿がようやく見える。

 白と黒の膝下まで丈のあるメイド服を身にまとい、死んだ魚のような気怠げで生気のない真っ黒な目をした女性。赤い髪はふわりとウェーブがかっていて、肩にかかるくらいで切りそろえられている。背格好は中学生くらいの印象だが、見た目と年齢が噛み合っていないことは今さっき言われたばかりだ。

 どこかほの暗くて、それなのに折り目正しい印象を感じる不思議な人だ。メイド服なんて、それこそコスプレでしか見たことがなかったけれど、彼女のそれは不思議と堂に入っているというか似合っていた。

「まあ別にシルフィーの年齢なんてどうだっていいんだけどね……興味ないし。それで? シルフィーが来たってことは新しい入居者でも来たの?」

「は、はぁ……。ええと、そうなる……んですかね」

「ですかね、じゃなくてそうなんだ。メイヤー、紹介するよ。ドラゴニュートの落とし物のユウト。それで、一応君にも紹介しておくと。彼女がメイヤー、この宿泊所の管理人だ」

 調子を取り戻したのか、落ち着いた口調でシルフィーさんは俺とメイヤーと呼ばれたメイドさんを手のひらで指し示す。見た限りでは、死んだ目以外は普通の女性に見えるメイドさん。だが彼女が俺と同じような所謂ヒューマンでないことは、その頭から生えている黒い角と、そしてメイド服の裾から出ている黒い尻尾が証明していた。

「よ、よろしくおねがいします。メイヤーさん」

「はぁ……まあ、よろしく。出来るだけ私に面倒がかからないように生活してくればそれでいいから。……あと、別に悪魔だからって取って食ったりしないから」

 ネットリとした笑顔で、メイヤーさんはそう言った。罵倒の時の早口と打って変わって、絡みつくような間延びした口調は、確かにどこか悪魔的だ。

 悪魔。人を貶める邪悪な存在。少なくとも俺の世界ではそういう存在だったモノ。

 彼女の言葉を信じるのであれば、この世界でも種族としては大きな違いはないのだろう。つまりは、彼女の言った通り人を喰らう種族も居るということで。

「あ、あはは……ならよかったです。……ちなみに、食べようと思えば食べられるんですか?」

「は? そんなわけないでしょ。悪魔がヒューマンを食べてたのなんて何百年も前の話だし。そもそも美味しくないでしょ、ヒューマンなんてどう考えても。骨ばっかだし肉は脂っぽいし。あ、でも性的って意味でなら……私はサキュバスの血も流れてるから食べられるけどねぇー?」

「性的……。え、性的!?」

 メイヤーさんの女性慣れしていない公務員には刺激の強い目線が、絡みつくように俺の全身を舐め回す。値踏みするような目に身が竦む。だがそれを、

「大丈夫だよ、いつもの彼女の冗談だから。彼女はこうやって昔から、私を含めて周りの人をからかってばかりで……。って、コホン。とにかく、どっちの意味にしても君を取って食べたりはしないさ」

 シルフィーさんは楽しげに笑い飛ばしながら、俺を気遣うように肩にそっと手の乗せてくれた。エメラルドの瞳が優しく細められて、それから口元がニコリと笑う。それでようやく、俺は半ば金縛りにあっていた体が自由になっていることに気が付いた。

「メイヤー、新しい入所者をからかうのは止めてくれと言っただろう? ただでさえ彼はこの街に来たばかりで不安なんだ。その不安を煽るようなからかい方は、いい趣味とは言えないと思うな」

「来たばっかって……ああ、ドラゴニュートの落とし物って言ってたっけ。なら本当に何も分からないんだ。はぁ……通りで初々しいわけだ。悪かったよ、あんまりにういういしいからつい」

「い、いえ、気にしないでください。そもそも俺が不用意な事を聞いたのが悪かったんですし」

「そ、ならそういうことで。……それで、案内はもう済んでるの? 済んでたら嬉しいんだけどぉー」

「いや、まだこれからだよ。メイヤーが居ないなら私が案内しようと思っていたんだが……」

「んじゃ引き続き頼むよぉ。私は部屋で寝てるから」

「まだ寝るには早いだろう? 居るなら頼むよ。私も戻って残務を処理しなければならないし、何より管理人の君がこの寮のことは一番詳しいだろう?」

 部屋の扉に手をかけていたメイヤーさんの動きが止まる。その背中に、シルフィーさんは今日一番の朗らかな笑顔で、

「頼むよ? 管理人さん。代わりに、勤務時間中に管理人室を開けていたことは、上には内緒にしておいてあげようじゃないか」

 追い打ちをかけるようにそう言った。その言葉にメイヤーさんは一度大きく息を吸い込んで、部屋中に聞こえるほどのため息を吐き出す。

「はぁー……。分かったよ、仕方ない。案内して部屋に入れておけばいいんでしょ? 明日は?」

「いつもと同じでいいよ、掃除の説明はしてあるからね。それから、ユウトは役所までの道は覚えているかな?」

「大丈夫だと思います。あの窓口まで行けばいいんですよね」

「ああ、もし迷えば人に聞けばきっと教えてくれるだろう。それじゃ後は頼むよ、メイヤー。ユウトがこの街で過ごす最初の夜だ、いい夜になるように取り計らってあげてくれ」

 シルフィーさんはそう言って、分厚い木の扉を開いて。それから最後に振り返ってから口を開いた。

「ユウト、明日からよろしく頼むよ。それから、今日は何も考えずに休んでくれ。おやすみ、いい夜を」

「こちらこそよろしくおねがいします。それから……お、おやすみなさい」

「ふふっ、ああ、おやすみ」

 俺の拙い返事にシルフィーさんは幸せそうにはにかんでくれて、それからそっと扉を閉じて行った。残されるのは必然、俺とメイヤーさんだけ。隣に目線を向けると、見るからにめんどうくさそうに肩を落としたメイヤーさんが、じっとりとこちらに視線を送ってきている。

「ええと、それじゃお願いします、メイヤーさん」

「……もしかして、シルフィーに惚れてる? 悪いことは言わないから止めときな。ありゃ見てくれはいいけど実際の年齢はさ……」

「違いますよ!! って言うか勝手に人の年齢をバラすのは良くないんじゃないですか!? あと、そうじゃなくても聞きたくないので言わないでください」

「……はぁ、男ってのはみんなこうなの?」

「そう言うものなんですよ」

「あっそ……まぁいいや。あーダルいけど引き受けちゃったものは仕方ないし。手早く済ませて私は寝たいから、とりあえず着いてきて」

 彼女の後ろについて、微かに軋む廊下を俺は歩いていく。長い廊下には部屋が十個程。これが二階にもあるとなると、ここには最大で二十人が泊まれるようになっているらしい。

「とりあえずここが君の部屋ね、ヒューマン用。鍵はこれで内側からも施錠は出来るけど、マスターキーは私が持ってるから、ノックして返事がなかったら入ることもあるよ」

 少し古ぼけた、重々しい鍵を俺は受け取る。見慣れない大きな金属製の鍵。古ぼけた蔵などの鍵に使われてそうなそれは、この建物がどれだけ綺麗に掃除されていてもかなり昔に建てられたものだと思い出させた。

「安否確認もありますもんね、分かりました。部屋の使い方は……」

「あー、普通に常識的に使ってくれればいいよ。……って、その常識も分からないのか。んー、じゃあ面倒くさいけど、最低限だけ教えておくかぁ。ほら、入って」

「お、おじゃまします……」

 彼女はそう言って、露骨にめんどくさそうに頭を掻きながら部屋に入っていく。それに恐る恐るついていくと、そこには一人用とは思えないほどに広々とした部屋が広がっていた。

「結構広いんですね……。こういうのって、もっと狭いものかと思ってました」

 まず廊下があり、その先に寝室があるという構造が俺の知っている一般的なホテルなどと変わらない。だがその寝室がまず、どう見ても十畳くらいはあるのだ。

「あー、まあヒューマンが使うには確かに少し広いかもねぇ。この寮は色々な種族が使うから、広さに関してはかなり余裕を持って設計してあるんだよ」

「なるほど……。確かに体の大きな種族とか、それこそ角とかがある種族も居ますもんね」

「そうそう。部屋を作る時に種族ごとに大きさ変えるのは設計が大変だったとかで、全体的に余裕のある作りになってるんだって。まあ今はほとんど空き部屋だけどねぇ」

 つまり、今はヒューマン用になっているが、他の種族も使えるようにと幅をもたせてあるということだろう。まだ役所と街を歩く中でしか見ていないが、それこそほとんど人間と変わらない種族なんかも多かったし、こういう設計思想になるのは必然なのかもしれない。

「って、そんなことはどうでもいいんだよ。それより説明だけど、トイレはここでシャワーはこっち。水道の水は街の水仙宝華から流れてくるから綺麗だけど、ここの水道管は古ぼけてるから飲まないほうがいいよ。綺麗な井戸が外にあるから汲んで呑んで」

 相変わらず気怠そうな態度ではあるが、メイヤーさんはテキパキと説明を進めてくれる。恐らくは慣れているのだろう。彼女の説明には知らない単語も出てくるが、要点だけ聞き取ればなんとなく分かる程度には分かりやすい。

 水道はあり、飲めないがトイレの洗浄や洗濯、シャワーなどには使えること。魔力灯はヒューマンの貧弱な魔力でも動くが、魔力の充填が必要なので一日五分は触ること。十時を告げる鐘が鳴ったら生活音は控えるように心がけること。そして何より、掃除が面倒なので散らかさないことなどを申し付けられた。

 ちなみにお湯は熱を放つ石を使った湯沸かし器が一個しか無いらしく、寮の皆が同時にお湯を出そうとするとほとんど出なくなるとか。

「……めっちゃ普通だ」

 そう、あまりに普通だった。細かい道具の使い方こそ違うものの、習ってしまえばなんてことはない。

「これが普通って思えるなら私も楽できそうだね。まあそもそもここは、ある程度自分で生活できるって判断された人が来る場所だし、これくらいは当たり前だけどさ」

「ああ、そりゃそうですよね。……ちなみに、水仙宝華ってなんですか?」

「え、それも知らないの? 本当になんにも知らないんだ……。水仙宝華って言うのは、無尽蔵に水を出し続ける華だよ。街の中心に植えられてて、そこから水が街中に供給されてるんだって。水道管はその水を生み出す圧力で、こうしてひねるだけで水が出るようになってるよ」

 そう言って、彼女は洗面所の蛇口を捻って水を出してみせる。

「本当なら水仙宝華の水は透き通ってて凄い美味しいって話なんだけど、まあ水道管なんて通っちゃったらロクに呑めないよねぇ。はぁ……勿体ない」

 ずっと気怠げに話すメイヤーさん。だけどなんだかんだと聞いたことには答えてくれるし、恐らく普通なら聞くまでもないような細かいことまで教えてくれる。

 もしかして、意外と面倒見のいい人なんだろうか。そもそも、そうじゃないとこんな寮の管理人なんて出来ないはずだし……。

「あとは……はぁ、面倒くさいしこれくらいでいいか。あー、後なにか分からないことある?」

 うん、どうやら気の所為だったらしい。

「えっと……とりあえず、大丈夫そうです。ありがとうございます」

「あ、そう? んじゃ分からないことあったらその都度聞いて。夕食の時間になったらまた呼ぶからぁ」

 メイヤーさんはそう言って、説明が終わった途端に嬉しそうな表情で部屋を去っていった。いや終わりと分かった途端あんないい笑顔することある? と突っ込みたいのを堪えて、俺は角の生えたメイドの姿が扉の向こうに消えていくのを見送ってから。

「はぁ~!! 疲れたぁ」

 かつてないほど大きなため息を吐き出して、俺は思い切りベッドに倒れ込んだ。

 急に異世界に飛ばされて、ドラゴンに踏み潰されかけて、そこを危うく助けられて。それから先はずっと怒涛の展開だったのだ。疲れてため息が出るのも当然だろう。

「色々な種族がいて、魔法とかもあって、それなのに生活保護はある。……なんだかなぁ。福祉制度のある異世界なんて聞いたことないし、漫画とかだとその辺は普通は曖昧になってるのが普通だろ」

 まあこの制度がなければ野垂れ死んでいたかもしれないので、ありがたいと言えばありがたいのだけど。でも元の世界では運用する側だったし、何よりも散々苦しめられた制度だ。複雑な心境にもなる。

 受ける側になって初めて、そのありがたさが分かる。何年も福祉の仕事をしていたのに、異世界に来てようやくそれが分かるなんて。

「これじゃ、担当ケースのこと笑えねぇよなぁ」

 彼らも、保護を受ける時は今の俺みたいに複雑な心境だったのだろうか。保護の制度に引け目を感じて、かつて税金の無駄遣いと思っていた制度に助けられる。それはきっと、状況は違えど今の俺と……。

「あー、駄目だ駄目だ。余計なことばっかり考えるな、俺。それよりこれからのこと、を考えないとなんだけど……」

 ベッドに寝転んだ途端、恐るべき勢いで眠気がやってくる。よく考えたら昨日は定例支給のための締日で遅くまで残業したし、今朝は事務作業のせいで出来てなかった訪問に行ったばかりで、睡眠時間はまるで足りていないのだ。

 しかもこの世界に来てからこっち、ハーピーのノスリさんにエルフのシルフィーさん、果ては悪魔でメイドのメイヤーさんと、美人の異種族とずっと一緒だった。

 女性と接するのはタダでさえ苦手なのに、しかも異種族となれば何が地雷なのかサッパリ分かりゃしない始末。脳みその普段と違う部分を酷使した疲労は、残業の疲れに比べると心地良いけれど、それでも疲労は疲労だ。

「ふわぁ……。気疲れだなぁ、完全に。夕飯まで、は……時間あるはずだし。ちょっ、とだけ……」

 眠気に負けて瞼を閉じる。嗅ぎ慣れない部屋の、少しだけ古ぼけた木の匂い。かつてただ寝るためだけに帰っていた、あの無機質な部屋とは違う。ただそれだけで、スプリングもない固いベッドなのに、どこか心地いいような気がする。

「……そう言えば、もう帰れないんだよな……」

 だけど、もう帰れないと思うと、少しだけ寂しい気がする。あの部屋自体に執着は無いけれど、あそこで数少ない友人と飲んだりしたのはいい思い出だ。それに、もう病気で亡くなってしまった母親が、俺の仕事が決まったお祝いにとご馳走を振る舞ってくれたのも、あの部屋で。だから、

「……ごめん。それから、ありが……とう」

 ──誰に届くはずもない言葉を、俺は空っぽの部屋に向かって呟いた。

 何の意味があったのかと言われたら、きっとなんの意味もないのだろう。あちらの世界で暮らしているであろう友人たちにも、そしてもう亡くなっている母親にも届くはずもない。

 いつも、俺は手遅れになってから気がつくんだ。その言葉を呟いたのかどうかは、自分でも分からないまま。俺は少しの後悔とそして温かいまどろみに飲み込まれていったのだった。

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