第二声 シャワールームと五凶兆1/3
碧海ヶ坂高校の巨大な敷地の端にある第三演習棟シャワー室の水音は、水圧が
「ふぁ……気持ち良いけど、水の出が悪いな、ここのシャワー」
並ぶシャワーの仕切りの為に薄壁に滴る湯の露を湯気が撫でる中で、前髪を両手で後ろへと流し、泡に塗れる裸体の全身を湯の滝に晒した元和泉舞歌は独り言を語って。
「他の先輩との演習は第二演習棟なのに、なんで私だけ第三演習棟だったんだろ……」
「道真先輩が五凶兆だからか、な?」
溜め込んでいた疑問がシャワーと同じく流れ出ているようである。
「わたし以外は誰も居ないみたい、寂しいなぁ……文月さんは足の治療に行っちゃたし」
ふとシャワーの蛇口を閉じて振り返り、シャワーノズルに背を向けて解放感を抱きながらシャワー室の仕切りの外へ顔を覗かせて左右に首を振る。
自分以外の人気の無い寂れた雰囲気、非日常の異様さに急激に込み上げた幽霊でも出るのではないかという不安。ゴクリと息を飲む。
しかし、
「私なら、真横に居ますが」
「うひゃあ⁉ 文月さん⁉」
彼女は独りでは無かった。唐突に隣接する薄壁の向こうからの声に驚く元和泉を他所に、シャワーの蛇口を捻る文月がそこに居たのだ。
「なんで⁉ 治療は⁉」
「……覗かないで貰えますか。足の方は、もう大丈夫です」
溢れ出始めた湯に誘われたように薄壁を迂回して文月の様子を確認した驚きの様相の元和泉に、文月はまずは右腕から洗い始める。
「へぇ……やっぱり碧海ヶ坂の治療は凄いね。どんな【概念】使ってるんだろ」
「【概念】なんて使っていませんよ。昔から、私の回復力が高いだけです」
そんな冷静な文月に我を取り戻し、体に残った泡を落とす事を再開する元和泉。壁越しの会話はシャワーの水音の隙間を縫って繰り広げられ、
「え、どういう事?」
「今の言葉が全てです。アナタは、言いたくない事を無理やり聞き出そうとする人ですか?」
「あ……分かった。ごめんね」
されど薄壁の向こうに越えがたい厚い壁の如き距離があるようでもあって。
「……元和泉さんは、兄とどう戦ったんですか?」
暫くの沈黙の後、泡を完全に洗い流した元和泉が蛇口を再び締めた頃合いにようやく文月から歩み寄りのような声が届く。
背景のシャワーの音がやけに印象的な声量であった。
「え? あー、戦ったとは言えないよ? 何が出来るか聞かれた後に何も出来ないって答えたら鬼ごっこだって言われて背景に森を展開されたから逃げてただけだもん」
彼女からの質問を受け、少し過去を振り返る元和泉。そして自嘲気味に苦笑いを浮かべながら仕切りに掛けていたタオルを取り、顔に滴る露を拭って。
「逃げた? 兄からですか?」
「うん。逃げるしか出来ないって思ったから始まった瞬間に全力、ははは」
そこから続く会話の様子は特に変わりもなく、背中越し、壁越しに交わされて、
「……Cマイナスですか」
「文月さん?」
しかし隣の元和泉には見えないものの頭からシャワーを浴び始めた文月の言葉が、元和泉の耳に違和感を残す。
瞬間、元和泉は、その響きがシャワーのせいだとも思った。
「いえ、勉強になりました。ありがとうございます」
文月も——さりげに呟いた独り言だと語り、備え付けのシャンプー容器から白濁の液体を漏らさせる。
シャワーの弾けた雫が落ちる事を気に留めず、ぬるりとしたシャンプーの液体を両手で弄ぶ彼女は深い色の瞳でそれを見下げていて。
「……あ! そうだ、文月さんって道真先輩の妹だったんだね! 私ビックリしちゃった」
すると、今度は気分を変えようと元和泉の方から質問をぶつける。少し楽しげに振る舞いながら気を遣ったような声色であった。
それは、
「戸籍上の話ですが、お互いの片親が三年前に結婚をしたので」
文月と道真——兄妹であると宣いながら苗字の性が違う二人の関係性に何かしらの事情がある事は明白であったから。
「……湯冷め、しますよ」
淡白に答えを返した後、文月はそう慮る。シャワーの醸す湯けむりの中、掌のシャンプーを無駄に流湯の雨露に晒して再び遠い瞳。
「あ、うん……そうだね、先に上がるよ」
そんな彼女の言の葉に、更なる会話を拒絶されたような面持ちの元和泉。
しかしそれを悟られるように精一杯の笑みを浮かべ、元和泉は体を少し拭いたタオルで体を巻き隠してシャワー個室の仕切り戸を開く。
そして部屋を出て向かうは更衣室。
通り掛け、シャワーの音を潜り抜けて文月の声がハッキリと届く。
「——私は、兄が好きです。愛しています。一人の、男性として」
「……そう、なんだ」
文月の背後へ向けた瞳、雨に打たれた後のような姿がどこか寂し気で、美しい白肌に歪に残る火傷の跡がとても印象的で。
が、彼女らの事情を不躾に探究出来ずにいる元和泉がその火傷について尋ねることなど出来ようはずもなく、
彼女はそそくさとシャワー室から滞りなく更衣室の扉を開くのであった。
——。
そして時は僅かに進み、更衣室ではドライヤーの風が泣き叫んでいる。
「はぁ……緊張したぁー、凄い圧迫感で……」
温風に晒され水気で纏まる髪が渇き解けて荒ぶる中で、白いTシャツ姿の元和泉は間近な過去を思い返す。
誰も居ない更衣室、空虚な安心感で漏らす独り言。
「何か誤解されたかな……どっちにしたって勝てそうにないけど。ふぅ」
髪を整えながら尚もドライヤーで湿り気を乾かしていたが、ふと背後が気になり彼女はドライヤーの電源を切って一息を吐きながら鏡越しに目を向ける。
やはり誰も居ない。再びドライヤーが温風と叫びを吐き出した。
が——、
「誤解ってなんの事ワン?」
「私が道真先輩を好きなんじゃないかって、そりゃ尊敬はしてるし興味もあるけど」
「まだ恋愛対象じゃないワンか。眼帯な上に表情が冷たいから怖いワンもんね」
何も鏡には写らなかったはずの更衣室で元和泉は会話をした。
「そうそう、先輩の作品のイメージ通りと言えばそんな少し感じで嬉しかったけどね——」
あまりに自然に進んだ会話ではあったが、親しみある軽快な口調で言葉を返した元和泉は言葉の終わり、遅ればせながらその違和感に気付く。
「「……」」
沈黙。悪戯な沈黙と呆けた沈黙が重なって。声のした方、隣の座椅子へと首を降ろして振り向く元和泉。際立つドライヤーの音。
「ブックワンさん⁉ 何してるんですか‼」
そこには、椅子に座す犬のような小動物の姿、細長い尻尾の先が本の栞のようになっている所が実に特徴的で。
想定もしていないナマモノの登場に思わず驚き咄嗟に立ち上がる元和泉、その驚きの度合いを表すように持っていたドライヤーが床へと落ちて、落下音。
「覗きワン。可愛らしい小動物の特権を使ってみたワンよ」
小動物は元和泉の反応とは対照的に平然とそう宣うばかり。小さな前足を振って挨拶の如く、親しみを込めた対応。
「ななな、なに言ってるんです、もう‼」
しかし、それで納得できるほど彼女は小動物と親交深く無かった。ブックワンから距離を取りつつ、慌てて開かれたままのロッカーの戸に掛けられていた制服を手に取り、Tシャツ姿を覆い隠す。
「まぁまぁ、これで許すワン。コーヒー牛乳とフルーツ牛乳なら、どっちが好みワン?」
注がれる訝しげな元和泉の眼差しに、ブックワンは栞の尻尾を器用に使いあらかじめ用意していたらしい二本の瓶飲料を元和泉に魅せつけて。
すると痴漢を恐れ見る眼差しだった元和泉の湯に当てられ、ドライヤーの温風を吸い込んで乾き切った喉がゴクリと鳴る。
元和泉には、その二択が悪魔の誘いに見えた。
「……フルーツ牛乳で。それから、まだ授業でちゃんと習ってないんですけどブックメーカーってどういう存在なんですか、説明して欲しいです」
けれど、未だ懐疑で表情を彩りながらも恐る恐るブックワンに近づいた元和泉は、栞の尻尾からフルーツ牛乳の入った小瓶を取り上げ、再び彼?との距離をそそくさ取る。
欲望には負けたが、まだ潔白は証明されてないとの言動。
「ブックメーカーはブックメーカー、ワンよ。世界を改竄する魔功話術の監視や調整をするのが役目の世界の調停者、可愛く言えば精霊とか妖精の概念が当てはまるワンね」
ブックワンは彼女の問いに応えるために空を浮遊し始める。
どのような仕組みか分からないが、何かしらの不思議な力を使っている事は明白で。軽やかに冗談の如く放つ言葉にすら真実味をもたらせる。
「人間に対してイヤらしく発情はしないし、元和泉ちゃんの裸を盗撮して売り捌いたりしないから安心するワン」
「……ホントですか? 凄く怪しい」
それでも、元和泉は尚も訝しげ。超常の存在かはともかく、後述の言葉を一切の信頼も無く斬り捨て、彼女は近くにあったカーテン仕切りの小部屋へと疑いの眼差し以外の体を押し込め隠れてしまう。
「ほ、本当ワンよ‼ 声雄を目指すなら長い付き合いになるワン、仲良くしておく事を勧めるワンね‼」
再三の疑惑の眼差しに流石のブックワンもどうやら慌て始めたようで、浮遊する体を右往左往動かしてカーテンの向こうに居る少女へと弁明を重ね始めた。
すると、
「……ブックワンさん以外のブックメーカーを見て、考えます」
しかとTシャツの上から羽織る形で制服を着直した元和泉がカーテンから現れ、少し不機嫌そうに彼女は瓶飲料の蓋を開く。そして腰に手を当てると、ゴクリゴクリと中身のフルーツ牛乳を勢いよく飲み始め、交渉は成立したと不服そうな面持ちで後に声を漏らす。
「ぷはぁ。」
「いよ。良い飲みっぷり、ワン!」
「もう。今回だけなんですからね、許すのは!」
円満な事案の解決、拍手喝采のブックワンに圧され怒りを鎮めた彼女はそれでも頬を膨らまし警告を加える。
そう——、円満な事案の解決。それが彼女だけであったなら、これで終わっていたのだろう。
「——何をしているんですか、ブックワン」
「あ、文月さん。早いね」
背後に至る静かなる雰囲気の声に元和泉が反応を示す少し前、小動物はまるで心臓が弾けたような挙動を見せる。
擬音にすれば、ビクリ。
「や、やばいワン! 文月ちゃん、ほらコーヒー牛乳があるワンよ‼」
一転して冷や汗が体毛の奥から溢れ出したように病的に慌てふためくブックワン。鏡面台の前に置いていたもう一つの瓶飲料を急いで取りに戻り、前足で必死に持ち上げて。
「? どうしたんです——か?」
元和泉がブックワンの異変に疑問を投げた時、そしてブックワンがコーヒー牛乳を持って振り返ろうとした矢先、
「フギョワラアアア‼」
——飛ばす。飛ばされる。飛んでくる。
元和泉の頬を栞の尻尾を掠め、奥にあったカーテンを吊るホックが布ごと弾ける程の勢い。
「……私は、自分の分の水素水を用意してるので」
文月はタオルを体に捲き直し、右足を床に降ろしながらそう言った。
「——意識が高い。いや! 違くて‼ ブックワンさん、大丈夫ですか⁉」
ブックワンを蹴り飛ばした彼女に愕然とした元和泉だが、直ぐに我に返り背後に飛んでいかされた獣を案じて振り返る。
そこには、
「だ……大丈夫ワン……ふへへへ……文月ちゃんの生足ワンから、ね……ガク」
「ブックワぁぁあン‼」
今にも死に絶えそうな痙攣をする獣の冗談。その時、ちょうど真上にあった更衣室の電灯の一つが点滅し、消灯した。寿命、だったのだろう。更衣室に、元和泉の叫びが響いた。
「元和泉さん、そのケダモノに憐れみは不要ですよ。このくらいの対応が正解ですから」
それでも、茶番だと断ずるように冷静な文月はロッカーの戸を一つ開き、淡々と下着を身に着け始めて。
「いや、でもさ……流石に【概念】を使ったら可哀想だよ。威力が」
すると傍ら、元和泉も気絶しているように見えるブックワンを抱きかかえ、普段通りの会話の調子へと戻る。
茶番、であった。元和泉も心の片隅では自業自得と思っていた事がとても明白。
だが、それでも彼女は遠回しに文月の行動を過剰だと非難し、小動物を愛護するべく頭を撫でる慈愛ぶり。
しかし、そんな元和泉舞歌の指摘を否定したのは意外な人物、
「つ、使ってないワンよ。今のは文月ちゃんの普通の蹴りワン」
ブックメーカーたる存在、ブックワンであった。
「——え?」
にわかには信じ難い事だった、彼女の蹴りは更衣室のカーテンを床に落ちる只の布に変えただけでなく、その先の壁にヒビを入れる程の威力だったからである。
思わず再び振り返って見ても、そこには壁から破片が剥がれ落ちる光景が現実としてあるばかりで。
「ブックワン、あまり余計な事は」
「いてて……分かっているワンよ。けど、人は好奇心を抑えられない生き物ワン。納得できる説明をして口止めしておくのが良いと思うワンが?」
彼女らは、元和泉には理解できない会話を交わす。そしてブックワンが元和泉の腕から離れ、再び浮遊を始めた頃合い、
「……そうですね」
少し思考を巡らした文月がTシャツに首と腕を通し、徐に語りを始める。
「——元和泉さん、私は……
「え。それじゃあ——」
その言葉は、呆然としていた元和泉にも理解出来ていた。そして理解出来ているからこそ言葉を詰まらせる。
「精神負荷が要因の魔力暴走による異世界形成。俗に【引きこもり】なんて呼ばれ方もするワンが、文月ちゃんはそこからの帰還者ワン」
続け様にブックワンがスカートを履き始める文月から解説を引き継いだ事が、彼女にとって救いで、
「帰還の際、体を再構成されるルームメイトの帰還者には、往々にして後遺症が残るものワン。文月ちゃんの場合は、恩恵と呼べるような身体能力の向上もあったワンが……元和泉ちゃんも声雄を目指しているなら、ちゃんと知っているワンね」
そして希望でもあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます