第60話 痛む
その場所は、美術室の窓からよく見えた。いいやきっと、美術室の窓から見えるという条件で絞り込んで選んだのだと思う。
「…………」
森谷とさやとが話している。距離が近い。視力のせいか、表情まではわからない。もちろん、会話の内容が聞こえてくることもない。……なのに、二人がどんな話をしているか、私は知っている。
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あれは、昼休みのこと。授業が終わるや否や教室を飛び出すと、そこにはさやとが立っていた。「時間、大丈夫かな?」私に用があるというのは表情を見ればわかったから、質問にそれほどの意味はなかった。
なにも起こらなければ森谷と昼食を食べられるわけで、しかしなにかが起こりそうなのは明白だったため、大丈夫とは言い難い。だけど、さやとからはどうやってでも大丈夫と言わせてやるという気概を感じ、泣く泣く首を縦に振った。
「私、ほんとーにだめだめでね」
以前と同様に人気のない場所へ移動すると、さやとは勝手に語り出した。「だめ」の部分には特に力がこめられていて、だめ人間の度合いで言ったら私も引けを取るつもりはないんだけどな、と心の中で謎に張り合う。
「……この前字城さんとお話してからずっと、頭の中で色んなことがぐるぐる回っちゃって。色んなって言っても、大体はけーくんのことなんだけど。とにかく、寝ても覚めてもぐるぐるぐるぐる、他のことなんか考えられないくらい、ぐるぐるぐるぐる」
さやとはわかりやすいようにという配慮か、それとも無意識からか、指や首も一緒にぐるぐる回して見せた。あちこち細長いせいもあってか、妙な迫力がある。
「もうすぐ大事な大会が始まるのに、練習中にも考え出したら止まらなくなって。そんなだからもちろんミスして、みんなにも迷惑かけて。……それでね、思ったの」
ぴたっとジェスチャーが止まる。どうしてかはわからないけど、私は反射的に足の爪先に力を入れた。
「……私、他のこと全部滅茶苦茶になっちゃうくらい、けーくんのこと好きなんだなって」
言ってから照れくさくなったのか、さやとは上半身をゆらゆら揺らし、赤く染まった頬が目立たないように隠した。ふと、浅瀬の海藻が思い浮かぶ。もっとも、人格のある海藻を見かけたことなんてありはしないが。
「でもね、今は部活を頑張らなきゃいけないんだ。団体競技で、チームメイトを何人かベンチに座らせてレギュラーになったんだから、中途半端なことはできないよ。だけど気にしない気にしないって思い込もうとすればするほど字城さんの言葉が浮かんできちゃって、一晩うーんと悩んで、決めたの」
見れば確かに、目元が少しくぼんでいる。健康そのものな出で立ちをしているさやとには不似合いだ。
では、そこまで悩んで決めたこととは一体。
「私も、あげない」
「…………」
「字城さんは私じゃかないっこないくらい綺麗だし、すごい才能を持ってるのも知ってる。私なんてたった一年早く知り合っただけで、そのくらいの差が一瞬で埋まっちゃうのもわかってる」
だけどね。そう続けたさやとの瞳には、意志の炎が揺らめいているようだった。優しさや柔らかさばかり目立つ相手だと思っていたが、その奥底には未知の力強さが眠っていたらしい。
良くないもの――少なくとも私にとっては――を呼び起こしたか。小さなプライドを守るために背伸びをした結果、それが自分に跳ね返ってきた。……しかし、私にとって障害であるということは、イコールで誰もにとっての障害になることと結びつきはしない。というよりも、むしろ。
「けーくんのことを好きって思う気持ちだけは、ちゃんと張り合わなくちゃだめだって思ったんだ。字城さんの気持ちが軽いものじゃないことは話しただけでわかった。……だけど、それで私の思いが負けてるってことにはならないよね。だから、いつまでもうじうじするのはやめる。……悩んだり考えたりするの、あんまり得意じゃないんだ」
さやとの微笑みに、影はない。むしろ、どこか吹っ切れたような清々しさすら感じる。
背中を押したのは、考えるまでもなく私だ。種火に薪をくべ、風を送った。結果として、今のさやとができあがった。
「大事な試合に勝って、思ってること全部伝える。……字城さんには、言っておかなきゃだめかなって」
「…………」
「いいかな?」
よくない。全然、なんにも、よくない。だって森谷、さやとのこと好きだもん。恋愛感情かどうかはわからないけど、どんなに低く見積もっても嫌いなわけない。そんな相手が彼女になってくれるなら、誰だって大喜びなんじゃないか。
だけど、こうやっていやがればいやがるほどに、自分の醜さが浮き彫りになっていくのがわかる。森谷との秘密をマウントの材料に使って、さやとの美しくて真っすぐな感情を受け止められなくて、結局全部自分本位に、森谷の事情なんてまるで考慮できていない。……それって、どうなんだろう。森谷は、こんな人間の幸せを願ったのだろうか。
「だめ」
本当はそう言ってしまいたかったけれど、そしたら二度と森谷の前で笑えない気がした。卑しい私では、醜い自分では、とてもあいつに顔向けできない。せめて私は、森谷京が我が身を投げ出すくらいの価値を持った人間のままでいなければならない。……そのためには、下唇を噛まなくてはいけない時間もある。
「……別に、いいんじゃないの」
まるでかわいげがない、投げやりな言葉を絞り出すので精いっぱいだった。余裕の一つも見せられればよかったんだろうけど、それはできない。ほんの数日前までだったら先んじて行動してしまうことも候補に上がったのだろうが、自分のいやな部分にばかり目が行く今現在では無理だ。
森谷に好いてもらいたい私は、こんな姿なはずがない。先行した理想論が、茨のように全身に絡みつく。
「ありがとう。負けないから!」
考えなければいいのに、どうしても悲観的な思考ばかりがよぎる。森谷とさやとはお似合いだとか、前に心が狭いやつと付き合わなければいいと言ったとき、脳裏にはさやとの顔が浮かんでいたんじゃないかとか。……でも、それは全て自業自得。悪いのは、私。
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「放課後に約束してくるね」
わざわざ宣言するからには、なにか考えがあるのだろうなと思った。なので、美術室の窓から二人の姿が見えても驚きはなかったし、むしろそれを大っぴらに見せてくれるさやとは律義な人間だなあと感心すらした。
でもやっぱり、辛いものは辛い。私以外の女の子の前で笑顔を振りまく森谷を見るのは、細胞が一つ残らず裂けていってしまうくらいに辛い。だからって私が関わっていないときはずっと仏頂面で過ごして欲しいというわけでもないんだけど、無意識で理解している現実を視覚情報に変換されると、落ち込む。
私はいつも、のぞき見ては勝手に凹んでいる。……そして、それを森谷に優しく慰めてもらえたらと考える。さやとみたいな行動力は起こさないまま、いつも受け身であいつが手を伸ばしてくれないかと夢を見ている。
「痛……」
胸をおさえて呟いた。前までは知らなくて、けれど今は知っている痛み。森谷を自分の世界に招き入れたことで生じる、鋭さと鈍さが入り混じった疼痛。
「森谷……」
呼んだところで、答えてくれる声はない。……ずるいよ。痛むのが正常な証って言うのなら、その和らげ方まで教えてよ。
「森谷ぁ……」
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