第59話 勝てよ
相良に釘を刺された翌日、まるでやることが定まらないまま、お世辞にも好天とは言えない曇り模様の中で登校。時間ギリギリを攻めたためか、既に朝練組もそろっている。トーナメントが発表された部活も多々出てきたようで、それに一喜一憂しているクラスメイトの姿も見受けられた。
リュックから教科書やノートの類を取り出す途中、相良と目が合った。牽制か確認か、意図の程は定かではないが、なにか要求する視線であることには違いない。――次いで、鞘戸の座席に目をやる。珍しく、今日は突っ伏していない。それどころか、彼女も彼女で俺の方を見ているらしい。俺を見つめた状態を維持しつつ教室を出て行ったところから考えるに、付いてこいと言っているのだろうか。
「おはよう、けーくん」
「ああ、おはよ」
廊下に出ると、すぐそこに鞘戸がいた。軽く朝の挨拶を交わしたそばから彼女は、
「アイコンタクト、伝わってよかったー。ごめんね、学校来たばっかりなのに」
「俺もよかった。こういうの、勘違いが一番恥ずかしいから」
相良が言うほど、おかしなところがあるようには見えない。鞘戸は嘘が上手な人間ではないから、無茶していたらある程度は透けるはずなのだが。……いつも通り、だよな? 俺はこれまでの記憶と照合しつつ、自身の視覚と感性を疑る。まさか、俺の前だからとより一層の無理をしていたりはしないか。
「……実は、お願いがあってね?」
鞘戸は急にかしこまった態度を取って、
「放課後、さ」
両手の指先をくっつけたり離したりしながら、
「部活が始まる前、ちょっとだけ時間もらえないかな?」
目をぱちぱち瞬かせ、言った。
「…………すごく、大事な話なの」
こちらからアクションをかける予定が、盛大に狂った。いや、することが定まっていなかった身でなにをとは思うものの、まさかこう来るか。
それは、余命宣告や死刑宣告に似ている。……さすがにこの前置きで、なんてことない世間話が始まったら興ざめだ。
「放課後じゃないとだめなんだよな?」
「うん」
たとえば今、朝の空き時間にさくさく片付くものではないということ。そして、前もって俺に心の準備をさせる必要があること。あらゆる要素を考慮していけば、自ずと選択肢は絞られる。
「旧校舎の方に、中庭みたいなスペースあるよね? そこで、待ってるから」
「……了解」
体育館に近い場所だ。その後部活に合流することを考えたら都合が良い。美術室にも近いし、俺たちの認識に齟齬はないだろう。
鞘戸が足早に去り、俺一人が廊下に残された。始業のチャイムが鳴り、ホームルームのために集まってきた担任教師たちの足音が聞こえる。……胃が重い。こういう場面における対処法を、俺はちっとも知りやしない。
********************
普段通りのふるまいを継続するのは難しく、朝を境に鞘戸とコミュニケーションを取ることはなかった。だからか、相良との間にも会話は生まれず、一連の行動が彼女のあずかり知るものかどうかわからない。……自分から聞きに行けばよかったのだろうが、決まって鞘戸が傍にいたためバツが悪かったんだ。
誰かと雑談でもしながら気分を紛らわせる。そう考えもしたが、こんなときに限って字城の姿が見えなかった。そもそも、彼女だって近頃は様子が変だ。……参ったことに、俺の近くに尋常な友人がいない。誰でもいいから助けてくれと言いたいところではあるものの、誰にでもできる話ではないからややこしくて厄介だ。
放課から数分、俺は未だ自分の机から動けないでいる。相良すら置き去りにして鞘戸は颯爽と教室を後にしたが、待っていてと言われた以上、ある程度の時間的余裕を作るべき。……だが、彼女には部活動が待っているわけで、塩梅が難しい。
結局、十分きっかりで動き出すことにした。どれだけうだうだ悩もうが、やるべきことは変わらない。……実のところ受け答えの中身は定まっていないままなのだが、すっぽかしたと思われるのが一番心外だ。
心はできるだけフラットに。そう努めながら約束の場所まで向かうも、明らかに歩幅が広がっている。己のガキ臭さがこういうところに集約されているなと辟易しているうちに、目立つ長身のシルエットを発見した。
表情はどうか。鞘戸はもちろんのこと、俺自身も。頬に触れると筋肉が強張っているのがわかって、苦笑。……だめだなやっぱり、こういうのは。
「……忘れられちゃったのかと思ったー」
ふくれっ面だ。鞘戸は頬をぷくぷく膨らませて、到着の遅い俺にじっとりした非難の目を向けている。やはり十分は長かったよなあと反省しつつ、「ごめんごめん」と頭を下げた。
「でも、けーくんが約束ごとを忘れるわけないもんね。……さすがにちょっと不安になっちゃったけど」
「俺だってやらかすときはやらかすよ」
「……なら、それが今日じゃなくてよかった!」
笑顔が眩しい。鞘戸の口角の上がり方は理想的だと見るたび思う。小さなえくぼに、わずかにのぞく白い歯、くしゃっとなった目元なんかは、人懐こい大型犬を想起させた。それを眺めるだけで社会というのも捨てたものじゃないなと考えてしまうくらい、彼女の笑顔には優しさがぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
その笑顔が翳ることなどあってはならない。それが俺と相良の共通認識だった。だから、鞘戸だけ特別待遇で世話を焼いてきた。彼女の存在は救いであるとともに、忙しい毎日の清涼剤としても機能してくれた。
これから、どうなる。俺の返答次第では、この笑顔が損なわれてしまうのだろうか。
「……けーくん、大事な話って言われてどんなこと考えたかな?」
「候補は色々思いつくよ。たとえば、ここらへんに住み着いた野良猫を見つけたとか、近くの茂みに学校の機密情報が隠されてたとか」
「それならもっと早く言うよー」
「かもね」
「いや、まあ、ほら、その……さ」
鞘戸は歯切れ悪く、一音二音の単語を連ねる。その様子はまるで、なにかをねだっているようだった。……なにか。俺に察して欲しいなにか。
「インターハイ予選が今週末にある……っていうのは前から何回も言ってたよね。ここを目指してまっしぐらに頑張ってきたんだ、私も、みんなも」
「うん、知ってる」
「……けどね、どうしても気になることがあるせいで、最近全然集中できなくて。そのせいで部活のみんなとか友達に心配かけちゃうのが申し訳なくて」
鞘戸は、明朗な声で「だから」と続けた。
「はっきりさせたいの。……ちゃんと、したいの」
「…………」
強いまなざしに射すくめられるように、俺はまるで微動だにできなくなる。鞘戸がここまで真剣な表情を見せるのは初めてで、適当な冗談で場をもたせようなどと浅はかな考えを持ち込んだ自分が恥ずかしくなった。
心の準備を固める。たぶん、もう間もなくそのときがやってくるから。
「けーくん、あのね」
「ああ」
一瞬みたいな、永遠みたいな沈黙の後。
鞘戸は真剣な表情を一切崩すことなく、言った。
「デートの約束、なかったことにしちゃだめ?」
「…………あ、ああ?」
え、あ、そっち? 今、その話してたの? てっきり俺はもっと重大な、今後の高校生活を大きく左右しかねない内容をぶつけられると思って今日一日身構えていたんだけど。いや、別に鞘戸が悪いとかそういうあれじゃなく、俺が自意識過剰だったというだけのオチ。しかし約束の取り下げっていうのは小さなことでもないよな。鞘戸、俺に要求を通すために前のテストは一人で頑張ったんだから。
「その代わり、別のお願い聞いて欲しいんだ」
「どんとこい」
「……土日、両方大会でね? 土曜日の試合を勝ちぬいたら、日曜の初戦で、これまで一度も勝てたことないチームと当たるの。……その試合、見に来て欲しい」
「応援行くくらい、別にお願いされなくたって――」
「――それでね!」
鞘戸が、一歩ぐいっと俺の方に近付いた。合わせて俺も引き下がりたかったが、有無を言わせない雰囲気に動けずじまい。結果的に体どうしが大きく接近し、鞘戸の体から以前と同じ甘い匂いがした。
「もしも勝てたら、そのときは」
頬をみるみる紅潮させ、元から大きな目をさらに大きく見開いて、鞘戸はなにか、決定的な発言へとつなごうとする。
「ずっと言いたかったこと、言いたかったのに言えなかったこと、聞いてくれる……?」
「てんな、それ……」
そこまで言ってしまった時点で内容なんか決まり切っていて、そこまで言えるならこの場で終わらせてしまった方がいいのではないかと俺ですら思って。……だけれども、その不器用な真っすぐさが、やっぱり俺には眩しかった。
「回りくどすぎ。言いたいことがあるって言うために、お互いこんなに緊張したのかよ」
「……けーくんも緊張するんだね。ちょっとだけ、意外」
「なんなら緊張しかしないだろ、こんなの」
「ちょっとだけ意外で……かなり、うれしいかも」
頭を掻く。息を吐いて乱れつつあった鼓動を整え、相変わらずの笑みを浮かべる鞘戸と目を合わせる。
「日曜ね。ちゃんと覚えた。場所はあのデカい体育館でしょ?」
「うん。見かけたら声かけてね。……あ、やっぱりかけないで! 空回りしちゃうかもしれないから!」
「どっち」
「……じゃあ、手、振って欲しいかも」
「了解。できるだけ控えめにな」
「うん」
胸に手を当て、鞘戸もふーっと息を吐いた。「これで、なにがなんでも集中しなきゃいけなくなる!」「荒療治だな……」「いいの! こうしたらやる気出るんだから!」
なあ相良、お前が思うよりずっと、鞘戸は大人だよ。自分で考えて、自分で立て直せる。その自主性を、信じてあげたいって思う。俺たちはいくらか過保護だったんだ。彼女に汚いものや臭いものと接して欲しくないあまり、成長機会まで摘んでいた。
それとは別に、言われたことはきっちり履行する。……甘ったるくはないかもしれないけど、それは許してくれよ。
「勝てよ、てんな」
「……っ、うん!」
負けてくれれば、今回もなあなあで済ませられるのかもしれない。だけど、鞘戸はこれだけ勇気を出して、頭も捻って、必死に頑張ってる。それになにより、一生懸命やってきた友達が負けるのを祈るわけにはいかないだろ。
受け止めるのが俺の責務だ。ここにきてようやく、自分の意思が固まった気がする。応援しよう。勝つように願おう。その姿勢が、きっと鞘戸の力になると信じている。
「勝てよ」
もう一度口にした。今度は、自分自身に言い聞かせるために。
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