第58話 折衝
午後八時。駅前のハンバーガーショップにて、ポテトをちびちびつまみながらネットニュースを確認する。もう六月も半ば、例年通り関東地方の梅雨入りが宣言され、明日以降の天気予報には雲と傘のマークが跳梁跋扈していた。事故、人殺し、芸能人の不倫。上位の見出しは相変わらずで、自分に関係するような事柄はなさそうだ。
スマートフォンをロックし、懐にしまう。それと同じタイミングで、二人掛け席の向かい側に知った顔が腰かけた。相良夕である。トレイには俺と同様、ドリンクとスモールサイズのポテトが載せられている。
「部活終わりだし、もっとがっつり行かなくていいの?」
「夕飯入らなくなるでしょうが。それに私、もとから低燃費だし~?」
「低出力に抑えてるだけな気もするけど」
「経済的って言いなさい」
あれは昼休みのこと。美術室へ赴こうとしていた俺に音もなく近寄り、相良は簡潔に言った。「今日の20時。駅前のハンバーガー屋集合~」質問を受け付ける気はないのか、彼女はすぐさま立ち去った。一方的に投げつけられた約束を律義に守って、俺は今ここにいる。
「……そういえば、学校以外で二人きりになるのは初めてか」
「なに、急に色気づいちゃって。性欲?」
「四文字だけで人を不快にさせられるのはとんでもない才能だと思うよ」
学校の外で会ったことがない、ってわけじゃない。ただ、そういう状況なら漏れなく鞘戸も一緒だ。相良は友人だが、わざわざ二人で時間を合わせてなにかしようと思うほどの関係でもない。それが平日の夜に呼び出しを食らって一緒にいるのだから、どういう風の吹き回しか引っかかるのは至極当然な流れ。
「学校で話すだけじゃだめだったのか……って聞くのは野暮?」
「野暮だね。野暮オブ野暮」
相良はつまんだ長めのポテトで俺の顔を指し、それをふるふると上下させた。これは果たして食べ物で遊ぶ行為にカウントされるのか否か、ジャッジが難しい。ポテトを口の中に放り込んで、相良は続けた。
「森谷、まさかとは思うけど、この前釘差されたの忘れてない? 私、かなりはっきり言ったつもりだったんだけど」
「忘れてないよ。ちゃんと覚えてる」
「ほんとぉ~?」
怪訝な視線を差し向けられ、わずかにのけぞった。……機嫌の悪さを隠そうともしないあたり、相当な厄介ごとがあったのは想像に容易い。そして、相良夕という省エネ人間をここまで感情的にしようと思ったら、絶対に関わってくる人間がいる。
「鞘戸、なにやっても集中力散漫で見てられない。もうすぐ大会なのに、酷いもんだよ」
「…………」
「心当たりないわけ? あんなの、森谷絡み以外に考えつかない」
「そう言われてもな……」
近頃あった特筆事項といえば、あの焼肉くらい。変わった様子はなかったし、それどころか、
「しばらくは部活に集中する旨のこと言ってたぞ。今はバスケでいっぱいいっぱいだって」
「でも、私から見たらバスケ一切関係ないことでいっぱいいっぱいだよ」
「直接聞いてないのか? てんなだって、相良相手なら突っ込んだ話もできるだろ」
「じゃあしつも~ん。……それができてたら、わざわざこんな時間に呼ぶと思う?」
「……参ったな」
ドリンク片手に頬杖をついて、ここ最近の記憶を呼び覚ます。俺がなにを言って、鞘戸はどう反応したか。……特筆するような変化は認められず、であれば、俺が同席していないタイミングでなにかが起こったと勘繰らざるを得ない。
どちらかといえば、様子がおかしいのは字城の方だ。害虫駆除に駆り出されたあの日から、どうも反応が鈍い。なにを話そうが上の空で、初めは俺相手に醜態を晒したのがじわじわ効いているものかと思って放置したが、それにしても長引きすぎ。そこに追加で鞘戸まで様子がおかしいとなると、無関係とは思えなくなる。
「聞いてすらいないのか、聞いた上ではぐらかされたのか教えて」
「なんでもないの一点張り。なんでもないわけないっつ~の」
「てんならしいっちゃらしいけど、うーん……」
「ともかく、早いうちにケアしないと激マズ。今のコンディションずるずる引きずったまま大会出たら、絶対なんかやらかすよ鞘戸は。……そしたら、いよいよ本格的に取り返しつかなくなるかも」
焦りが表に出ている。相良は人差し指で延々とテーブルを叩いており、ドリンクの容器を持つ仕草もどこか乱暴だ。彼女がそこまで取り乱すからには、事態は相当深刻と見ていい。
その心配は、一友人の領分を軽々飛び越えているようにも思えた。だが、それを口にはしない。俺は、人のことを言えた身じゃない。……つくづく同類だなと痛感しつつ、諫める。
「たぶん、俺がなにかしたってことはない。……ただ、なにもしてないことが原因だったら、そんときはもうお手上げ」
「言葉遊びしにきたんじゃないよ私は。……ほんと、だからあれほどやめとけって言ったのに」
「…………?」
「こっちの話」
相良は視線を手元のスマートフォンに落として、
「この際だからはっきりさせたいんだけどさ」
感情のこもった強い声で、続けた。
「森谷は、鞘戸のことどう思ってるわけ?」
これまた、答えにくい質問だ。そのあたりをはっきり言葉にしないのが俺たちの不文律だと思っていたのに、そうやって悠長に構える余裕すら失われたのか。今までずっと匂わせるだけ匂わせて、しかし肝心な部分だけはぐらかしてきた。……くそ。上手いことやってきたつもりだったんだけど。
「……待機列があるとするだろ。で、その先頭に立っているのはてんなみたいな人間であって欲しいなと思う」
「はぁ? なに? 哲学?」
「前から順に、幸福が配給されるんだよ。本来は不定形のものだけど、仮定の話だから物体みたいに扱わせてもらう。不幸になりたい人間なんかいるわけないから、みんなその列に殺到するんだ。当然もらう順番には早い遅いが生まれて、同時に色んなところから不満が噴出する。『なんであいつが』『どうして俺が』ってな具合にね。……そういう状況でも、真っ先に受け取ったのが鞘戸天那だったら、みんな大なり小なり納得いくと思うんだ。『あの子が自分より先なのは仕方ない』って」
「……あんた、いつもそんなこと考えてんの?」
「まあね。でも、相良だってわかるだろ。てんなが幸福でない、かつ、自分は既に幸福である状態。これ、滅茶苦茶気持ち悪くね?」
「悔しいけどめちゃわかる……」
底抜けの明るさと優しさを持ち、ただその場所にいるだけで他の誰かに活力を与える。鞘戸天那は、そういう人間だ。そんな彼女だから、最低でも自分より幸せであってくれないとおかしいと思ってしまう。せめてその笑顔が絶えることがありませんように。無意識に、そう願ってしまう。
「万人が平等に幸せになる権利を持ってると思うけど、てんなはその中でも頭一つ二つ抜けて特別な、幸せにならなきゃおかしいって断言できる人間だからさ。……だから、悩まれたり泣かれたりするのは面白くないな」
「意外にいい返事するじゃん。てっきり、なあなあで流されるかと思ってた」
「……ただ、な」
向こうが俺をどんな目で見ていて、今後どうするつもりなのかは薄々察しがついている。そのことは、素直にうれしいし、光栄だとも思う。精神が美しい人間に認められるというのは、自分が世界から許されたみたいで心が軽くなる。
だが、それ以上に、
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」
到底受け入れてはもらえなさそうな気持ちの悪い本音を、相良に聞かせた。彼女はしばらく無表情で固まった……と思ったら、とある一瞬を境に全身のしわというしわを眉間に集め、言った。
「うわ~、きんも~……」
「言い方ってものがあるだろ」
「きっっっっっっっっしょ…………」
「余計傷つくわ」
本当は、こうやって反応してもらえるだけありがたいと思わなくちゃいけない。……ではなぜ、相良にだけ伝えようなどと思ったのか。
答えは、結構単純で。
「……おんなじじゃん、私と」
「だと思ってたよ」
同族であることをわざわざ示し合わせる機会なんてない。ほんの何日か前にそう思ったばかりだというのに、人生というのはどう転ぶかわからないものだ。
だが、重要なのはそこの答え合わせではないのだ。相良はあくまで、鞘戸をどうにかしたいがためにここに来たのだから。
「……俺、どうすりゃいいんだろうな。なんか案ない?」
「抱け。滅茶苦茶に抱け」
「ご無体な」
「割とマジでそれが一番手っ取り早いって。私的には業腹だけど、そしたらたぶん丸く収まる」
「この前言ったろ。それは選択肢にないんだよ」
「でもいざとなったら勃つでしょ?」
「年頃の乙女がそんなこと言っちゃいけません」
「さすがに鞘戸の裸で勃起しないのは不能だって……。言っとくけど想像の倍はとんでもないからね?」
「なんで止まれって言ってからアクセル踏むんだ」
控えめに周りを見る。そこまで人がいないのもあってか、相良の発言を咎めるような気配はない。まったく、公共の場所でいきなりなにを言い出すんだか。
「……ま、いきなりあらゆる過程すっ飛ばせっていうのは無理かもだけど、せめて甘ったるい言葉の一つや二つはかけたげて。それでなんとかなれば、お互い幸せでしょ」
「甘ったるい言葉、ねえ」
間違いなく苦手分野だ。だけど、言われたからには無視できないのが、俺の性なんだよな……。
「頼んだからね」
相良に念を押される。……どうやら、やるだけやるしかないらしい。
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