第57話 けーくん
相手チームのシュートが外れる。タイミングを見計らってジャンプし、リバウンドを制する。ディフェンスからオフェンスへと意識を切り替え、近くにいたチームメイトにパスを出す。しかし手もとが少々狂い、その隙のせいもあって速攻は不発気味。それでもなんとかドリブルとパスをつないで、ボールを相手陣地の奥まで運び込む。
センターのポジションを任されるようになったのは、中二の途中から。三年生の先輩が引退してポジションが空き、残ったメンバーの中で一番身長が高かったという理由で抜擢された。今考えると雑な決め方だなって思うけど、攻守に渡ってわかりやすい役割が用意されているのは、単純な私にちょうどよかった。
すくすく健やかに成長しますように。そう願って、両親は名前に『天』の字を採用したらしい。だからってここまで大きくなるとは予想していなかったみたいで、名づけの話になるたびお父さんもお母さんもよく笑った。だけど、背が伸びすぎたせいで着られなくなったお気に入りの服とか、足が入らなくなった一目ぼれの靴とか、そういうものが年々増えていくせいで、私は素直に笑えなかった。かわいいものというのは大体小さくできていて、成長すればするほどそこから大きく遠ざかる気がしていたんだと思う。「鞘戸が一番かわいいよ」という夕ちゃんの慰めもなんだか虚しく、成長痛でじくじく痛む膝をさすっているうちに、中学校を卒業した。
バスケは好きだった。プレイするのはもちろんだけど、バスケットシューズのゴムがキュッと鳴る音とか、綺麗なスピンのかかったボールがゴールネットをしゅるしゅる擦る響きとか、そういう外側の部分まで含めて、好きだった。身長が伸びたから有利になったことはたくさんあって、それは素直に喜ばしかった。
だけど、仲のいい友達と集まったときにみんなが私を見上げて話しかけてくるのを見るたび、これ以上伸びたらいやだなと思ってしまう自分がいるのも事実だった。羨ましい。きっとみんなは、昔買った服や靴に置いて行かれていないんだろうな。
もうすぐインターハイ予選が始まる。それに備えた最後の追い込みなのに、私はなぜか練習に入り込めていない。……今だって、前にした名前の話を思い出そうとしている。
********************
珍しく、森谷くんが一休みしていた。文化祭の直前、みんながみんな慌ただしく動き回る中、校舎一階の休憩スペースで缶ジュースをちびちび飲む森谷くん。でも、彼がずっと働き詰めなのはクラスメイトなら誰でも知っていたから、文句は出ない。むしろ今までまるで休む姿を見せなかったのがおかしい。
「大変だねー」
「ああ、鞘戸さん。ごめん、クラスに顔出せなくて。今行く」
「いいからいいから! 私のサボりにちょっと付き合って!」
ちょっと声をかけただけなのに、森谷くんは一瞬で仕事に戻ろうとする。相変わらず、頑張り屋の中の頑張り屋。『下手になんでもできるせいでやるのが当たり前になっちゃってる』この前夕ちゃんが言っていたことを思い出しながら、彼の横に座った。
「大丈夫? 疲れてない?」
「やること多すぎてフリーズ中。有志発表のスケジュール調整して回ってるんだけど、誰一人制限時間守らなくて大変だ」
「生徒会のお手伝い……?」
「役員みんな手いっぱいだから、猫の手だろうが無知な一年生の手だろうが絶賛募集中。……いやほんと、成功すんのかなこれ」
首を傾げ、どうしようもなさそうに笑う。私なんかはわいわい楽しく準備しているつもりだったけど、忙しい人たちにそんな余裕はないみたい。だからって、実行委員でもなければ生徒会役員でもない森谷くんがどうしてそんな仕事を受け持っているかは疑問。
「新条は上手くやれてる?」
「力作業頑張ってくれてるよ。重たいもの運んだり、組み立てたり」
「ならよかった。本当はそっちもフォローしたいんだけど、悲しいことに体って一つしかなくてさ」
確かに、クラスのみんなはまだ新条くんに対してどこかよそよそしい。怖がられているのは間違いなくて、前に予想していた通り連れてきた森谷くんに陰口を言った子もいたみたい。……夕ちゃんから教えてもらったことだけど、その子がしばらく夕ちゃんに近付こうともしないところから見て、きっと淡々と言い負かしたんだろうなというのがわかる。なんだかんだ言って、夕ちゃんも森谷くんを認めてるのかも。
「鞘戸さんは調子どう? 上手くいってる?」
また、人の心配。森谷くんは心配魔人だから、口を開けばすぐ誰かへの気遣いが飛び出す。それは全然いやなことじゃなかったけど、言っている本人の方がもっと心配されなきゃいけないのがいつも見え見えで、不安になる。
「私は、森谷くんの方が心配だよー……」
「なんで?」
「死んじゃうって、そんなに頑張ってばっかりいたら。……森谷くんのお世話になりっぱなしの私が言っても説得力ないかもだけど」
「気遣ってもらえるのはありがたいんだけど、俺、頑張らないでいた方が死んじゃうタイプだから」
止まったマグロが呼吸できなくなるのと同じ。言って、森谷くんはぐぐっと腕を伸ばす。
「ま、最近は助けられて当然みたいな顔したやつらが増えてきたから、ちょっと思うところもあるけどね。でも、それを放置したらしたで結局面倒は起こるわけで、だったら手を付けた方が早くていい」
「……ぅぐ」
「もう鞘戸さんくらいなもんだよ。今時間ある? から始まって、終わったときにお礼言って帰ってくの。性格ってそういう細かいとこに出るよね」
「え……」
知らなかった。みんな、もうそんな態度で森谷くんに接してるんだ。……気にした方がいいんじゃないかな、もっと。感謝の心が薄くなるのは、絶対よくないことだよ。
「できるなら、こんなことでねちねち言いたかないんだけど。……そこらへん、俺もまだまだ精進が足りない。もっと淡々とこなせるようにならなきゃ」
「…………」
なんとなくわかってはいたけど、たぶん、森谷くんが見ている世界は私たちとは違うものなんだ。それがわかっていたから、夕ちゃんは口酸っぱく忠告してくれていたんだと思う。彼が目指すものとか、目的とか、結構話すようになったのに全然見えてこなくて、正直、ちょっと不気味。
「だめだよ。そういうのは、気にしないとだめだよ」
気づけば口に出していた。私が首を突っ込んでいいような話じゃないってことは、なんとなくわかっていたのに。
「うまく言えないんだけど、気にして欲しいな。……良くしてくれた人には優しくして、嫌な人にはちょっと素っ気なくあたって。それって、すごく普通のことだと思うから。普通のことをいやがるようになったら、色々おかしくなっちゃいそうで心配」
「……うん、俺もそう思う」
森谷くんは、苦笑混じりにそう言って、
「だから、実はこっそり特定の相手だけ贔屓してる」
「……誰?」
「今時間ある? から始まって、終わったときにお礼言って帰ってく人」
「…………」
「やっぱ、どう頑張っても好き嫌いって消えないわ。話してて気分がいい相手には、つい肩入れしちゃうね」
「……………………」
「鞘戸さん?」
どういうわけか森谷くんの方を見ていられなくなって、顔を伏せた。あー、あー、あーーーーー。なんだろ、これ。なんだったんだろ、今の。少女漫画の一番きゅんとくるシーンを読んだときの感覚を思い出す。内臓を直接手で握って、好き放題振り回したみたいなぐらつき。
血がどくどくめぐって、うるさい。鼓膜に心臓がくっついたみたいで、全然落ち着かない。……森谷くんに全然そんなつもりはないんだろうけど、なんていうか、今のはすごく告白みたいだった。実際に何度か男の子から告白されたことはあったけど、それが比較にならないくらい、告白みたいだった。
うわぁ。うわぁーーーーーーーー。森谷くん、こういうこと言っちゃう人だったんだ。もしかして他にもいるのかな。私以外に贔屓してる女の子、いるのかな。……というか、ここで比べるのが『誰か』ではなく『女の子』な時点で、私はやっぱり単純すぎる。
「具合悪いなら保健室に――」
「――違うの! 元気、元気だから! 目にまつげ入っちゃったみたいで!」
手を素早く左右に動かし、壁を作って表情を誤魔化す。バスケで培ったスクリーン技術……ではないけど。
「見ようか。慧眼の慧か万億兆京の京かで迷った末に今の名前になったらしいし、目の問題なら他の人よりなんとかなりそう」
「それほとんど関係ないよね?!」
「バレた?」
「……あ、取れたかも」
入っていないものが出て行ったふりをするのは大変だったけど、まつ毛の細かさを見分けられる人なんていない。森谷くんにもバレた気配はなくて、「ならよかった」と微笑んでいる。
「……なんで数字の方の京になったの?」
まだ心臓がうるさい。なので、できるだけ彼に話してもらい、その間に呼吸を整えよう。
「スケールの大きい人間になれっていうのと、後は画数多いと書くのが面倒になるからって。おかげで楽させてもらってる」
「ちょっと面白い理由かも」
「生きてる間に相当な回数書く漢字だし、手間考えたらこっちでよかったと思うな俺は。……鞘戸さんはどう?」
「……実は最初、けいくんじゃなくてきょうくんだと思ってた」
「マジか。まあ、そこはしょっちゅう間違われる。……で、俺が聞いたのは、鞘戸さんの名前の由来なんだけど」
「あ、そっち?」
恥ずかしい。勘違いしたみたい。……それでえっと、私の名前の由来といったら。
「天まですくすく育ちますようにって。……だけど、さすがに育ちすぎたかも」
高校に入ってからも、身長は伸び続けている。来年には170センチの大台突破も見えてきて、そしたらいよいよ成人男性の平均に迫ってしまう。
森谷くんと私に、そこまで大きな身長差はない。……男の子って、自分より背が高い女の子をどう思うんだろう。
「背ぇ高いの気にしてる感じ?」
「……実はちょっと。でも、バスケだと役立つからなんとも言えなくて」
「そういう女子特有の機微は、さすがに俺じゃ理解できなさそうだ」
飲み終わった缶をぺきっと潰しながら、森谷くんが言う。
「でも、ご両親から見たら相当鼻が高いんじゃない? 願いが通じて、優しく育って。それよりわかりやすい親孝行ってないよ」
「そうかな?」
「そうだよ、きっと。あと、これは個人の勝手な感想なんだけど」
近くのゴミ箱目がけて放り投げられた缶が、綺麗な放物線を描いて――
「どんな思いがこめられてようと、あんまり気にし過ぎる必要はないんだよ。だって、響きがいいじゃんね。天那って名前」
――そのまますとんと綺麗にゴールイン。距離的に、二点追加だろうか。
聞いて、ずっと胸の奥につかえていたもやもやが一気に晴れていくような気持ちになった。そうだ。当たり前のことだった。伸びて伸びて止まらない背をどこか名前に責任があるかのように感じていたけれど、そこに原因も理由も罪もあるわけない。そもそも私は、昔からこの名前を気に入っていたはずなんだ。
「その割にはあんまり下の名前で呼んでる人見ないけど。相良さんですら苗字呼びだし」
「ね、じゃあさ」
「ん?」
「……森谷くんが、呼んでみてくれない?」
「天那さん?」
「も、もうちょっとフレンドリーに」
「ふむ」
ほんの一瞬、時間を置いて。
「てんな」
「…………」
「やっぱりいいね。なんていうか、全体的に角がなくて丸っこい」
そう言われても、今はあちこちいっぱいいっぱいでよくわからなかった。同級生の男子に下の名前で呼び捨てにされたことなんてこれまでにない。……でも、悪くない。嘘、かなり良い。
「っし、水分も補給したことだし、もうひと頑張りしてくる。じゃあまた」
「うん、でも、ほどほどにね。け、けい、くん……」
「……さっきは言えてなかった?」
「恥ずかしいじゃん、こういう切り替えって!」
パパママをお父さんお母さんに矯正するのも大変だったのに、男の子の友達を苗字呼びから名前呼びにするのが一瞬で済むわけない。歯は浮くし、舌は迷うしで、全然うまくいかない。
「あー、あーーー、けいくん、けいくん、けえくん……」
ん、なんか、最後のはちょっとしっくりきた。『け』と『い』で分けるんじゃなく、『け』から地続きで流す。その方が呼びやすそう。
「……けーくん」
「ちょっと舌っ足らずになってない?」
「こっちの方がかわいい……かも?」
「自分の名前にかわいさ求めたことはないんだけど……。まあ、自分に合ったやり方でお任せする」
森谷くんは立ち上がって、用のある方向に向かって歩き始めた。私はその間も、心の中で「けーくん、けーくん……」と何度も反復練習を続けている。
「んじゃね、てんな」
「うん。またね、けーくん」
うわ、だめだ。私、この男の子のこと好きだ。
だって、そうじゃないと、名前を呼ばれたくらいで、こんなにときめくわけない。
********************
「あっ……」
シュートが外れた。何度も何度も繰り返し練習してきた、よほどのことが起きない限り決まるはずのゴール付近でのジャンプシュート。体勢を崩し、リバウンドにも失敗。「鞘戸、集中!」先輩から檄が飛んで、反射的に自分の太ももをどんと叩く。
ゲームに入り込めない理由なんてわかり切っていた。この前、字城さんと一対一で話して以来、ずっと胸の奥底でもやつきがわだかまったまま消えてくれない。……あの紅く染まった綺麗な横顔が、消えてくれない。
ねえ、どうしよう。どうしたらいいのかな、けーくん。私、こんな気持ちのまま大会に出て大丈夫なのかな。
けーくん。けーくん……。
「鞘戸」
寄ってきた誰かに、背中を軽くさすられた。相手は見なくたってわかる。だって、親友だもんね。
「夕ちゃん……」
インターハイ予選が近づく。……そんな大事なときに、私は迷いのど真ん中に立っていた。
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