第56話 めんどくせえ女
我に返ったときにはもう、向こうからの返信が届いていた。まずい。なにしてるんだろ、私。
肌がべたつくのを理由にシャワーを浴びに行ったまではよかった。レバーを回し、水がお湯になるまで少し待って、最後に頭からかぶる。汗や汚れが少し熱めのお湯で流されていくのが心地よく、鼻唄でも歌おうかと上機嫌になったそのとき。
壁面を這いまわる気色悪い昆虫の姿を、発見してしまった。
「ッ――――!!!!!」
叫び声か悲鳴か自分でもよくわからない音が喉から出て、シャワーヘッドを取り落とす。そこからは速いもので、水浸しかつ一糸まとわぬまま、風呂場を飛び出した。部屋にフェイスタオルくらいならあるからそれで頑張って体を拭こうかとも思ったけど、一匹いたら十匹いると思えの心得を知っていた私は、急に自分の部屋までもが恐ろしい場所に思えてきてしまった。
幸か不幸か、適当に脱ぎ捨てた部屋着がそこら中に散らばっている。風呂上がりに使ったタオルもあったので、かき集めて最低限の身なりを整えた。髪の毛は濡れっぱなしだったけど、わざわざ脱衣所までドライヤーを取りに行く勇気はない。
アレの退治は、ずっとママに任せてきた。マンションの高層階に住んでいるのもあってほとんど出会うことなく生活してこられたから、自分で片づけた経験は皆無。……しかし残念なことに、両親はしばらく前から留守。
私がやらなくちゃいけない。そう思った瞬間に、気分がずーんと沈んだ。水回りは排水口とつながっているのだから、そこに逃げ込まれてもっと増えでもしたら大変。……早い段階で決着をつけないと、後からもっと苦しい目に遭う。
あれこれ計算していると、手にはいつの間にかスマートフォンが握られていた。習慣になってしまったのか無意識に森谷とのトーク画面を表示して、文字を打ち込んでいる。
『森谷』
『出た』
『黒いの』
『風呂場』
自分で言うのもなんだけど、すごくばかっぽい。頭の中を空っぽにして、反射神経だけで打ち込んだ文章みたい。……実際そうだから困ってる。
なにかあったら真っ先に森谷に話す癖がついていた。飛行機雲が浮かんでいたとか、薦められた小説が良かったとか。報告というよりは、日常的に話すきっかけを欲して。そうするとなんだか落ち着くことを知っていたから、今回も文字にすることで気持ちが安定するかと考えたんだと思う。
だから本当に、それ以上は求めていなかった。せっかくの休日で、天気がぐずつきがちな季節にしては良く晴れている。こんな良好なコンディションの中、つまらないことはさせられない。
『助けて』
助言が欲しい、という意味だった。どう立ち向かうかとか、向こうにどんな習性があるかとか、そういう情報が知りたかった。……できれば通話しながら、不安を紛らわせつつ退治する。そういうプラン。
するとしばらく経って、返事が一通。
『今から身支度する。一時間くらい待ってて』
そういう意味で言ったんじゃないのに、森谷は拡大解釈してしまったらしい。……いや、私の書き方が悪いのかも。『助けに来い』って読み取っても、全然不思議じゃない。
だから、返事をしないと。『助言して』と一言。……一言。…………でも、このまま行けば休日に森谷と会えるわけで、学校とは違う雰囲気で話せるわけで。その悪魔の囁きは今の私にとってこれ以上なく甘美であり、つい手が止まる。迷惑をかけたくないとはいつも思っているけれど、やはりどうしようもなく、森谷の傍にいると心が休まる。
結局、返信はできずじまい。そのことに軽い自己嫌悪を覚えながら玄関で丸くなっていると、宣言通りきっちり一時間で森谷はやってきた。……ああ、色々考えたけど、やっぱり顔を見るとうれしくなる。申し訳なさを、喜びが軽々圧倒していく。
不安だからと言って、森谷にくっついて動いた。それはうそではなかったけど、純度100パーセントの本音というわけでもなかった。森谷の背中は意外に大きい。……前に抱き着いた感触を未だに覚えていて、しかしそろそろ記憶は薄れてきている。正直、どうにか理由をつけて補充してしまいたかった。
胸あたりに腕を回して抱き着くと、独特の硬さと温かさが伝わってきて顔が熱くなる。もう少し近くで感じたいなと欲が出て、体をさらに密着させる。ついでに顔をうなじに押し付けると、制汗剤とシャンプーが混ざった匂いがした。
やったことを変態だと非難されたら、どう頑張っても否定できない。ただ、緊急事態で心が浮ついていると大胆になってしまうものなんだと思う。森谷は害虫駆除に精を出しているのに、私だけ違うものを堪能している。この非対称性は、少々理不尽だ。
退治は終わった。森谷に任せろと言われたので、名残惜しさを誤魔化しながら出て行く。……わーきゃー喚いてうるさい女だと思われなかったかな。
この後はどうしよう。ソファで丸くなりながら考える。……ここのところ料理の腕が上がりつつあるので、ちょっと味見でもしていってもらおうか。でも、あの虫が湧いた家で食事するのはいやがるかも。……うーん。
少しすると、森谷が出てきた。買い出しに出かけないか聞かれたけど、それより先に、自分の部屋の安全確保が必要なのを思い出した。眠る場所が脅かされるのは耐えられない。……というのは大義名分で、私はまた堂々と森谷に密着する。蒸し暑い場所で作業したせいか少し汗ばんでいるようで、けど、その匂いも嫌いではなかった。
探した範囲、部屋に虫はいないらしい。……実は脱衣所の眼鏡を回収できなかったせいで視界はぼやけがちで、自分の部屋の様子がはっきりとは見えていない。視力が悪いのを隠す理由はもうないのだが、眼鏡スタイルを森谷に晒すのが少し気恥ずかしかった。
ベッドに寝そべる。そこで、今さら思い出す。運よく干されっぱなしのショーツは見つけたが、ブラがどこにもなかった。なので泣く泣くカップなしのキャミソールをインナーに着込んだわけなんだけど、その状態でべたべたくっつくのはさすがに……痴女っぽい。さやとほど立派ではないが、一応きちんと私の胸部は盛り上がっている。……森谷がその話に触れないのは配慮か、なにも感じなかったからか。どちらにせよやりすぎたと体が火照り、顔を隠すために近くにあったくまのぬいぐるみを抱きしめる。ついでに胸も隠せて一石二鳥。
森谷もベッドに座ってもらって、会話を続ける。……やはり、痴女っぽいだろうか。そういう雰囲気になったとして、適当に選んだ下着で幻滅されたらどうしよう。……ないない。森谷は、付き合ってもない女の子に手を出したりなんてしない。しかし、それもどうなんだ。紳士的と言えば聞こえはいいけど、実際は据え膳が冷えるのをただ眺めている臆病者じゃないのか。
ここで告白する、という手もなくはなかった。しかしながら厄介なのは、森谷がさやとと交わしているデートの約束。……それが片付かないと私は自由に動けない。責任感と義務感を集めて組み立てたのが森谷なんだから、雰囲気でとかテンションでとか、そういうのじゃどうにもならない。
だから、この前の話を本人からしてもらおうと思った。森谷の友達。新条の話。さやと相手にぼかした部分があるとは聞いたけど、半年以上経っているのだから、いくつか枷が外れていてもおかしくない。
「字城にしたようなことを、実は前にもしてまして」
頬を掻きながら、照れくさそうに言う森谷。なにそれ。なにそれなにそれなにそれ。聞いてない。初めて聞くから当然だけど。
胸中、まったく穏やかじゃなかった。くまで隠しているから見えていないだろうけど、きっと表情にも不満が漏れ出ている。
私にしたようなこと、というのはつまり、退学願いを持ち出して脅すレベル。荒唐無稽な脅迫に、あのとき私の脳みそは真っ白に染まった。……てっきり、そこまでの無茶をするのは初めてなのだと思っていた。どうやら森谷は私を特別視しているようだったから、過去一番、一世一代の決意を持って臨んだのだとばかり。
「……どういうこと」
救いがあるとすれば、相手が男子だということ。本気で相手した女子が私だけなら、面子は保たれるし溜飲も下がる。……どうしよ、自信ない。誰も教えてくれないだけで、実はさやとともなにかあった可能性を否定できない。しかし、それを真っ向から聞いてもはぐらかしてきそうなのがこの森谷という男なのだ。情報の後出しが大好きな秘密主義者。それが、私が交通事故同然に恋に落ちてしまった相手。森谷はさがらのことを秘密主義者だと言っていたけど、私から見れば二人ともそんなに違わない。……むかむかしてきた。向こうにそんなつもりが一切ないとわかっていても、遊ばれているみたいで面白くない。
「つまんない理由で学校ドロップアウトしようとしてたから、考え直せって言いに行った」
「……私じゃん」
本気で考え抜いた末の決断だから、決してつまらなくはなかったと思うけど。……なんだ、同じってそういうこと。早とちりして損した。無駄に怒って、無駄にむかむかしてしまった。結論から先に言ってもらわないと、感情ばかり先走ってよくない。それを森谷によく言って聞かせたかったけど、「なんで?」と問われたら「私は好きな男の過去にいちいちショックを受けるか弱い女だから」と言うしかなくなる。そんな色気のないナンセンスな告白はいやだ。私は意外とロマンチストだから、要所ではきちんと雰囲気づくりをしたい。
「で、まともに正面から突っ込んでも取り合ってもらえなさそうだったから、開幕一発かますために部屋のドア思いっきり蹴飛ばして破壊した」
「……私のときと似たようなことしてるじゃん」
もしかすると、森谷のやり口にはパターンがあるのかもしれない。大事なところでとんでもないことをしでかし、場のペースをつかむ。たとえば初対面のときは、勉強する必要などないと言ってこれまで相手してきた連中との違いを手短にアピールした。うちに乗り込んできたときは、退学願いを見せつけて私の思考を止めた。そして新条相手には、虫も殺せなさそうな見た目の優等生が手っ取り早く暴力に訴える姿を見せ、主導権を握った。……まあ、虫はついさっき殺してもらったんだけど。
そういえば、さやとが言っていたような気がする。森谷が新条のお宅に乗り込んですぐ、大きな音が鳴ったと。さやとは喧嘩を疑っていたみたいだけど、それは森谷がドアを蹴破った音だったんだ。
「そんな感じのお話です」
「…………」
出た、秘密主義。私が知りたいのは、新条が学校に通わなくなった『つまんない理由』とやらなのに。ぼやぼやっとした概形だけ見せて、その実内側がどうなっているのかまでは語らない。しかしながら話したという体裁自体は保つから、不義理を働くわけでもない。法律の抜け穴を見つけて悪さをするやつの手口みたい。「解釈次第でどうにでも」うん。なんか、森谷なら言いそう。
けれど、森谷はどう解釈しても悪人なんかじゃないのだ。酔狂なことをする変なやつなのは間違いなくとも、それは決して悪事にはつながらない。……ただ、大事なことをぼかされると、信用されていないみたいで気持ちが落ち込む。森谷にそんなつもりがなかったとしても、落ち込む。
「……もうちょっと詳しく聞かせて」
「どこらへんを?」
「新条と、どんな話をしてきたのか」
「字城は、この前ここであったやり取りを俺があちこちで言って回ってたらどう思う?」
「…………」
怒るし、失望するし、幻滅する。相手が森谷だから特別にさらけ出した一面を、どうして関係ない連中にまで知られなくてはいけないのか。
……あ。
「字城を安く見積もってるわけじゃない。むしろ逆で、大事なことをよそでぺらぺら話すやつなんかを信用できないだろ? それやって喜ばれるのなんてせいぜい伝書鳩まで。だけど、俺は人間なんだ。口が堅い方が基本的に得をする」
「……森谷、一個いい」
「なに、神妙に」
「ごめん……」
あろうことか、森谷が今語った人間関係のタブーを、私は数日前に犯している。……さやとの優位に立ちたい一心で、真剣な顔で幸せになれって言われたとか、ハグしたとか、好き放題言いふらした。
うわ、最悪。最低。よく考えたら、とんでもない裏切り。森谷があそこまでしてくれたのは信用の表れだったのに、私はあろうことか、それを賞状やトロフィーと勘違いした。自分はこれだけしてもらいました。で、あなたはどうですか。……ほんと、あり得ない。さやとが言い返してこなかったのはそういう経験がなかったからではなく、単に森谷に義理立てしたからかもしれないのに。そんなつまらない競争で勝ち誇って、あげないからなんて挑発して、果たしてなんになる。森谷に嫌われてしまったら意味なんてない。
「……言えないけど、かなり悪いことしたと思う。軽蔑して」
「具体的な中身なしにいきなり軽蔑ってきつくない?」
「板に絵の具塗りたくるしか能のない女だって言って」
「それはそれで特定のものを極め抜いた達人感出て、一定数崇拝されちゃうでしょ。板と絵の具から巨万の富を生む錬金術師だよ」
「褒めないで。私の悪いとこ全部並べて攻撃して」
「まあ、正直今の感じは滅茶苦茶めんどくせえなって思うけども」
「…………」
「攻撃しろって言ったくせに、言われたら言われたで普通にダメージ受けるのもまた、めんどくさい」
「……………………」
「こんなもんでいかがでしょう」
私、森谷に面倒な女って思われてたらしい。なんで? ただ独断で学校やめようとして、止めにきた相手にぎゃんぎゃん喚き散らして、毎日のように文章や会話のやり取りを要求して、虫一匹に大騒ぎして休日を潰させただけなのに。……並べると、厄介すぎる。責任感と義務感を集めて組み立てられたのが森谷なら、面倒くささと迷惑を集めて組み立てられたのが私だ。……森谷、こんなのの相手ばかりさせられて、疲れないのかな。
「冗談ね、冗談。それに、女子はちょっと面倒なくらいで丁度」
前半と後半で矛盾している。……本当に思われてるんだ、面倒って。それで言うと、さやとなんかはさっぱり明るい性格でちっとも面倒じゃなさそう。手はそこそこかかるのかもしれないけど、それを負担に感じさせない柔らかさがある。
うわぁ。うわぁ。うわぁ。なんてやなやつなんだろ、私。本当なら一部始終しっかり話して頭を下げたいのに、内容が内容だから口にできない。どうやって導入すればいいのかわからない。「いつから森谷のことが好きなのかさやとに質問して、思いを募らせた期間が私よりずっと長いことがわかったので、ちっぽけな自尊心を守るためだけにマウントを取りました」要約はこうで、無論、言葉になんかできない。ナンセンスすぎるし、今度はさやとに飛び火する。
「……森谷さ」
「うん?」
「作んないの、彼女とか。……頑張り屋なんだし、作ろうと思えばどうにでもなるでしょ」
自棄になって、変な質問を始めてしまった。……こういうの、一般的に自分に好意があるかどうかの探り目的じゃん。その一般というのをあまりよく知らないけど、隙を見つけたところで「なら私は?」と売り込むものなのは容易に想像がつく。
「彼女かぁ……」
森谷は一拍置いて、
「いたら楽しいんだろうとは思う。欲しいか欲しくないかで言ったら、欲しい」
音が、すーっと耳を抜けていった。その後も言葉は続いたが、まったくもって頭に入ってこない。
もし、もしも。
約束のデートでさやとに告白されたら、森谷はどうするんだろう。
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