第54話 緊急招集

 土曜。俺はどういうわけか、字城のお宅に招待されていた。前々からお誘いを受けていたとかいうわけではなく、昼過ぎになって急に招集がかかったのだ。


『森谷』

『出た』

『黒いの』

『風呂場』

『助けて』


 LINEにて、鬼気迫る短文連投。なにが出たのかは尋ねるまでもなかったが、字城がここまで虫嫌いとは意外だった。「うわー……」とか言って眉を寄せながら、平然と殺虫剤を使いそうなイメージを持っていたのに。

 まあ、頼られたなら出動せねばなるまい。俺自身そこまでヤツとの相性がいいわけではないが、真っ向から戦えるくらいの耐性は持っている。それに、あの家はGの住処にしては少々上等すぎだ。


 身支度を整え、字城の家に着いたのが連絡をもらってから約一時間後。玄関に鍵はかかっておらず、ドアを開けると目の前に絶望的表情で丸くなって震える彼女の姿があった。


「森谷……」


 心底疲れ果てた声で、字城が俺の名前を呼ぶ。言ってはなんだが、前回ここに乗り込んだ退学騒ぎのときより萎れているように見えた。一体なにがあったんだ……。


「そんなにヤバいなら一旦家から避難しとけばよかったのに……」

「……お風呂じゃなかったらそうしてた」

「あ」


 よく見ると、髪が若干濡れている。シャンプーの匂いもいつもより少し強めだ。……シャワー中だったのか。使わせてもらった経験があるからわかるが、この家のドライヤーは風呂場に併設された脱衣所兼洗面所にある。だが、真横に悪魔がいる状態でドライヤーを取りに行く勇気が出なかったのだろう。髪を水浸しにしたまま外に出られないというのは、字城が女性であることを考えればもっともだ。


「悪い、デリカシーなかった。……じゃあ、ちょっと見てくるから待っといて」


 一応、家から殺虫剤は持ってきている。捉えることさえできれば、殺せる。……ただ、噴射直前の間の取り合いが嫌いなんだよな。


「待って!」


 声量も、以前にこの玄関で言い合ったときより大きい。そんなに声張れたんだと驚く俺に対し、字城は、


「無理。一人、無理……」

「わかったわかった……」


 よほど恐ろしい思いをしたのだろう。シャツの背中をぎゅっと握ってくる字城を伴って、俺は件の浴室へ向かった。家の中が全体的に荒れ気味なのは、毎週月曜にやってくるというハウスキーパーさん絡みなのだろう。部屋着が床に放り投げられている妙に艶めかしい生活感からは目を逸らしつつ、意を決して洗面所のドアノブに手をかけ――


「――ここにはいない、か」

「ほんと? ほんとに言ってる?」

「ああ、ぱっと見は……」


 もしかしたら隅の方で身を潜めているかもしれないと思い、じっくり凝視したのがまずかった。……ある意味ではGなんかよりもよほど見るべきでないものが、そこにはあった。


「森谷、なんかしゃべって。いない? いないんだよね?」

「……あの、字城さん」

「いても教えなくていいから。そのときはさっと終わらせて」

「…………ここ、脱衣所じゃないですか」

「…………」


 シャワーを浴びるからには当然、それまで着ていた衣服と着替えが置いてある。……彼女は切羽詰まって逃げたのだろうから、それらが剥き出しで残っている。

 思い出すのが何回目になるかは忘れたが、俺は確かに過去一度、下着姿の彼女と遭遇した。あれも事故だし、今回も事故。……そう割り切ってしまえればいいのだが、いかんせん俺は字城と仲良くなってしまった。接点がない美人の下着と、付き合いがある友人の下着。それが着用されているものかどうかはさておいて、覗き見てしまったときの罪悪感でいえば後者の方が圧倒的。


「一度片付けてもらうことは可能でしょうか」

「……いい。許すから、森谷がどかして。……その下に隠れてたら気絶しちゃう」

「いや、俺がよくないんだけど……」

「私はいいの! 一回見られてるんだから、もう全裸以外気にしない!」

「あとから怒らないでくれよ……」


 こんなところで拘泥してはいられない。俺は極力目を逸らし、脱ぎ散らかされたシャツで下着を2セットくるんで洗濯かごに放り投げた。……まったく、せめて脱いだ方くらいはちゃんとかごに入れといてくれ。


「……それ、普段使いのかわいくないやつだから」


 その補足をしてなんになるのかは知らないが、本丸にたどり着いた緊張感からか、字城の体が半端ではなく強張っている。最初はシャツを引っ張るだけだったのに、今となっては上半身にしがみつく格好だ。下着を見せつけた直後に、容赦なく胸を押し当てないで欲しい。いくら状況が状況とはいえ、意識するものは意識するのだ。

 しかし、どんな環境でもやることはやる。「開けるぞ……」と前置き、覚悟の上で浴室の横戸を開くと、途端にむわっとした湿気が襲ってきた。見ればシャワー出しっぱなしで、どんな状況で字城が逃げ出したのか容易に予想できる。


「……字城。一つ、教えておきたいことがある」

「今はそういうのいいから……!」

「連中は、女性の叫び声を聞き分けて、そっちに突撃する習性を持ってるんだ」

「…………!」

「静かに頼む」


 俺のお願いに、目の前の景色がどうなっているか察したようで、字城は顔をぎゅっと背中に押し付けてきた。……よし、それでいい。そのまま、そのまま……。


「ふぅ……。片付けるから、字城はもう出て行って大丈夫」


 噴霧した殺虫成分が、器用に壁に張り付いていたGを苦しめた。その後しばらくタイルの上でもがきはしたものの、最終的に生命活動を停止。……よかった、同じ場所にいてくれて。これでもし雲隠れでもされていたら、三度目のお泊まりルートへまっしぐらだ。


「……一匹いたら十匹いるんでしょ?」

「設置型の殺虫餌買ってきて対策取ろう。……出てこないやつまで考え出すとキリがない」

「リビング行ってる。……ティッシュは脱衣所にあるから」

「了解。片したら戻る」


 幾重にも重ねたティッシュで死骸をくるみ、ゴミ箱へポイ。後は浴室の壁を軽くスポンジで洗い流し、『ヤツ』がいたという形跡を消し去った。

 深呼吸。なんだか俺まで無駄に緊張してしまった。この家のサイズだと設置罠はどれくらい必要か計算しながら、風呂場を後にする。字城は、リビングのソファで三角座りをしていた。Gを見た後は床に触れたくなくなる心理だろうか。


「終わったよ。どうする? このまま対策グッズ買いに行く?」

「……ありがと。行くけど、その前にもう一個お願い」


 彼女が、どこかを指さしている。見ればこれまで俺が足を踏み入れることがなかったスペースで、前聞いた限りではそちらには字城一家の自室があるはず。


「最悪、本当に最悪、家のどこかにあれがいるのはいい。……でも、自分の部屋だけは無理」


 心なしか爪先に力を入れる恰好で、字城はおそるおそるソファを降りた。そして、ちらちら俺を見ながら指し示した方向へと進んでいく。寝室というもっとも無防備な姿を晒す空間に、ヤツの侵入を許すわけにはいかないのだろう。

 しかしながら、


「失礼を承知で言うんだけど、部屋、見られて大丈夫な状態? 脱衣所みたいになってたら目のやり場がないし、それイコールで捜索難航なんだが」

「……散らかすのはおばさんに片付けてもらえるとこだけ」


 さすがに自室の掃除までハウスキーパーさんに面倒を見てもらっているわけではないのか。俺としてはその意識を家中に向ければいいのにと思ってしまうが、家の広さを思うとそう簡単でもないのかもしれない。

 とにかく、字城は一刻も早く身の安全を確保したいようで、俺の手をぐいぐい引っ張って急かしてくる。……女子の部屋にお邪魔する以上、ある程度の心構えをしたいところなのだが、許される状況ではなさそうだ。「早く、お願い」普段の平坦な喋り調子はどこへやら、吐き出される言葉は焦りと恐怖でいっぱい。それに釣られ、俺まで必要以上に体が強張る。

 手を引かれるまま、長い通路の一番奥にあるという彼女の部屋の前へ。家の奥行きは想像以上で、一部屋あたりの広さが相当なのだとうかがえる。ドアには小さなボードが吊るされており、そこには『Be quiet』と記されていた。……反抗期か?


「開けるから」


 間髪入れず、字城がノブに手をかける。……いてくれるなよ、G。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る