第41話 移動車内
「お待たせー!」
「お疲れ」
いよいよ日も暮れなじんだ午後七時前、暗がりの中、颯爽と俺の方めがけて駆けてきたシルエットが一つ。だが、たとえ声を出さなくても彼女が何者であるかは判別できたと思う。鞘戸天那には、そういう存在感がある。
部活を終えてぞろぞろ帰路につく部活生徒の群れと逆行する形で、俺たちは里見先生の車が停まっている方に歩いた。まだ明るいうちに位置は記憶済なので、迷いはない。
しかしながら、ここで出てくるのはあの話題。
「あれ、夕ちゃんは? 部活の途中でいなくなってたから、てっきり先にけーくんたちと合流してるんだと」
「……相良、『なんか焼肉の気分じゃなくなった~』って言い残して帰った」
「……???」
「自由なやつだよ、ほんと」
いやさすがに無理があるだろと心臓バクバク頭ガンガンお目々チカチカついでに空にはお星さまキラキラなわけだが、鞘戸は「夕ちゃんらしいなー」とご納得の様子。よかった。俺のトレースした相良像は親友である鞘戸目線でも間違いのないものだったらしい。
「え、そしたら、残ったのって私とけーくんだけ……?」
「先生の懐を考えたら優しい結果かもね」
「あ、あー……。うわー……」
「なぜ離れる」
「制汗剤いっぱいばしゃばしゃしてきたけど、もし万が一汗臭いって思われたらいやだもん……」
「大丈夫大丈夫。臭くない臭くない。良い匂い良い匂い」
「ほんと? ほんとだよね? もしだめだったらちゃんと言ってね?」
鞘戸はあたふたしているものの、先ほどから漂っているのはいつもと同じ柑橘系の香りだけ。ただ、ここで『いつもの』なんて言おうものなら俺が身近にいる女の子の体臭をちゃっかり記憶している変態だとバレるため、セーフ。ノープロブレム。エブリシングゴナビーオールライトと繰り返し唱えるしかなかった。
しかしながら、自分の匂いというのはわかりにくいものだ。なんなら一日学校にいた俺の方が臭う可能性だってある。……けれども、そんな心配も全ては杞憂に終わるのだ。
「どうせこれから強烈な焼肉臭を全身に浴びるんだ。細かいことは気にするだけ無駄無駄」
「それもそう……なのかなぁ?」
重ね重ね二の腕のあたりを嗅ぐ鞘戸だったが、ここでいよいよ吹っ切れたらしい。
「お腹減ってるからたくさん食べちゃうと思うけど、見ても引かないでね……?」
「引かないし負けない。男子高校生の食欲を甘く見るなよ」
「……なら勝負する? 自慢じゃないけど、どれだけ食べてもいいってなった私はすごいよ」
「いーや、実はそんなにすごくないね。お茶碗三杯で音を上げると見たね」
「もっといけるもん!」
喧々諤々やりあっているうちに、教員用の駐車場が近づいてきた。すると一台のワンボックスカーがエンジン音をふかし、ついでにヘッドライトを灯した。その合図に従って俺が後部座席のスライドドアを開けると、
「二人とも、ちゃんと腹は空かせてきたか?」
「ぺこぺこ!」
「昼からなにも食べてません」
「ならよし」
里見先生は力強く言って、俺たちのシートベルト装着を確認すると、緩やかにアクセルを踏み込んだ。相良の直前キャンセルについては既に言っておいたので、滞りはない。
「重ねて質問だが、親御さんには連絡してあるな?」
「ばっちり! お母さんもさとみーなら安心だって」
「俺も大丈夫です。間違っても未成年略取にはなりませんよ」
「はは、なら助かる。学校の外に出るとなると、急に教師と生徒の関係が足枷になるからな」
カーライトと街の明かりで満たされた道は、車に乗って眺めると普段と違う表情をしているように映る。若干の混雑の中、法定速度を守った安全運転は続き、そこに置いてけぼりにされた「りゃくしゅ?」と首を傾げる鞘戸。意味を教えようかとも思ったが、途中で取りやめた。必要以上に深刻な思い込みをしそうで怖かったからだ。
「そういえば鞘戸、中間はずいぶん頑張ったそうじゃないか。失礼な話だが、点数を見て驚いた」
「えへへ……。今回は特別はりきっちゃいました」
その話を聞いて、俺も驚いた。里見先生だって受け持っているクラスはあるのに、去年担任した生徒まで目を通しているのか。鞘戸がとりわけ危ういからというのもあるだろうが、彼の性格を考えたらきちんと全員分追っていそうだ。もちろん、俺や相良のことだって。ほんと、頭が下がるばかり。
「さてはご両親と賭けでもしたな? 点数や順位のノルマを上回ったらご褒美が出るとか条件をつけて」
「してないしてない! 全然してない!」
「そうそう。親じゃなくて俺と競ってたんだもんな」
「けーくん?!」
裏返り気味な鞘戸の叫びに、里見先生が笑って応じる。乗員三名だというのが嘘に思えるほど車内は騒がしく、こういうのも悪くないなあとドアに肘をつっかける形で頬杖をついた。
「それで、軍配はどちらに?」
「てんなの方に。学年末比でどれだけ伸びるかって条件だったんで」
「報酬は?」
「なんでしたっけ鞘戸天那さん?」
「…………な、なんだっけー???」
棒読みこの上ない。そういえば、この話が持ち上がったっきりなにも進展はなかった。途中に字城絡みで一悶着あったことと、日程の調整を鞘戸に丸投げしていたことも関係して、気づけば六月に突入してしまっている。
思い立ったが吉日。さすがに車の中でとはいかないが、今日中に話くらいは進めておきたい。
「まあ、言いたくないことなら聞かずにおこう。ただ、学生としての領分は弁えておくように」
「はーい」
なおも、車は進む。時折赤信号による停止を挟みつつも、向かうのはお食事スポットが密集しているエリア。金曜の夜ともなればまあまあの混雑が予想されるが、果たして待ち時間なく入店できるだろうか。
心配になってスマホで現在時刻を確認する俺に、先生が問うてきた。
「そういえば森谷、あれはどうしたんだ」
「あれとは?」
「退学願い」
ごとっ。横から硬質な音が聴こえたかと思えば、鞘戸がスマホを落っことしている。首をがくがくさせながら「え? え? え?」と落ち着かない様子だし、明らかに良くない勘違いをしているらしい。
「ちょっとちょっと先生、いきなり言うからてんなの情緒がめちゃくちゃになっちゃいましたよ」
「けーくん、それなんの話? 学校やめちゃうの? もしかして転校とか……?」
「転校するのに退学願いは出さないよ。っていうか退学なんてしない。わけあって書くだけ書いたんだけど、用なしになって捨てた」
「……あるかな、そんな用事」
あったんだ、そんな用事が。聞き分けの悪いやつに大きいショックを与えてやるため、どうしても必要だった。
鞘戸は眉根を寄せ、いかにも不服そうに俺の目を見つめてくる。そういう大事な話を黙っていたのが気に食わないらしい。彼女は続き、細長い指を第二関節から曲げて俺にもっと近づくよう要求。……なんだ、殴られんのか俺?
「(……ねえけーくん)」
ともすれば車両から発せられる雑音でかき消されかねない囁き声。そのまま鞘戸はぽしょぽしょと、
「(この前、元気なかったのと関係ある?)」
一拍置いて頷いた。この前というのはきっと、字城が音信不通になってから事実を知るまでに動きを止めていた二日間のこと。あの期間の記憶は曖昧で、よっぽどぼんやりしながら学校に通っていたのだと思う。鞘戸は他人の機微にかなり敏感だから、俺の異常にもいち早く気が付いていたのだろう。
「(そっか……。ごめんね、そういう大事なとき役に立てなくて)」
「(悪いのは黙って隠し通す気でいた俺の方。あと、勝手にバラした先生)」
俯きつつあった鞘戸の額に軽めのチョップを食らわせて、「次からは相談する」と一言。相良もそうだが、これから豪華な夕飯だというのに気分を暗くしたくない。お通夜チックな食事の席は勘弁被る。
「先生ー。プライバシープライバシー」
「すまんすまん。その話だけすっかりし忘れていたものだから」
責任を里見先生に押し付け、息を吐く。――すると、
「(……字城さん?)」
いつの間にか俺の耳付近にまで顔を寄せていた鞘戸が、湿り気を多めに含有したやけに艶っぽい声で尋ねてきた。あれだけ気にしていた汗臭さは微塵もなく、どことなく甘い匂いが香る。……お母さんはそういう妙にフェティッシュな行為を許した覚えはありませんよと保護者目線で平静を装いつつ、若干乱れつつある心音には触れない方向性で返答。
「(さあ、どうだろ)」
こんなの、ほとんど自白のようなものだ。それきり黙りこんでしまった彼女にかける気の利いた言葉の一つも浮かばず、考えているうちに目的の焼肉屋に到着してしまった。
参ったな。怖い保護者様から鞘戸を蔑ろにするなと釘を刺されて、まだ一時間と経っていないのに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます