第40話 相良夕
入学してから初めての定期テストで、いきなりとんでもない点数を取った。……とんでもないっていうのは悪い方の意味で、特に平均点を大きく下回ってしまった数学の先生から、放課後に居残りを課せられた。もちろん、それに取りかかっている間は部活に出られない。自業自得なのはわかっているけど、高校の勉強がこんなに難しいなんて思っていなかった。中学の頃は、テスト前にちょっと頑張れば結構いい順位に入れたのに。
「んぅーー……」
先生も鬼じゃない。渡された課題はできる人なら一時間と経たずに終わらせられる分量だったし、むしろこれさえやれば進級させてもらえるのだから優しくすらある。……けれど、入学からずっと気を抜いていたせいで、基礎的な問題ですら解けない部分がちらほら。こんなときにいつも手を差し伸べてくれる友達は部活に駆り出されていて、私は教室で孤軍奮闘を強いられた。
「だめだぁ……」
教科書やノートをいくら見返しても全然ペンが進まない。わからない。焦る。このままじゃ、部活どころではないかも。……でも、何年か前にお姉ちゃんが着ていたユニフォームに憧れて受験を頑張ったのに、こんなに早く諦められない。そう思ったところでわからないものはわからなくて、机の上に体を投げ出す。
そんなとき、教室前方のドアが開いた。目だけでそちらを見ると、ほとんど話したことのない同級生男子が折りたたんだ学ランを脇に抱えて「さー帰ろ帰ろ」と呟いていた。
「……あ、ごめん。誰かいると思わなくて」
その男子は私がまだ教室にいたことに気が付くと、バツが悪そうに自分の首を撫でた。えっと、確か名前は――
「――森谷くんは部活終わり?」
「いや、俺は帰宅部。人手が足りないらしくて、今日はちょっと生徒会の手伝いに駆り出されてた」
「おー。お疲れさまー」
ぱちぱちと拍手。生徒会の手伝いって、響きがなんとなくかっこいい。もしかすると、次の選挙で役員に立候補するつもりなのかも。
「鞘戸さんはなにしてたの?」
次はこっちが質問される番みたい。私はほっぺたを搔きながら渋々と、
「……前のテスト、酷くって。その分の課題」
「ふーん」
森谷くんはそう言って学ランを自分の机にかけると、ずんずん私の方へ歩いてきた。……帰るんじゃなかったのかな。
「鞘戸さんってバスケ部かなんかじゃなかった?」
「え、あ、うん。そうだよ」
「じゃあ今の状況は結構やばいわけだ」
「…………うぅ」
恥ずかしながらその通り。インターハイに向けて練習がヒートアップする中、私だけが成績不振で参加できませんでは話にならない。こんな形でレギュラー争いから転落するのが情けなくて、目の奥から涙が滲んでくるのがわかる。
「どんなもんか見せて」
「……え?」
「手、止まってるみたいだったから」
身を乗り出してプリントをのぞきこむ森谷くん。「ほうほう」彼は何度か頷いた後で、
「これならある程度は教えられるけど、俺の力要る?」
「でも、お仕事終わって帰るつもりだったんじゃ」
「ここで頑張れ~って言い残して帰ったら鞘戸さんからの印象最悪だし俺の後味も悪いでしょ。話した時点でこうする以外の選択肢なし。……まあ、恩の押し売りとでも思って」
彼は近くの椅子を引っ張ってきてそこに腰かけ、私の返答を待たずに「ここは~」と解説し始めた。友達でもないのに申し訳ない……と思えていたのは最初だけで、いつの間にか私はその明朗な説明に従うまま、課題プリントをしっかり完成させてしまっていた。
「はいおしまい。さっさと提出しちゃって部活に戻りな」
「……あ、ありがとう! 今度絶対お礼するから!」
「要らん要らん。俺が勉強に向ける熱が鞘戸さんの場合は部活だったってだけ。適材適所だよ。……使いどころ微妙に違う気がしないでもないけど」
じゃあね。学ランを羽織った森谷くんはそう言って、颯爽と教室を後にした。
彼が中間テストにおいてぶっちぎりの一位を取ったと知ったのは、それから少し経ってのことだった。
********************
「ふぁい、おー、ふぁい、おー」
ずいぶん日が長くなってきた。午後六時過ぎ、まだ薄明るい空を見て思う。
約束の金曜日になった。鞘戸と相良が部活を終えるまで、あと三十分ほど。先生は既に自家用車に待機中で、彼女らを即座にピックアップする役を買って出た俺は、高校の外周をぐるぐる走り回っている女子バスケットボール部員のかけ声に耳を澄ませていた。
「ファイトが間延びしてるのか、ファイト、おー、が崩れてるのか……」
「独り言きも~い」
「うぉあっ!」
驚いたのは急に声をかけられたから……だけじゃない。声と同時に首筋へ冷たいなにかが押し当てられていて、その得体の知れなさに飛びあがった。
「良い反応するじゃん」
「もしもしそこの。あなたのチームメイト、今現在絶賛練習中だと思うんですけど」
だねえ~。言って、かしゃっという爽快な音とともに缶の炭酸飲料を開けた相良が、ごくごくとそれを飲む。たぶん、今しがた首に当たったものと同じだろう。
現在地は校舎から出てすぐの駐車場。そして今もなお、女子バスケ部はロードワークに励んでいる。……なんだろう、レギュラーは自由参加だったりするのか。
「あ、特別な理由をお探しならご心配なく。ただのサボりだから」
「そんな気はしたよ。てんなの声、ばりばり聞こえてるし」
「大会前の大事な時期に~って思ってる?」
「思っていたとしたら?」
「そっか~って言って終わり」
早々に飲み切ったジュースの空き缶をくしゃりと潰し、「いる?」と問うてくる相良。無論、「いらない」
「今日は字城さんと一緒じゃないんだ」
「ああ。字城ならすぐ帰ったよ。付いて行かない自分がいつまでもいると混乱するからって」
「意外と気遣いの人だよね、字城さん。てっきり我がままプリンセスだとばっかり」
「イメージが先行するのはよくないな」
二人して、かけ声の響く方を目で追う。敷地の外周は塀で覆われているため姿こそ見えないが、約一名めちゃくちゃ通る声の持ち主がいるため女バス一行の位置は簡単に追跡できる。
「さっすが私の鞘戸、声まで世界で一番かわいい」
「そう思うなら、特等席で聞いてくればいいのに」
「や~だよ。今日はもう十分練習したんだから、これ以上はオーバーワーク。体力づくりの期間なんかとっくに終わってるんだし、このランニングはただの気休め」
「言い訳づくりの、ってこと?」
「お、察しいいね森谷。そうそれ。これから大事な大会が始まるわけだけど、バスケって競技の性質上どんなに上手くても一定数はミスしちゃう。そこで立ち直るために、『私はこんなに頑張ってきたんだぞ~』って思える証拠が欲しいんだよね」
「……どっちかっていうと、負けたときに自分納得させるための方便な気もするけど」
「それは言わないお約束」
妥協なく必死に練習してきた過去があれば、負けても諦めがつく。……こんなこと、字城が勉強し始めたときにも考えたっけ。やらなかったことによる後悔の肥大化は、あらゆる分野で共通だ。
では、そのことにきちんと気が付いている相良が堂々と練習から抜け出しているのは、
「私はメンタルめちゃつよだから、あんまりそういうの要らないわけ」
「達観してんなあ」
「でも、練習適当にやってたくせに負けて大泣きしてるやつよりはよくない? あ、※この物語、登場人物はフィクションです」
「性格わっっっっる。明らかな後付けやめな?」
「普段ぜんっぜん勉強しないで赤点だったやつが森谷に言いました。『良いよなお前は。天才だからいい点取れて』はい。これ聞いた森谷の感情は?」
「死にさらせゴミ未満のゲボカス」
「ほら~」
うーん、最低のノリ。だが、嫌いなものでの一体感や盛り上がりは他のなにものにも代えがたい。これは俺も相良も口にしないし、今後わざわざ示し合わせる機会も来やしないのだろうが、お互いになんとなく勘付いている。俺たちはたぶん、同族に分類される人間だって。
「まあそんな感じで、これはポジティブなサボりなわけよ。自分に不要だと思うことはやらない。私にはこっちのが合ってる」
「……なんか珍しくない? 相良がそうやって自分の哲学語るの」
「ミステリアスだからな~私。秘密が女を美しくするとも言うし。……つまり、今のでちょっとブスになったってこと?」
「あー確かに……」
「乗っかんな」
「うぐぇ」
肘鉄をもろに食らってよろける。乗っけようとしてきたのはそっちじゃん……。
「てかさ」
相良の声のトーンが落ちる。……これもなんとなくは察していたけれど、無駄話がしたくて俺に近寄ってきたわけではないらしい。
「森谷、字城さんとえっちなことした?」
「……そんな下世話なこと言いにきたのかよ」
「い~や本気。結構マジ話よこれ。いつの間にか呼び捨てしてるし、雰囲気も柔らかくなってるし、少なくともなにかはあったでしょ」
「なにか、ねえ」
言いたいことはわかる。俺と字城は確かに仲良くなったし、その距離の詰め方が夏休み前後のカップルに付きまとうアレと似ているのも否定しない。……しかしながらただ一点、相良は致命的な見落としをしている。
「相良さ」
「うん」
「ある日突然、てんなが冗談抜きでそういうこと迫ってきたらどうする?」
「…………」
「以上、それと同じ。この話は終了。……あ、一応言っとくとマジでなにもない。ちょっとした口論があっただけ」
俺と同族の相良なら、言葉足らずでもきっと伝わる。心がざわつく感覚とか、ある種の気持ち悪さまでも鮮明に。……ったく、楽しい夕飯を前にして、一体なんの話をしてんだ俺たちは。
「……鞘戸のこと、あんまり蔑ろにしたら怒るよ」
「字城の一件は緊急性が高かっただけ。友人間の扱いに差をつけたりしないっての」
「あんな真っすぐで心の澄んでる子、今どきどこ探したって見つからないんだから」
「それは知ってる」
鞘戸は、昨日培養器から出てきたと言われても信じられるくらいピュアだ。未だに会話していて驚くこともあるくらいに、なにもかもが澄み切っている。そこには字城から感じるのともまた別の眩しさがあって、日々汚してしまわないよう必死だ。……まあ、彼女の輝きを命がけで保全してきたのは、今目の前にいる相良夕その人なのだが。
「頼んだからね。特にこの時期、変に動揺なんかさせようものならがっつり部活にも影響するんだから」
「気をつけるよ」
「……じゃ、そういうわけで、私は今日の焼肉ドタキャン。鞘戸と先生に上手く言っといて~」
「はぁ?!」
「あーお腹いたた……。女子特有の理由でお腹いたた……」
「深く突っ込めない理由をつけるな」
俺の非難もなんのその、相良はお腹を痛がる素振りを続けながら遠ざかり、そしてある程度の距離が開いてからぴんぴんした達者な足取りを取り戻した。あー、相変わらず食えねえ女。
しかし、どうしたものか。納得いく理由なんて、そう簡単に捻りだせるわけもないのに。
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