第39話 あざしろあざらし

 地下からがたがたエスカレータに揺られ、上階へ。世間的なマナーに従って大きめのレジ袋は俺が預かったが、他に用事があるのなら生鮮食品の買い出しは後回しがよかったのではないか。

 その疑問は解消されないままに、「たぶんここ」と字城がエスカレータの順路から外れた。本屋やら瀬戸物屋やらがひしめいているフロアで、これも野菜のとき同様、目的の特定が困難だ。


(やば……)


 声にも顔にも出さないよう気をつけたが、進路ががっつり女性用ランジェリーショップに面していた。普段ならためらいなく道順を変更するところだが、連れがいるとそうもいかない。女性の字城に理解を求めるのは酷かもしれないけれど、こういう店舗をどうやり過ごすかで男は日夜ひやひやしている。

 どうか何事もありませんように。そう天に祈りを捧げ出した俺に対し、彼女は、


「そういえば初めて会ったとき、下着のぞかれたよね」

「……その件については誠に申し訳なく思っております」


 よりにもよって今その話題を出すのか。いや、一面のディスプレイを見て記憶が喚起されたんだろうけど。


「追い払おうと思ってそのままいたら、全然出て行かなくてびっくりした」

「やることがあったもので……」

「……どういうのだったか覚えてる?」

「無論忘れました。その部分の記憶だけ完全に黒塗り処分」


 当然のように欺瞞だ。十代の少年に、あれはちょっと刺激的すぎた。薄い黄緑色の下着も無駄な贅肉が一切ない美しい裸体も未だばっちり思い出せるわけだが、本人を前にして堂々と言える度胸なんてない。


「今日のセット、あの日と同じ」

「…………」

「覚えてるじゃん、やっぱり」


 瞑目して無心を装ったのだが、あっさり看破された。……そりゃ無理だろ、忘れろって言われても。


「ちなみに同じっていうのはうそ」

「……俺で遊んでない?」

「そういう気分」


 数歩だけ先行する字城についていく。ようやくのこと下着売り場から抜け出せたわけだが、この話題がはいご破算となるかといえばそうでもないようだ。


「下着も洋服も通販で揃えてるとさ、ミスしてサイズ違い買っちゃうんだ、ときどき」

「へえ」

「生返事」

「共感できないんだから許してくれ……」

「……ん。許す。で、料理用品は自分の目で見て選ぼうかなって」


 彼女が足を止めたのは雑貨屋の前。料理用品と言っても、まな板や包丁、鍋やフライパンなんかの一式は既に用意されていたはず。毎週ハウスキーパーさんが食事の世話をしてくれているという話だったから、それは当然か。なら、字城が欲しがっているのはもっと細々とした――


「なにこれ」


 入店早々、首を傾げながらギザギザした金属製のグッズをかっしゃんかっしゃん鳴らす字城。……その絵面がどうにもおかしくて、ふっと息が漏れる。


「パスタ用のトングだと思う。菜箸で代用可」

「ずらっと並んでると怖いね。武器っぽい」

「拷問器具に見えなくもない」


 お役立ち雑貨を前にした反応としてはおそらく0点。だが、採点して回るような第三者が近くにいないのでセーフということにした。知識量で字城に勝っているはずの俺にもぱっと見では理解できない便利グッズがちらほらあって、その都度説明に目を通すため立ち止まる。「なに、この……、なに?」「葉物野菜を長持ちさせるんだと。芯にこの棒突き刺して」「こっちは?」「フルーツ専用の十徳ナイフってニュアンスらしい。りんごの切り分けとかオレンジの皮剥きとかがこれ一つで済む」こういう場所、たまに来ると楽しいんだよな。知らない発見があたり一面に転がっていて。字城も興味津々のようで、あれこれ手にとっては機能を確かめている。


「……どれ買えばいいんだろ」

「こういうの、買った時点で満足しがちでいざ使うとなるとしっくりこなかったりするから、ある程度吟味するのがオススメ。そうでもしないとあっという間に家が物で溢れる」


 あの広い家を埋め尽くすのは容易ではないだろうが、趣味にハマり始めた時期の購買意欲は軽く見られない。まして、それを無理なく可能にする経済力があるのならなおさら。

 字城はうーんと唸ってから手に持っていたものを棚に戻した。お気に召さなかったわけではないのだろうが、決定的フックがあったわけでもない。そんな感じだ。

 彼女はさらに店舗の奥へと進んで、とあるコーナーにて立ち止まる。見たところ、食器の類が並んでいるようだった。


「あ、いいかも」

「……大滑り覚悟で聞くんだけど」

「……?」

「名前とかけてる?」


 彼女が好感触を示した商品を指さす。いわゆるマグカップで、側面にはデフォルメされたかわいらしい動物のイラストがプリントされている。

 そして、その動物というのが、

 

「アザラシとあざしろでちょっと語感似てるな、みたいな」

「絵柄が気に入っただけ」

「…………」

「…………」

「…………なんかごめん」


 覚悟していた駄々滑りも、味わってみればなかなか乙なもの……なんてことはなかった。ユーモアの欠片すら存在しない寒い発言だったなあともう戻らない数秒間に思いを馳せ、ぷくぷくに膨れたアザラシが鼻ちょうちんを浮かべて眠っているイラストに目を落とす。なるほど、確かにかわいい。いくらか少女趣味に見えなくもないが、字城が絵を褒めるのだからそこに光るものがあるのだろう。

 あれこれ思案し、滑りで受けたダメージを癒す。そんな俺に対し、字城は言った。


「……私の苗字、アザラシみたいって思ってたの」

「不肖ながら」

「ふーん……」


 それはなんの「ふーん……」だ。思わずそう問いかけそうになったが、これでもし俺の親父ギャグみたいな感性をディスられたら悲嘆の谷底へと真っ逆さま。むやみに藪をつついてもしかたないから、向こうの出方を窺うことに。


「買う。これ」


 え、いや、良いのか……? たぶん、見るたびに俺の失態を思い出すことになるけど。というか、思い出される俺の方がたまったものじゃないんだけど。

 そんなことは言い出せないまま、料金と交換で店舗オリジナルの紙袋にくるまれたマグカップが字城の手に渡った。よくよく振り返ってみても、彼女の家に置いてあるいかにも高級そうな食事用品の中にそれが加わったらだいぶ浮かないだろうか。字城の性格的に、そういう調和はかなり気にかけそうなものだが。


「はい」


 差し出され、受け取る。ファンシーな柄の紙袋は俺の出で立ちと相性が悪そうに思えたが、渡された以上は手を伸ばすしかない。

 片手に食材の入ったレジ袋、もう片手には今もらった紙袋をぷらぷら揺らしてもてあそんでいると、


「あげる」

「……へ?」

「それ、あげる。使うたび、私に言ったこと色々思い出しながら苦しんで」

「殺生な」

「一応、これまでお咎めなしだった下着のぞき見の罰も兼ねてる」

「ありがたく使わせていただきます……」


 そう言われてしまっては口ごたえなど到底不可能。喜んで頂戴することにしつつ、わずかに引っかかりを覚えた部分について問う。


「……で、色々って?」

「さっきのつまんないダジャレとか、あとは――」


 発言途中で字城が制止。その間じーっと俺の顔を見つめ、最後にくすっと笑って続けた。


「――やっぱり教えない。自分で考えて。頭いいんだから」

「おお……」


 とはいうものの、字城に言ったことなんか現時点でいくらでもある。……特に、退学を取り消させるために家まで乗り込んだあの日に関しては両者あまりにヒートアップしすぎたのもあって、未だに二人の間でそれに関する話題がほとんど出ないくらいだし。そういや普通に抱きしめたりしちゃってんだよな……。素面の今振り返るとなにやってんだ自分と疑問符をつけたくなる行動が多すぎ。


「帰ろっか。野菜、だめになったら悲しいし」

「……結局字城が使うもの買ってなくない?」

「いい。なんか満足」


 見て取れるくらい、彼女の足取りが軽い。本当に満足していらっしゃるようで、そんなに俺をいじめる方法が見つかってうれしかったのかと一人訝しんだ。


「色々見て回るつもりなら、食材は後回しでよかったな」

「ううん、問題なし」

「なぜに」

「そうしないと、いつまでも長居しちゃうでしょ」


 ね? と同意を求められたのでなんとなく頷いておいた。……その後、別れるまで理由を考えたみたものの、ついぞ理解は及ばなかった。

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