第34話 翌日、宣戦布告
「くんくん……。けーくん、もしかしてシャンプー変えた?」
「うぇ、どうしたいきなり」
昼休みのことだった。廊下に出て窓から流れ込んだ新鮮な空気を吸い込んでいると、急接近してきた鞘戸が突然そう言い放ったのだ。
「俺とお前の立場が逆だったら完全にセクハラだからね?」
「なんかいつもと違う匂いだなーと思って」
「犬かよ」
「わんわん。それで、変えたの?」
「変えたっていうか――」
どう言ったものだか。「――あ、森谷」別に変えたわけではないから、説明が難しい。「おーい」だけど相手は鞘戸だし、「聞いてる?」適当にホラ吹いてだまくらかせば……。
「……無視?」
「ちょい待ち字城。今ちょっと立て込んでる」
「えっ、えっ……?!」
割り込んできたのは、昨日なんやかんやあって本日から無事に高校生活を再始動させた字城とわ。一度に二人は捌けないので彼女をいったん待機させたのだが、最初に話しかけてきた鞘戸の方がシャンプーどうこうではなくなってしまっていた。
「……ず、ずいぶん仲良くなったんだねー」
「それなりにね。あ、こちらは俺の同級生。名前は――」
「さやとでしょ。前、ちょっと話したから知ってる」
「そうだっけ?」
「……う、うん。ほら、けーくん呼ぶときに」
「あったなそんなことも」
クラスが騒然としたやつだ。……ちなみに、今も周りはざわついている。字城が誰かに声をかけるというのは、そういうこと。これからその手の偏見を取っ払っていかなきゃならないのは手間だが、取りあえずは俺が飄々とした態度を取るところから始めよう。
「授業の質問とか?」
「勉強はしばらくいい。……暇だし、お昼一緒に食べる相手探してるんだけど」
「じゃあ付き合おうか。俺も暇だし」
「……っ、ま、待って!」
ぱっぱと話をまとめて鞘戸の相手に戻ろうとしたところを、鞘戸本人に妨害された。彼女はおたおたと体の前で両手を振りながら、
「私もご一緒しちゃだめ……? けーくんのお友達なら、私だって仲良くしたいし。ほら、夕ちゃんも一緒にさ」
「だってさ」
「うん。私も、一回話してみたいと思ってたから」
「なら続きは別の場所でだな。美術室って今開いてる?」
「開いてる」
「ならみんなで先に行ってて。俺は購買でパンかなにか仕入れてくるから」
財布は既にポケットの中にあったので、足早に購買部が設置されている一階を目指した。昼休みが始まって少し時間は経っているし、混雑のピークは終わったはずだ。
字城に楽しい毎日をご約束してしまった手前、協力者が俺一人では心もとない。そこで頼るとなったら、やっぱり鞘戸天那と相良夕に限る。まずは女子から、字城のことを知ってくれる人間を増やしていこう。……それにしたって、いきなり二人っきりで置いてくるのはまずかったかな。友達の友達って、世界で一番距離感が面倒くさい相手だし。
だけど、鞘戸のコミュ力ならたぶん大丈夫なはず。字城だって、俺の友達だとわかっている相手に初めから食ってかかることはないだろう。きっとなんとかなるはずさの心持ちで、一段飛ばしで階段を駆け下りる。
「……あ、やべ」
シャンプーの話、忘れてた。
********************
「さやとって、どういう字書くの?」
「剣を入れる鞘に、ドアとか扉の戸で鞘戸。……字城さんに名前知ってもらえてると思わなかったな」
「覚えるよ、大事なことは。……ね、『さや』ってどう書くかわかんないから、下の名前も一緒にここ書いて」
「あ、じゃあ失礼します……」
森谷にしたのと同じように、さやとにも名前の漢字を教えてもらうことにした。だけど筆記用具は持ち歩いていないし、黒板も近くにないから、書いてもらうのは私の手のひら。
「くすぐった」
「わー、ごめんなさい! 優しく書くから!」
「いいよ、私が言ったんだし。それに、優しくすると余計こしょばい……」
字の方は触覚任せにして、私は至近距離からまじまじとさやとの姿かたちを見ることにした。身長が高い。たぶん、森谷よりちょっと下くらい。ふくらはぎがかなり筋肉質だから、スポーツをやっているんだと思う。制服で抑えつけられているはずなのに胸の部分はぐぐっと盛り上がっていて、同性ながら視線が吸い寄せられてしまう。その割に顔立ちは幼げで、身長と胸のことさえなければ中学生と言っても通用しそうだ。
色々とアンバランスな要素が、うまい具合に混ざりあって奇跡的に成立している。ちょっとそそっかしげな性格がアクセントになっていて、嫌味もない。これだけ発育のいい子だったら男子も放っておかないのだろうが、それはあくまで、当人が特定の誰かに夢中になっていない場合の話で――
「さやとは、森谷と付き合って長いの?」
「つっ……付き合ってなんてないない! ただのいいお友達です!」
「あ、友達付き合いって意味なんだけど」
「…………」
ここまでわかりやすいと私でも心配になってくる。顔を真っ赤にして俯いたさやとは、所在なさげに私の指をぐにぐに揉んでいた。マッサージみたいで、意外と気持ちいい。
「……今の、けーくんには内緒で」
「わかってる。言わない」
話して数分の私にも明け透けなんだから、森谷は絶対気づいてると思うけど。だが、そんなことを言っても仕方ないので、今度は私がさやとの手を借り、「こう?」と今教わったばかりの漢字を書いた。画数が多いし形に癖もあるから、文字自体に美しさは感じない。でも、さやとって響きは柔らかいから結構好きかも。
「いいね、さやとてんな。かわいい名前」
「わ、うれしいなー。私も、自分の名前すごく気に入ってて――って、あれ?」
くんくん、くんくん。さやとがしきりに周りの匂いを確認しだした。――主に、指文字を書くため接近した私の髪の毛のあたりを。
「えっ、でも、そんな……んんん?」
「どうかしたの?」
「……な、なんで字城さんから、けーくんと同じシャンプーの匂いが……?」
戸惑うさやとに相対し、私は前髪を指でくるくる巻いて、
「森谷の寝顔、意外とかわいいんだよ。知ってた?」
「え、あ、えぇ……?」
「あげないよ。森谷はぜーんぶ、私がもらうから」
「それって、つまり……。あっ、待ってーーー!」
先に行く算段なのに森谷より遅れてはまずいから、ぐるぐる目を回しているさやとを尻目に美術室の方へ向かった。
しちゃった、宣戦布告。
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