第33話 雨上がり

「似たような封筒と便箋ありますよね。ここ職員室ですし」

「どう使う?」

「……こう、です」


 退学を考えたことなどなかったから、当然ふさわしい書式など知らない。だからそこは字城のものを丸パクリして、名前だけ書き替えた。もしものとき用にはんこを持ち歩いていたのは、勿怪の幸いだったと言える。


「どうしようもなくなってから取り出す保険なので、たぶん出番はないと思いますが」

「そこまでするか」

「するんですよこれが。……こうでもしないと収まらないので」


 里見教諭は、半ばヒステリーじみた俺の行動を見て、ただ愉快そうに笑うだけだった。彼は、俺の本質がどういうものであるかを理解してくれている気がする。


「正直、彼女に勉強を教える気なんて微塵もありませんでした。それが不要だと思っていたから」

「そうだな。お前はそういうやつだ」

「……まあ、俺の考えること察してそうな先生が頼んできた時点で、色々と予定調和だったのかもしれませんけど」

「ないない。俺はただ、字城に他人とぶつかることを知ってもらいたかっただけだよ」

「それもどうかと思いません?」

「もちろん、オフレコな」


 先生は鼻の前に人差し指を一本立てて言った。


「これからどうする?」

「お望み通りぶつかってみます。それで、もし最後の手段を使わざるを得なくなったら――」

「なったら?」

「――良い就職先、斡旋してくださいね」


 二人して、はははと笑った。どう考えても笑い話ではないのにもかかわらず。


********************


 もしもの保険をあっさり使ってしまった。こうなることを予見してはいなかったが、簡単に片付くわけがないのも織り込み済み。むしろ、手を出し尽くしたことで心に余裕が生まれつつある。


「ちょっ……」


 今日一番の動揺だ。字城は二通の退学願いを交互に眺め、信じられないという顔をしている。まあ、体の張り具合的に、それくらい驚いてもらわないと困るが。

 

「字城がやめるなら、俺も一緒にやめる。理由は監督不行き届きとかでいいだろ」

「どうせ、そうやって脅してるだけで……」

「いや本気。なんならこの場で法的拘束力のありそうな念書でもしたためようか?」


 書類を提出するためにまた別の書類を作成するとなると手間だが、これがただのこけおどしでないことは周知徹底せねばならない。


「第一、脅すだけならここから飛び降りるとかなんとか言った方が即効性もあってわかりやすい。……でも、駆け引きの材料に命を使うと途端に話がチープになる。だから、賭けるのは俺の退学くらいがちょうどいいって判断した」


 死ぬぞ死ぬぞと言って本当に死ぬやつなんかほとんどいない。みんなそれを知っているから、脅し文句に死をちらつかせると場が白ける。……こういうときはあくまで、想像可能な範囲でもっとも重要そうなものを捧げるに限るのだ。


「改めて確認する。……字城の決断は、俺を道連れにしてまで成し遂げたいほど強固なものか?」

「…………っ」


 多少の思い上がりや自惚れをまじえないと、この脅しは無意味だ。……しかし、字城は俺の失敗を自身の痛みに変換するまでに、俺と接近した。俺が彼女にとって価値ある人間だとするなら、効果が期待できる。


「わかんないよ、森谷……」

「断言できないならさっさと取り下げて――」

「森谷がどうしてそんなに私にこだわるのか、わかんない」


 それもそうだ。あまりにもっともらしい疑問だと思う。ほんの一ヵ月前まで他人どうしだったのに、なぜここまで固執することになる。

 正直なところ、俺はその問いに対して明確な回答を用意できそうになかった。いくつもの要因が複雑に絡み合っていて、とても言葉でなんか説明できない。あまりにも感覚頼りの舵取りに、俺自身すら驚いている。


「……嫌いなものが二つある」


 こんなところまで来て自分語りをすることになるとは思わなかった。だが、これも説得の1シークエンスと思えば、黙っておけない。


「知らないくせに知っているふりをする人間と、知っているくせに知らないふりをする人間。この二つがどうにも受け入れられないまま、今まで生きてきた」

「それ、関係あるの」

「ある。間違いなく。……あのままじゃ、字城がいなくなった理由を勝手にこじつけて、間違った理解で自分を納得させなきゃいけなくなってた。そんなに気持ち悪いことが他にあるかよ」


 一度は間違いなく近づいた相手が、急に音沙汰なしになる。それを推測だけで済ませ、これまでの日常に戻る。――まったく、クソくらえだ。自分から嫌いな人種になりにいく馬鹿がいったいどこにいるという。


「自分をなだめすかすために、せめて知ろうと試みたって足跡が要る。要するにただの自己満足で、だけど、俺はこうしないと明日から前を向いて歩けない」

「じゃあ、もういいでしょ。聞いたじゃん、理由」

「ああ、聞いた。まるで納得いかない言い訳を」


 思い出を綺麗なまま取っておくとかなんとか言っていたが、その考えは肯定しかねる。曲のサビだけ聴いて満足するような、あるいは映画のエンドロールを観ずに席を立つような、幼稚な感性だ。イントロからアウトロまで聴いて初めて曲は曲になるし、何百何千という名前が刻まれたスタッフロールまで観て初めて映画は映画として完成する。思い出もまた同様だと俺は思う。

 ずっとピークなんてことはあり得ない。盛り上がりを演出するための沈みはどこかに必ず存在するはずで、その鬱屈とした時間を乗り越えたからこそ得られるカタルシスがある。

 でも、俺と字城とでは、捉え方に致命的なまでの差異があった。


「あの程度を人生のピークだなんて思うなよ」

「……は?」

「どう考えても助走期間だろうが。俺たち、ただ部屋にこもって勉強してただけなんだぞ。楽しいことも、面白いことも、まだまだこれからいくらだって待ってるのに」


 夏祭りも、海も、修学旅行も、体育祭も、スキーも、初詣も、他にもたくさん思いつく。学内学外を問わずに胸躍るイベントは目白押しで、それは少なくとも、ただテキストに向き合うだけの毎日よりよっぽど充実しているはずだ。


「勝手に上限設定されるのが納得いかない。俺は、今よりもっと楽しい時間を字城に提供できる自信がある。……と、話が逸れたが」


 これはどうして字城にこだわるかの理由とは直接関係ない。単に、今聞いて腹が立ったから反論したかっただけ。その心底的外れな思い込みを正したかっただけ。

 

「……コンプレックスがあるんだよ」

 

 かっこ悪くて情けない、本来なら隠し通すべき意思表明。見せずにいられたらそれが最善だったものの、手札を蓄えておけるような状況でないのは自明。退学願いというウルトラCで彼女を強引に議論の席に座らせた今、なにを出し惜しもうか。


「え、でも……」

「聞いてる。先生は俺が特定のコンプレックスを持たない人間だって説明したらしいけど、それ完全に嘘。……俺は、特別な才能ってのとそれを持ってる人間に、人一倍の劣等感を抱えて生きてる」

「…………じゃあ」

「もちろん、字城にもだ。ウチの学校で一番俺のコンプ刺激するのは字城だったりするんだよ」


 彼女が絵を描く姿を眺め、ただただ圧倒された。すさまじいなと感じ入って――それと同時に、キツいなとも思った。


「同じ人間でもここまで差が出るのかと思うと、やるせなくて。自分にできることは限界まで突き詰めてる自信がある俺だからこそ、努力程度じゃどうしようもない壁が見えてしまうときがある。……字城はいつだってその壁の向こう側に立ってるように見えたし、それは今も変わらない」


 字城とわは、天才なのだ。ひとりぼっちを怖がろうが、見た目よりずっと寂しがりだろうが、その事実は絶対であって揺らがない。あまりに眩い才能に、いつかこっちの目が潰れるんじゃないかとさえ思った。それくらい、俺と彼女は造りが違う。俺がどれだけ足掻こうが、彼女のようにはなれない。逆に、彼女がそうしようと思えば、俺程度の頭脳や学力ならきっと手に入れてしまえる。いわば、彼女は俺の上位互換。そんな人間の近くにいると、自身の存在価値を問いかけたくもなってくる。


「でもさ、認められないんだよ。俺だって薄々勘づいてはいる。どれだけ努力したって絶対に手が届かないものがあるってわかってる。……けど、それを理由に歩みを止めたら、自分が本当に無価値な人間になってしまう気がして。俺は天才って呼ばれる人種が羨ましいし、なんなら疎ましいとすら思っているけど、そう思い続けるためには自分が努力をやめるわけにはいかない。ちゃんとやって、やったうえで僻んでいたい」


 欲しいのは権利だ。エクスキューズと言い換えてもいい。限界すれすれのところまで力をこめたと胸を張れて初めて、自分の頭上にいる人間に嫉妬できると思うから。

 善悪の感情がごった煮になっているのだ。本当なら俺は、すごいやつらをストレートに恨みたいし憎みたい。生まれも育ちも違うからって託けて、一歩引いたところから文句だけ言っていたい。……でも、信条的にそれは許容できなくて。すごいすごいと褒めそやされる連中が、実際は血のにじむような努力の上に立っていることだって知っているから。

 

 己の未熟さを理由にして、誰かに憎しみをぶつけたくない。結局はそこに終始すると思う。


「……あとは、触れてしまったから。すごいやつ筆頭の字城が抱えてる悩みとか葛藤に。その時点で俺はもう、『天才』なんて陳腐な記号で字城とわを認識できなくなった。孤独とか、疎外感とか、言ってしまえばどこにでもある素朴な苦悩を、字城だって持っている。……君のベースはありふれた十代の女の子だって、知ってしまった」


 一人、暗がりに立ちすくむ。彼女の目にどんな世界が映っているのか、知らないままならよかった。……まさか、俺が忌み嫌う『普通』に仄かな憧れを抱いているなんて、知りたくなかった。


「そんなの、嫌だろ。自分よりずっとすごいやつが、明らかに解決策のある悩みのせいで満たされないなんて嫌だろ。俺が焦がれた才能の持ち主には、せめて幸せであって欲しいだろ……」


 届くわけのない終着点が、実は寂しいものでした。これもまた、受け入れがたい事実に他ならない。俺よりずっとずっとすごいんだから、溢れるほどの幸せの中で微笑んでいてくれないと道理に合わない。


「だから、必死になって手を貸した。別に見返りが欲しかったわけじゃない。ただ、誰もが享受する『普通』の中で君が笑ってくれるだけでよかった。……でも、それさえ果たされないっていうなら――」

 

 差し出された退学願いに触れるか触れまいかと迷い、ずっとさまよっていた字城の手を掴んだ。血の気がなく、冷たい。字城の決断の先に、彼女が求めた温かみはない。

 なら、ためらう必要もない。


「――俺だって、我がまま言わせてもらう。今後、高校生活のあらゆるシーンで、『ここに字城がいたら』って後悔するのはまっぴらごめんだ。何気ない日常の一場面に、君の笑顔が写り込んでいて欲しい。……そうして、俺の努力が間違ってなかったって思わせて欲しい」


 これ以上なく気持ち悪い独白を、誰より真剣にぶちまける。こういうのが響く相手だって、信じているから。こうでもしないと、一度下した決断を曲げてくれない相手だって知っているから。


「……孤独なら、俺が埋めるから。もう、足を引っ張ったなんて思わせやしないから。これまでがつまらなかったって思えるくらい、楽しい思い出を約束するから」


 ちゃんと、歩み寄る。これまでずっと引いてきた一歩を、今度こそためらいなく踏み出す。


「だから、いなくならないでくれ……」


 提案というよりは懇願だ。ここで手を離したら、彼女がどこに行ってしまうかわからない。もしかすると、二度と他人とのつながりなんて持てなくなってしまうかもしれない。孤独の海に沈むのを是とし、誰も引き上げてくれないまま一生を終えてしまうかもしれない。


 そんな寂しい結末のためにこの一ヵ月があったなんて、言わせない。


「……ねえ」


 一瞬にも永遠にも思える沈黙のあとで、声があった。字城の目は今度こそ本当に潤んでいて、でも、まだ涙はこぼれていない。……それはまるで、泣き方なんか知らないと訴えているようで、


「本当に、いいのかなぁ……。私、森谷になんにも返せないのに……」

「そこにいてくれれば全部チャラだよ。……あとは、幸せになるための努力をちゃんとしてくれ」

「……そんなの、わかんない」

「みっちり教える。実績が確かなのは身を持って知ってるだろ」

「……いいの?」

「悪いことがどこにある」

「……これからもそばにいていいの?」

「だから良い悪いじゃなくて、俺がいてくれってお願いしてんだよ」

「……なにがあっても?」

「もちろん」

「……彼女とか、できるかもじゃん」

「心が狭いやつと付き合わなきゃいいだけの話だ」

「なら…………」

「なに?」

「…………なんでもない」


 ふわりと、シャンプーが香った。気づけば、字城の顔が俺の肩口に押し当てられている。腕は背中に回っていて、呼吸音も心音も筒抜け。

 俺はどうしようか迷って、片手だけ彼女の腰にあてがった。細くて、脆くて、華奢で……、だけど、そこには確かな熱がある。


「森谷さ、いつも猫被ってたの?」

「……二面性なんて誰だって持ってるよ。それに、いつもの俺だって、嘘ついて演じてるわけじゃないから」

「それもうそだったら?」

「そんときはもうどうしようもないな。またなんか言ってると思って諦めてくれ」

「……じゃあ、さっき言ってたのもうそ?」

「字城の直感に任せる」

「……ていうか、呼び捨て」

「さん付けに戻そうか?」

「ううん、別に、いい。それが、いい」


 ぴたりと体がくっついて、くぐもった声が届く。だけどようやく、会話の内容がこれまでらしくなってきた。


「……それ、捨てといて」

「記念に保管しとけば?」

「いい。もう、要らないから」


 承りました。一応重要なものだからと慎重に扱っていた二通の封筒を、そこらへんへ放り捨てる。目的達成。これにて一件落着、大団円。


「森谷さ、本当にやめるつもりだったの?」

「だったよ。先生も笑ってた」

「……そのあとのことって考えてた?」

「なんにも。完全に行き当たりばったり」

「じゃあさ、私のプロデューサーとかプロモーターとかマネージャーとかで雇ってあげるから、一緒にやめようって言われたらどうしてた?」

「……盲点」

「普通に仕事するより、いっぱいお金あげられると思うけど。……どうする。今からやっぱり出しに行く?」

「調子出て来たな……」


 普通に魅力的な提案だから手に負えない。……けれど、俺の答えは決まっていて。それを知っているからこそ、字城はからかっているんだと思う。山肌が大雨で綺麗さっぱり流されてしまったなら、整地して、新たに植物の種を植えればいい。俺たちは今、そのすり合わせの真っただ中だ。


「まあ、そういうのは卒業してからでも遅くない。俺が路頭に迷ってたら助けてくれ」

「……うん。約束」

「ああ、約束」


 雨は上がって、壁にはようやく亀裂が入った。概ね望み通りの結末にほっと胸を撫でおろしたいところだったが、今そこには字城がもたれかかっていて触れない。


 まあ、いい。だって、直に触れるよりもずっと、温かな感覚で満ち満ちているんだから。


「……私のこと、幸せにしてね」

「まずは言葉の使い方から始めるか……」


 そんな爆弾発言をいなしつつ、しばらくの間抱き合ったまま、色々と話をした。明日も字城は学校に来る。その安心感さえあれば、後のことはどうでもよかった。

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