第32話 問う
固く握りしめたセーラー服の胸部分が、くしゃっと皺になっている。声が震えるのと同様に、手が、肩が、脚が、小刻みに揺れていた。それはまるで字城の精神がどっちつかずに揺さぶられているかのようで、直視に堪えない。
「なんで、痛くなるって初めに教えてくれなかったの……?」
泣いているのか笑っているのかすら、もはや判然としない。未だ手つかずの表情筋を初稼働させた影響からなのか、彼女の表情は酷く不格好で、整わなかった。
俺は、その表情を形容するのに、『人間的』という語彙しか持たない。妖精を思わせるような無垢な美しさを、今の彼女からは感じない。
「森谷は絶対知ってた。教えてもらえたら、こんなに近づくこともなかった」
震えているのに、言葉には力がある。一言一言に魂が刻まれているようで、その一文、一文節、一単語がずしんと体の芯を捉えて重い。
これほどまでに感情を表に出した字城を見るのは、これが二回目だ。偶然か、一回目と遭遇したのもこの場所だった。しかしながら、人恋しさに己のもっとも脆い部分を晒したあのときと今を比べると、感情の流れが必ずしも同一とは言えない。
「ねえ、なんで……?」
それに対して俺は、
「知らないよ」
「……っ」
「字城がなにを感じて、なにを思っているかなんて、知らない。そんなことまで先回りしてカバーできるほど、俺は優秀じゃない」
「でもっ……」
「現に、なんで字城が俺に黙って学校やめようとしてるのかさっぱりだ」
瞠目。字城はそのまま下唇を噛んで、わずかに俯く。
彼女が言う痛みとやらに、まるで心当たりがなかった。一概に痛みと言っても、心因性のものから外傷によるもの、あとは神経系の欠陥によるものまで分類が複雑化する。強く掴んでいるから胸が痛いのか、心が痛むから胸を掴んで誤魔化しているのか、それともどこか痛いような気がしているだけなのか、俺には読み取れない。
もしかすると、ほんの少し前までならば理解できたかもしれなかった。字城とわの人間性に触れ、彼女の思考の輪郭を掴みかけた。少なくとも、俺はそう思っていた。
でも、本来推量の指針として用いられたはずのそれら土台が、この数日でいっぺんに崩れた。大雨のあとの山肌みたいに、全部流れて消えてしまった。
当てはめるべき公式が機能不全であると判明した今、俺が字城を理解するには、もっともプリミティブな方法を用いねばならない。
「ちゃんと、わかるように言ってくれ。字城とわのことがまったくわからなくなってしまった俺にも納得いくように」
表情とか、仕草とか、そういう曖昧なものはもう信頼できない。だからたった一つ、言葉だけが頼りなのだ。それすらも嘘というフィルターでろ過される可能性がある以上不完全だが、他の手段が軒並み壊滅した現在、贅沢を言えるほどの余裕なんかどこにもない。
「……言葉に」
容器の底に残ったほんの少しの調味料を、無理やり取り出そうとするようなもどかしさだ。ぱっと見で、労力とリターンのつり合いが取れていないのなんて丸わかり。それでもやめられないのは、偏に俺が人間だから。見えている以上は手を伸ばしたくなる。そういう習性が、誰にだって備わっている。
「……言葉にできたら逃げてない」
「だったら、別にそれでもよかった」
「……?」
「なにも言わないのと言葉にならないって伝えてくれるのとじゃ、月とすっぽんだって話」
少なくとも、状況理解に明確な差が出るのは間違いない。特別なきっかけがあろうとなかろうと、字城の心は一度捨てたはずの退学側に揺らいだ。それさえ伝えてくれれば、今ほど面倒なことになっていなかったと思う。
「考えがまとまらないならなおさら、俺の力を頼るべきだった。頭脳労働に関して言えば、俺の方が得意なのは間違いない」
「そうじゃない。言葉にできないっていうのは、そうじゃ、なくて……」
双方一方通行で、会話がなかなか成立しない。字城のことを多少わかった気になっていたが、どこまで行ってもわかった気になっていた止まりだ。相互理解には程遠く、過去どうやってコミュニケーションを取っていたのかすらおぼつかなくなる。
だからって止まる気にはなれないんだから、難儀なものだ。
「……申し訳ないのと、恥ずかしいのと、消えたいのが混じって、私にもよくわかんないよ」
「取り留めなんていらない。全部、聞くから」
俯いていた字城の顔が、ほんの少し上向いた。瞳は潤んでいるように見えたが、それすらも俺の思い込みだという可能性がある。
「一個ずつ、聞くから。話がつながらなくたって、支離滅裂だって構わない。だから、黙るのだけはやめてくれ」
沈黙から得られる情報なんてあってないようなもの。であれば、ひとまず口を動かしてもらった方がいい。情報の精査は勝手にこっちで済ませる。
俺に促されたことで、字城は、
「……森谷、テストの結果、どうだった」
「一位を取り損ねた」
「……なんで?」
「…………」
そんなの、わかり切っている。けれど字城は、わかり切っていることだからこそ聞きたいのだろう。
「……自分のために使える時間が多くなかった。字城の勉強、ずっとみてたから」
「もし私がいなかったとしたら、どうだった?」
「また一位だったんじゃないか。毎度そう上手くいくとも思えないけど」
「……だよね」
長い余韻。そこから意を決したように、続く。
「私が森谷のお荷物だったってことでしょ。これって」
「……意地悪な言葉選びをするなら」
「散々助けてもらったのに、私、森谷の足を引っ張ってるだけ」
字城は、下手くそな笑顔を作って、
「それが、痛いよ……」
「…………」
「自分のことじゃないはずなのに、痛くて、痛くて、壊れそうで……」
広々とした家のはずが、きゅっと急激に空間が狭まるような錯覚。壊れそうと訴える字城は、本当にそのまま空気に溶けてどこかへ消えてしまってもおかしくなかった。
「こんなの、知らない……」
滲むように、染みるように、言葉だけが場に残る。反響音が容赦なく胸を抉り、余波は目まで眩ませた。字城は俺の失敗をいつの間にか自分の痛みへと変換して、その痛痒に苦しめられている。
「このままじゃ私、森谷をもっとダメにしちゃう。そう考えるだけで痛くて、おかしくなりそうで、もう、わかんない。なんにも、わかんない……」
聞いて、真っ先に湧きあがあったのは苛立ちだった。しかし矢印を向ける対象は字城ではなく、もっと大きな――たとえば社会とか環境とかいう、輪郭線の定まらない不明瞭な存在。
なんで、なんで誰も――
「字城」
――幼稚園児だって無意識に獲得しているような感情を、彼女に教えてやらなかったんだ。
「おかしくなんかないんだよ。そう感じるのは、字城が正常だって証だから」
誰も彼女に寄り付かず、彼女も誰かに近付かなかった。生まれ持った独特な感性が後からやってきた孤独と最悪な配合で混ぜ合わさり、字城の情緒はきっと、歪な形で発達したのだ。
共感力。誰にでも備わっている能力だ。友人の幸せを喜び、ニュースに映った赤の他人の心情を慮って怒り、家族の不幸を悲しむ。自分を自分で終わらせない、人間社会の秩序を支える、社会的生命体に必須の力。
幾千の凡夫に羨まれる、どれだけ願ったって手に入らない才能を持つ彼女は、しかし街行く誰もがその身に宿している才能を持たない。この最悪の行き違いが、今の字城を形作った。
「俺も、字城が傷つくと痛いよ」
彼女が成功するかどうか心配でテスト前はロクに眠れもしなかったし、音信不通だったここ数日は食事の味もわからなかった。生きていくうえでこれほど不都合なこともそうそうないが、そうでなければ、人間じゃない。著しく合理性にかけるというのに誰にだって標準装備されているのだから、これが一番人間らしい感情だと思う。
「相手に近付いて、どういう人間なのか知って。一度そうしてしまったら、もう他人でなんていられない。……字城は、たぶん俺を自分の世界に入れてしまったんだ。俺の世界にだってもちろん字城はいて、だから、痛みが伝播する」
本来、その痛みとの向き合い方は長い時間をかけてじっくり学ぶものだ。幼少から思春期を通じ、誰もが自分なりの答えを出して行く。……しかし、この歳になって初めて経験するとなれば、こじらせるのも頷けた。
「これから、できる限り教える。人との付き合い方とか、痛みの落ち着け方とか。……でも、そのためにはやっぱり、教材の宝庫である学校に居てもらわなきゃ困るんだ」
ひとりぼっちに慣れた体じゃ、ふたりっきりにだってなれやしない。十人十色の個性が混在する場所に自分の意思で立って初めて、得られるものがあると思うから。
手を伸ばす。彼女の行く先を明るく照らす、道しるべになれるように。
しかし、
「ちがう。ちがくて。それだけじゃなくて。……私、わかってたのに」
字城は首をふるふる振って、俺の手を拒絶した。その姿はまるで幼児がいやいやをしているようで、感情表現のレベルがどこで止まってしまっているかが窺い知れた。庇護なしでは生きられない赤ん坊が、なぜか一人で生きることを強いられている。こんな理不尽もそうそうない。
「なにがわかってたって?」
「……もう、絶対大丈夫だった」
一瞬、字城が伸ばしっぱなしの俺の手を見た。しかし掴む気はないようで、裂けるのではないかと恐怖するほどの力でもって唇を噛みしめている。
「私、絶対にテストを切り抜けられるってわかってたのに、最後の最後まで森谷にすがった。そうしなかかったらきっと、森谷の順位が落ちることもなかった」
「おかしくないだろ。進退がかかってたんだから、万全を期してやれるとこまでやり切るのは間違ってない」
「……ううん」
泣き笑い、脆くて今にも崩れ去りそうな表情の字城が目の前に立っている。そこにある種の吹っ切れを感じ、身構えた。
「勉強なんて、本当はどうでもよかった」
「…………」
「私、ただ、ずっと森谷とおしゃべりしてたかった。……他のこと全部忘れられるくらい、あったかかったから」
「…………」
「迷惑かけてることだって、うっすらわかってたのに」
こいつは、この女は、本当に、本当に、本当に、腹立たしいほど、ムカつくほど、イラつくほど、なんにも――
「――なんにもわかっちゃいないだろうが」
この言葉は、彼女と自分両方に向けたものだった。字城が思っていることは見当違いも甚だしいし、俺は俺で、彼女がどういう人間かをまったく理解できていなかった。もう少し能天気で、自省や内省とは縁がないタイプの性格をしていると思っていたのに、蓋を開けたらこうだ。コールタールみたいな黒くて粘っこい思考に足を取られ、身動きすらままならなくなっている。
「孤独を嫌うのも、誰かと一緒にいたいと思うのも、ずっと話していたいと思うのだって、なんにも恥ずかしいことじゃないはずなんだよ」
それがなんだって、ここまで自罰的な結論を呼び込む。俺と話すのが楽しかったっていうなら、自ら離れていくのは理屈に合わない。
「でも、やだよ。森谷に邪魔とか迷惑とか思われるくらいなら、また一人に戻った方が楽だよ……」
「俺が一度でも、字城との付き合いが煩わしいって言ったか?」
「言葉にしないだけで思ってるかもしれないじゃん。……そんなの考えたってわかんないし、聞いたってきっと素直な答えは返ってこない。なら、ならさ……」
もう、字城の顔は見ていられなかった、それくらい、酷い表情をしていた。
「……まだ思い出が綺麗なうちに、宝箱にしまっておきたい。そうしておけば、こんなこともあったなって、後から振り返れるはずだから……」
ああ、もう。
「わかったよ」
話にならない。
「理屈が通用しないってのが、よくわかった」
説き伏せるのはもはや不可能。壁は未だ分厚くて、向こうになにがあるかも見えないままだ。
だから、ここから先は最終手段。
「ほら、これ」
懐からとあるものを取り出して見せると、字城の顔色が明らかに変わった。当然だ。ここにあるはずがないものを見せられたら、誰だってぎょっとする。
「言ったろ、宅配便って」
初めから嘘はついていなかった。俺は届け物があって、この家まで訪れたのだ。
「なんで……」
「不備があったから再提出」
字城の退学願い。本来は慎重かつ厳重な取り扱いを受けるべき重要書類が、あっさり一生徒の手に渡っている。コンプラ的に大問題だが、里見先生も俺に話を投げた時点でこれくらいやらかすのは想定しているだろうからセーフ。一蓮托生、死ぬときは一緒だ。
「不備って、誤字脱字はなかったし、はんこだって押したのに」
「ああ、形式になんら問題はなかった。……けど、一つ付け足さないといけないものがあってな」
「…………ぇ」
息が詰まるとは、こういうことをいうのだろう。字城の実演を眺めながら、俺は自身の懐から封筒をもう一つ取り出した。慣れない筆ペンで書きこまれた『退学願い』の文字は、字城の達筆と比較すると幼稚に映る。
だが、今重要なのは文字の上手さや迫力ではない。
「学校やめるって決断が揺らがないなら、これも一緒に提出してもらう」
毒を食らわば皿まで。今目の前にあるのは、二通の退学願い。無論、片方は字城のもの。では、もう片方は。
「俺の分の退学願いだ」
字城とわに問う。俺の人生を滅茶苦茶にする覚悟はあるか?
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