第29話 答え合わせ

 頑張って、頑張って、頑張って。寝る間も惜しんで、休日を潰して、ライフワークの絵描きを封印してまで望んだ赤点回避。――それが失敗に終わった。状況証拠から導き出される現実を飲みこむのは非常に難易度の高い試みで、本来すぐに動き出すべきところを二日も無駄にした。

 しかし、いい加減向き合わねばならない。俺は彼女の協力者であり、無根拠な太鼓判を押した責任者でもあるのだから。結末にまつわるあれこれは、全て知っておくべきだ。


「失礼します」


 放課後になってすぐ訪ねた職員室は、教員と生徒が入り混じって慌ただしい。テストも終わり、部活動が本格的に再始動した影響が大きいのだろう。夏の大会を控えた運動部なんかからは特に、一秒だって無駄にできないという緊張感じみたものが見て取れる。

 資料や私物で狭まった通路を、身を細めて進む。話したい相手は、この先にいる。


「森谷」


 久々に顔を合わせた気がする里見教諭からは、そこはかとない戸惑いを感じた。それは俺が訪ねてきたことに対してか、あるいは――


「里見先生。一つ、聞いてもいいですか」

「……その前に、これを」


 デスクの引き出しから、彼はいそいそと封筒サイズのなにかを取り出した。……その表紙に書かれた文字を見て、99パーセントが100パーセントへと変貌した。もしかしたら、そんなことはないんじゃないか。1パーセントくらいの確率で、俺が事実を取り違えているだけなんじゃないか。その希望が、無惨に潰えた音が聴こえる。

 『退学願』と揮毫された封筒。止め跳ね払いに左利き特有の癖が出ているその筆跡は、間違いなく彼女のもので……。


「午前中、届けに来ていたんだ」


 差し出され、無言で受け取る。中に折りたたまれていた一枚ぽっちの紙きれに目を通し、返却。そこにはこの学校を退学したい旨が書き込まれており、ご丁寧に捺印まで済ませてあった。

 このあたりで、ようやく思考が現実に追いつき始めるのを感じた。……字城は、もう学生ではいられない。約束があって、それを満たせなかった。進級させてもらえたこと自体がこの上なく寛大な措置であった以上、学校側の決定に文句は付けられない。

 けど。


「こんな、すっぱり……」


 足掻いて欲しかった。どれだけみっともなかろうと、情けなかろうと。次こそは絶対大丈夫だからって、歳相応に我がままを言って欲しかった。だって、あれだけ頑張ったじゃないか。少なからず成果は出ているはずで、そこを目ざとく見つけた誰かが、大人の事情とやらでまた救いの手を差し伸べてくれれば。……わかっている。こうやって責任の所在をあちこちにすり替えても、結果が変わるわけじゃないってことくらい。だからといってすんなり納得できるはずもなく、俺は頭の中で必死に屁理屈をこねくり回して現実に抵抗するしかなかった。


「……森谷、俺からも一ついいか?」


 虚脱感に襲われ、このまま床に溶けていきそうだった俺を、辛うじて先生の声がつなぎとめた。慌てて姿勢を正し、「はい」と一言。


「字城は、学校を嫌っていたか?」

「……ええ、たぶん。彼女の体に合わない枠組みだってことは、先生もわかっていたんじゃないですか」

「ああ」

 

 肯定。学校教師が認めてしまうのはどうかと思うが、やはり現行の教育システムは多数派に合わせて最適化されたものであり、字城みたいな特別性の人間を前もって想定していない。だが、これも仕方ないことだ。個人に合わせた調整をしていられるほど、世界は優しくなんてないから。


「だが、その字城がある日を境に学校へ順応しようという意思を見せ始めた。なぜだろう?」

「本人は、本気で取り組むことで、自身にとってそれが意味のあることかどうかを――」


 途中で浮かんだ疑問符に従い、言葉を止めた。今言いかけたのはあくまで勉強してみる理由であって、学校に馴染もうとする理由にはなり得ない。ではどうしてか。いつかの俺は、学生の身分を捨てるのが惜しくなったのだろうと勝手に断定したが……。


「……学校から離れたくない理由ができたから?」

「ああ、俺もそう思う。だが、肝心の理由というのはなんだ」

「…………」

「すまないな、森谷。俺は、お前だったらあの子の理由になってあげられるんじゃないかと思ったんだ」

「……俺が?」


 なぜ。どうして。話につながりが見えてこず、茫然とする。俺に、そんな秘められた力みたいなものは眠っていない。あれこれ試してきたからよく知っている。


「四月の終わりに、字城から聞かれた。『森谷は何者なんだ』とね。そこで俺は答えた。『コンプレックスを持たない男だ』と」

「……いや、そんなわけないでしょ。そっちこっちにコンプレックスこじらせてますよ」

「ああ、わかっている」

「……はい?」

「一応、煙に巻いておいた。まさか他の誰より劣等感に敏い人間だとは言えないから」

「…………」

「お前の本質はむしろ、その劣等感との向き合い方を知っていることに尽きるんだがな」


 勉学に励むのは、何者でもない俺が自身の存在を証明するため。積極的に誰かに手を貸すのは、そうすることで自身の存在を認識してもらうため。普段なんでもないようにふるまってみせても、俺の行動原理の大半はコンプレックスが由来になっている。

 

 だから当然、俺はこの学校に在籍していたとある一名の生徒に対し、前々からかなり一方的な劣等感を抱え持っていたわけで。


「森谷京以上に、字城とわを意識していた人間はいない。……俺はこの二人をぶつけたときに起こるだろう化学反応に期待し、そしてそれは起こった」


 見てくれ。次に里見教諭が取り出したのは、数日前に俺や鞘戸が見せ合っていた紙片。中間考査の結果が小さく記された表だ。


「全教科平均点付近。もちろん赤点はなしだ」

「…………は?」


 今度こそ、頭の中が真っ白になった。なにもかもが完全に漂白され、二の句を継ぐことなんかできやしない。だって、それじゃあ因果関係が滅茶苦茶じゃないか。ストーリーラインが完全に崩壊してしまっていて、理解という行為に唾を吐きかけているようだ。


「字城は見事学校が設けた関門を突破し、その上で自ら退学の道を選んだ。さて、その心は?」

「…………」


 言葉なんか出てくるわけがない。俺は狐につままれるような奇怪な感覚に襲われながら、答えのない答え合わせを強いられることになる。

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