第30話 one of them 彼女の。

 自分でも信じられないくらい、なにもかもが上手くいった。驚きだった。赤点さえ取らなければいいと思っていたのに、どの教科も平均点と競えるくらいの結果になっていたんだから。

 当然、学校と結んだ約束は達成。それはつまり、私は明日も明後日も同じ制服を着た高校生でいられるということ。

 うれしいな。うん。うれしい。学校をやめなくて済んだのはもちろんのこと、森谷の期待を裏切らなかったのが一番。もし失敗していたら、どんな顔で報告しに行けばいいかわからなかったから。


(褒めてくれるかな……)


 期待感に胸が膨らむ。赤点回避どころではないと知った森谷がどう反応するかが楽しみだ。それもこれもあいつが手を貸してくれたおかげだから、私が威張るのはちょっと違う気もするけど。

 森谷のクラスは帰りのホームルームがちょっぴり長引いているようで、終わって出て来るまで、教室の近くで待機することにした。意味もなく前髪を整えつつ、開口一番なにを言うのが最適か考える。テスト期間中のジョークは単純に肝を冷やさせてしまっただけだからよくないと反省。ならばシンプルに、結果を見せつけてしまうのがわかりやすいか。

 

 だめだ。自然に頬が緩む。私は自分で思っている以上に、この結果に喜んでいるらしい。手鏡代わりにスマホのインカメラで表情をチェックしてみると、なんとも締まりのない顔つき。これでは格好がつかないので、意識的にきゅっと全身に力を込める。

 よし、完璧。たぶんだけど、いつもの顔になってる。

 

 ホームルームはまだ終わらない。踵でとんとん地面を叩きながら、この後のことについて思案する。この後というのはつまり、テスト結果を知らせたさらに向こう側のこと。退学勧告の撤回を当面の目標としてきたが、それを成し遂げた今、そろそろ他の目的を見据え出してもいいはず。

 森谷には、取りあえず卒業したいと伝えてあった。その思いはもちろん大前提に持っておくとして、違う楽しみがあっても悪くないかなという気がする。

 たとえば。


(祝勝会、とか)


 試験が終わってお疲れさまということで、今度は予め準備を済ませてから森谷を家に招いてみるのもいいかも。また出前を頼んで、ケーキなんか買ってみて、……あとはまあ、メニューの中に手作りの品を忍ばせたりするのも悪くない。気分転換にと最近手をつけてみた料理だったが、どうやら凝り性の私とは相性がよかったようで、ちょっとずつ腕が上がるのを実感中。けれども、自分で作って自分で食べるだけでは味気ない。絵もそうだが、創作物というのは人目に触れさせて初めて完成するのだ。

 というわけで、栄えある被験者その1は森谷に務めてもらおう。変な気遣いが混じらないよう、あくまでこっそり並べておく感じで。ああでも、店売りの商品と比べたらまだまだ拙いから、わざとあんまり美味しくないものを頼んでその近くに置いて……。


「あっ」


 人が一斉に動き出す気配を察知した。ようやくホームルームが終わったらしい。森谷は私が美術室にいると思い込んでいそうだから、ここで飛び出すだけで十分サプライズになるかもしれない。

 しばらく待つ。ぞろぞろ出てくる生徒の中に、あいつらしき影はない。まだかまだかと物陰でやきもきし始めたところで、ようやく聞き慣れた声がした。

 飛び出す――直前に、無意識のブレーキ。声がするってことは話し相手がいるはずだから……というのは、後付けの理由で。


 本当は、割り込むのに尻込みしてしまった。――あいつが、いつぞやの女の子と談笑しているのが見えたから。


「ふふーん♪」


 その子は自信満々に、私がポケットの中で握りしめているのと同様の紙きれを森谷に見せつけていた。賭けでもしていたのだろうか。 

 そういえば、しょっちゅう勉強を教えたなんて言っていたっけ。……それはつまり私への指導法はおさがりということで、なんともいえない気持ちになったのを覚えている。


(どうしよ)


 そんなつもりはなかったが、形だけ見れば完全な盗み聞き。後ろめたいことなんてないんだから、さっさと話しかけてしまえばいいのに。……でも、どうしてか体が言うことを聞いてくれなくて、いつの間にか息を潜めて気配を殺し始めた自分もいて。


「言ったでしょ、やればできるって」

「じゃあいつもやれ……ってのは野暮か。お疲れ。よく頑張りました」

「ま、大体私のおかげだけどね~」

 

 どうやら、好成績を残したらしい。その横でフォローを入れた女子は初めて目にするが、砕けた感じから見るに彼女も森谷の友達なのだろうか。


「これで俺もお払い箱ってわけだ」

「ちょっ、待ってけーくん! 毎回これは絶対無理!」

「そ~だよ鞘戸。私の方が優秀って他ならぬ鞘戸が証明したんだから」

「いじわるぅ……」


 いつも面倒をみていた森谷が離れても、なんとかなったと。『さやと』というのは、たぶん長身の子の名前だ。苗字だと思う。

 三人の雰囲気はすごくフランクで、私が描く理想の友人像をそのまま反映したかに思えるほど。互いに気を許し合っていて、いい意味で遠慮がない。……と、ここでいつもの痛みが走る。森谷、そんな顔するんだ。ふと、そう思ってしまったから。


 私の前ではそんな顔、したことないのに。


「あのさ、けーくん」

「ん?」

「大丈夫? ……ほら、変わることもあるんじゃないかなーって」

「ああ、これ?」


 森谷が取り出したテスト結果表に、その場の視線が集まっている。学年一位の結果だから、気になるやつも多いんだろう。


「まあ、いつかこういうことになるとは思ってたよ。ずっと一位なんて土台無理な話だし」

「それでも私よりは上なんだから。せめてもうちょっと落っこちてくれればよかったのに」

「そこは死守。相良に成績マウントは取らせません」


 ……………………え? 今、なんて?


 すーっと全身から血の気が引いていき、徐々に現実が見えてくる。森谷の成績が下降した。言ってしまえば、ただそれだけの事実。……それだけの事実に、どうしてか私は大きく揺らいでいる。

 ばっちりだって言っていた。森谷は賢いから、私の世話を焼きながらいい点数を取るくらい朝飯前だと高を括っていた。でも、そうはならなかった。


 私が、森谷の足を引っ張った。導き出されるシンプルな現実に、体が芯から凍るような寒さを錯覚した。


「まあ、みんなお疲れさまってことで。切り替えて、楽しいことでも考える頃合いじゃない?」


 そんなことを言っているくせに、背中に隠した握り拳が震えている。それは悔しさそのもので、またあるいは、怒りのようでもあって。

 では、その怒りの矛先はどこへ向く。――考えたとき、対象は一つしか思い浮かばない。


(私が迷惑かけなければ……)


「い、いや、まだタイミングじゃないっていうか……」

「うっさい。さっさと行ってさっさと砕けて私のとこに帰ってきな」

「う、うぅ……」


 そうこうしているうち、一団に動きがあった。まだ名前を知らない子が長身の子の背中をぐいぐい押して、なにかを促している。聞き取れない小声でいくつかの応酬の中、瀬戸際に追いやられたらしい『さやと』が、今にも泣きそうな目で森谷に助けを求めている。


「もしかして、前言ってたご褒美の催促だったりする?」


 そこで、森谷の声。……ご褒美って、なんだ。

 『さやと』は渋々頷いてから、


「けーくんさ」

「ああ」

「……そのうち、丸一日空いてる日とか、ある?」

「休日は大体暇だと思うけど」

「……なら、一緒にお出かけでもどうかなーなんて」

「それだけ?」

「えっ」

「いや、テンションの割にそこまでのお願いでもないなと」


 思わず呼吸を止めたのは、その提案が、今後私のする予定だったものとあまりに似通っていたからだ。あるのは行き場所の違いだけで、森谷を丸一日独占したいという基本的な考えはまるで同じと言っていい。


「それくらい、いつでも付き合うよ。ほら、ゴールデンウィークの前にドタキャンしちゃったのもあるし」


 ノータイムで、森谷はOKした。その時点で色々思うところはあったものの、特に気になったのは、ゴールデンウィーク前のドタキャンという部分。

 あの連休が始まる前日、なにがあったか。今でも鮮明に思い出せるがゆえに、パズルのピースが埋まる感覚でどんどんと息が詰まっていく。……もしも私が変な期待を胸に抱いて美術室なんかに行かなければ、森谷は友達と楽しい休日を過ごせていたのではないか。私が寂しさを紛らわすために引き留めなければ、もっとほかの予定を満喫できたのではないか。連休中は暇だという発言が真実であったなんて証拠は、どこにもないんだから。森谷は渋々、私に付き合ってくれていただけかもしれないんだから。

 

「……いや、そういうのじゃなくてね?」

「ん?」

「…………デートしませんか、ってことなんですけど」

「なぜ敬語」

「恥ずかしいの!」

「別にてんなと外を出歩くの初めてじゃないだろ」

「……今回はいつもよりちょっぴり特別な感じだから」

「どこがどう?」

「今言ったら意味なくなっちゃうじゃん!」

「じゃあ、そのときまでのお楽しみってことで。最近ぎちぎちだったスケジュールが当面すっかすかだから、むしろてんなの部活休みがいつになるかだな」

「……そ、そんなにすんなり処理されちゃうとなんか……もにょもにょする」


 聞きたくない。聞きたくないのに、聞かずにはいられない。その手の話には疎い私でも一発でわかるくらい、今のは告白の前振りだ。『さやと』が森谷を好いていることは、二人の関係をほとんど知らない私にだってバレバレ。……なんでそう思ったかは、わからない。わかりたくない。

 森谷は、なにも拒絶しない。途中の『てんな』というのが彼女のファーストネームだろうか。お互いが下の名前で呼び合って、雰囲気は和気あいあいとして、それでいて筆舌に尽くしがたい甘酸っぱさが漂っていて。



 こんなの、もう、どうしようもないじゃん。


 

 しばらく茫然としたあと、ふらつく足取りで、階段を降りることにした。この道をずっと進んだ先には靴箱があって、さらにそこから進むと、私の家がある。

 帰ろう。もう、いい。……もう十分、夢は見た。


「痛いなあ……」


 また、体の内側がずきずき痛む。それも、今までよりずっと強く。


「痛いなあ……」


 痛みを発する器官が、広く心と呼ばれる部位なのは、薄々勘づいていた。


「痛いなあ……」


 ポケットのスマートフォンが短く震えた。やめておけばいいと知りながらも、半分無意識で画面を眺める。……メッセージが一件。相手は森谷。


「……………………っ」


 もう、言葉も出ない。痛くて痛くて、体がバラバラに砕けてしまいそうで、この気持ちをどこに向ければいいかわからない。


 帰る。覚束ない手つきで打ち込むと、すぐに返信があった。『明日、会えるよね?』それに対して、回答できない。


 だって、『帰る』しかないって思ったから。お互い、元いた場所に。私は広い家にひとりぼっちで、森谷は仲良しの友達の元へ。関わり合う前の日常へ。


「やだなあ……」


 全部、全部いやだった。こんな結論を導き出した自分も、森谷が知らない女の子と仲良くするのも、私が全然見たことない表情があったのも、私が森谷の足を散々引っ張ってしまったのも。


 こんなときに思い出すのは、いつかの昼休み。私が英語の教科書を持って、森谷の教室に突撃した日。『one of them』って熟語を上手く翻訳できないという言い訳を用意して、あいつの顔を見に行ったんだ。


 第三者。有象無象の一人。あのときはぱっとイメージできなかったが、今ならそれがどういうことかすんなり飲みこめる。


「やだなあ…………」


 私にとって、森谷は特別だった。――でも森谷からしてみれば、私なんて何人かいる助けを求めてくる誰かの一人に過ぎなかったんだ。


 勘違いしていた。森谷が誰にでも優しいのを知っていて、自分だけはさらに目をかけてもらっているのだと。見えている狭い世界の情報でのぼせあがって、視野狭窄に陥っていた。そうだったらうれしいという願望しか、考察材料はなかったのに。


 あいつの特別になりたかった。特別扱いされたかった。……目を逸らしてきたこの感情が、世間一般でなんと呼ばれるのか。『さやと』の心情をすんなり理解できた時点で、そんなのはもうわかり切っていて――


「やだなあ………………」


 ――私は、森谷京が好きなんだ。……そんなことに気付いたところで、今さらどうにもならないけれど。












********************


『宅配便でーす』

「……んぅ」


 学校に届けを出し終わって帰宅してから、ソファで眠ってしまっていたようだ。やることは色々あるはずなのに、体が全然言うことを聞かない。それでも今ここで配達員にはんこを押さないと、後から面倒な手続きを踏まされる羽目になる。


「ママかな……」


 滞在先のお土産か、便利グッズか。そういうのはしょっちゅう送られてきているから、今回も同じだろう。退学の件について説明しなきゃと思うと、今から憂鬱で仕方ない。

 

「はーい……」

 

 適当な返事とともに鍵とチェーンを解除。内開きのドアの向こう、立っているのはジャンパーを着た宅配業者――などではなく。


「や」


 片手をゆるくあげた制服姿の男子が、そこにはいた。


 どこをどう見ても、森谷だった。


 今、世界で一番顔を合わせたくない相手だった。


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