第22話 二度寝

「言っちゃった……」


 ベッドに寝転がり、目を腕で覆う。「行かないで」なんて言われても、迷惑なだけだろうに。……ただ、家が元通りの空っぽになるのが嫌で嫌でたまらなかった。ここが、本当は私以外の息遣いがあって当たり前の場所だと気づいてしまったから。……森谷のせいで、気づかざるを得なくなってしまったから。


「言っちゃったなぁ……」


 恥ずかしい。思い出すだけで全身が熱くなる。……こんな弱音、両親相手にだって吐いたことなかったんだけど。慣れないことをした疲れが今になってどっと全身を襲ってきており、あちこちが重い。だけど羞恥心からくる火照りのせいで、眠ろうにも眠れない。

 

「…………」


 今も、まぶたのすぐ裏側に森谷の顔がある。私の困ったおねだりを聞いて、痛ましそうに目を細めたあいつの顔が。……こうすればもう少し一緒にいてくれるかもしれないという私の醜い打算に、森谷はきっと気づいていない。その欺瞞が痛くて、申し訳なくて、でも……。


 渇きを訴える喉に従って、寝室を出た。深夜三時。ただでさえ静かなマンションから、ほんの少しの雑音すらも失われる時間。冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを手に取って帰る途中、とある場所に視線が吸い寄せられた。

 リビングのソファから、なにかの気配を感じる。暗さに慣れた目が捉えるのは一枚の毛布。それが小さく規則的に上下しており、さらには物音も聞こえた。おかしな話だ。ほんの少しの雑音すらも失われる時間のはずだっていうのに。


「……寝てる」


 足音を殺し、そっとソファに腰かける。そこでは森谷が小さく寝息を立てていて、本当にいるんだということを再確認。


「…………」


 特に意図なく、毛布からはみ出ていた手を掴んだ。思いのほか大きくて冷たい手の感触を味わうのは、実はこれで二度目。


(本当にいるんだ……)


 再度心で唱え、至近距離から顔をのぞきこんでみる。風呂上りはコンタクトを外しているのでこうするしかない。寝顔と普段の顔つきに大差はなく、日頃意識して表情を作っているわけではないらしい。改めて見ると顔立ちは意外と整っていて、知らないだけで森谷を好いている女子の一人や二人くらいはいるのかも。世話焼きだから、私と違って人付き合いも多いんだろうし。……そういえば、親しげにしているクラスメイトがいたっけ。背が高くて活発そうな子だった。もしかすると、そういうのが森谷のタイプなんだろうか。


 ……なんか、痛い。怪我したわけでもないのに。


 痛みで部屋まで戻る気力が潰えてしまい、水を一口だけ飲んで私もソファに寝転がった。さすがに高校生二人には狭いから、脚やら腕やらがぶつかる。これで起きたらどう言い訳しよう。……いいや、疲れて頭も働かないことだし。

 

『ごめん、盛り上がっちゃったから今日は友達んち泊まってく。……うん。……うん。明日には帰るよ。じゃあ、おやすみ』


 縋る私がよっぽど憐れに見えたのか、森谷はその場で家に連絡を入れてくれた。「事後承諾なんだけど、泊まって大丈夫?」肩を竦め、「着替えとかなんにもないけど」と笑う。私はすっかり言葉に詰まって、了承の意思を込めて手を握ることしかできなかった。……それを、森谷が握り返してくれたのがうれしかった。

 その後は、終始心が浮ついていて記憶が薄い。確か下着を買いにコンビニまで行くという森谷についていって、時間つぶしにとレンタルショップで映画を借り、それを二人で観た。ハリウッドのアクション大作だったらしいが内容は全然頭に残っていない。もしかしたら駄作だったのかも。

 その後はどうだったっけ。自然に解散して、眠る流れになった気がする。とはいえ全然寝付ける気配なんかなく、こうして部屋から飛び出してきてしまったわけだが。


(パパのベッド使えばよかったのに……)


 ほとんど家にいない父親の寝具は新品同然だから、加齢臭の心配もない。本当なら森谷にはそこで眠ってもらう予定だったが、こいつはそれを頑として断った。「ソファで十分」って。

 実際、すやすや気持ちよさそうに寝ているから嘘ではないのだろう。でも、客人にソファを使わせ、自分はベッドで横になっている事実にもやもやが残る。……だからといって、私のベッドを使わせるわけにもいかないんだけど。…………恥ずかしいし。


(体温、だ)


 触れた肌から温もりが伝わってくる。四月の夜はまだまだ肌寒くて、その上私に毛布はかかっていないから、仕方なくもうちょっとだけ身を寄せた。本当に、本当に本当に本当に仕方なく。誰かの体温を間近に感じるのは思い出せないくらい久しぶりで、どうしてか涙が出そうになる。あったかい。ただそれだけのことなのに。

 

(あったかいなぁ……)

 

 事実を何度も反芻し、あとちょっとだけと体をくっつけた。……あとちょっとこうしたら、部屋に戻るから。


********************


「うぉっ……!」


 目を覚ましたら、めちゃくちゃ綺麗な顔が目の前にあって慄いた。なにごとだ。なにごとだというんだこれは。

 

 字城だ。疑いようもなく。新手のドッキリかと身構えたがそうではないようで、耳を澄ますとかわいらしい寝息が聞こえてくる。……いや、この子なんでこんなところで寝てんの?

 だが、眠っている相手にそんなことを問うても意味がない。経緯はどうあれ事実は一つ。彼女が俺の隣で眠っているということだけ。

 もしかすると俺は昨晩にとんでもないことをしでかしているかもしれない。男女が同衾するというのは、それとイコールだ。しかし両名とも着衣はしっかりしていて、ぱっと見でなにかあった痕跡は見受けられなかった。

 なにがあった。なにがあった。寝起きで動きの鈍い脳を必死に回転させ、昨夜の記憶を辿り出す。えっと、確か泊めてもらう流れになったんだ。そこから――


「着替え買ってくる。さすがに下着は借りられないし」

「…………」

「おーい……」


 コンビニに行きたかったが、なぜだか字城が離してくれない。「すぐだから」と言ってもやっぱり手は掴まれたままで、返事もないから膠着状態。ああこれは重症だと判断した俺は、


「帰らないって」

「……だめなの、付いてったら」

「…………」


 本当に弱っているらしい。是が非でも一人になりたくないらしく、こっちに付いてくる気満々。さすがに断れるわけもなく、二人そろってコンビニへ。


 しかし、そこからが問題だった。

 コンビニに行くときも、商品を選ぶときも、レジを通すときも、レンタルDVDショップに寄り道するときも、そこで作品の吟味をするときまで、字城は必ず俺の体のどこかに触れていたのだ。手だったり腕だったりスラックスのポケットを引っ張ったり、とにかく俺が逃げ出さないか不安だったらしい。何度大丈夫と言ったって、彼女は「うん……」と上の空。その様子を見て、もし帰っていたら本当にまずかったかもしれないなと再三の不安に襲われたものだ。

 俺はともかくとして、字城は自分の生活圏でそんな姿を晒してよかったのだろうか。嫌でも目立つ容姿とオーラがあるから、コンビニの店員なんかにはばっちり記憶されていると思うんだけど……。夜、同世代の男にべったりしてコンビニで買いもの。実態がどうあれ、傍から見たら危う過ぎる。もしも俺がレジの向こう側に立っていたら、間違いなくその後のことを邪推するだろうし。


「すぅ……」


 字城は無垢な寝顔で、すやすや気持ちよく寝息を立てている。無防備な姿をまじまじ見てしまうことには後ろめたさがあるものの、しかし惹き寄せられてしまって視線を切れない。つくづく美人だ、相変わらず。

 たぶん、なにもしていない。……なにもしていないはず。風呂上がりでシャンプーの香り全開の字城が寄りかかってくる中、必死で近所の川の流れを思い浮かべながら映画を観ていた。おかげで内容はさっぱりだが、変なところに触れたり、ましてそれ以上のことなんかしているはずがない。字城のやけに甘えた態度はただの人恋しさからくるもので、いわば俺は家族の代用。散々そう言い聞かせ、不動を貫いた。興奮しなかったかと言えば嘘だし、あちこち大変なことになっていたけど、潔白な状態を保ったままいつまでも寝る気配がなかった字城を寝室へと押し込んだ。


 普段は凛としているのに、寝姿は子どものようだと思った。これが彼女の素だとしたら、いつもはきっと肩に力が入りっぱなしなんだろう。甘えたがりで寂しがりの本性を隠し、余計な労力を支払いながら生きている。感じていた天衣無縫っぷりは彼女の一部であって全部ではない。

 字城が今ここにいる理由を深く考えるのはやめにした。追及にそれほど大きな意味はない。ここは彼女の家で、俺は一時的にお邪魔しているだけ。家主の決定は絶対だ。


 首を捻って時計を見上げると、時刻は朝の八時過ぎ。起きてもいいが、字城が目を覚ましたときに混乱されても困る。


 と、いうわけで。


「二度寝ばんざーい……」


 元から昼まで寝る覚悟だった。願わくば次に目を開いたとき、字城がいつも通りになっていますように。そう祈りを捧げつつ両の目を閉じる。……緊張的な状況のはずが、睡魔は意外なほど早く俺の肩を叩いてくれた。

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