第21話 懇願
「できた」
「見ても?」
「ん」
三十分ほどが経過しただろうか。字城は絵の出来にようやく得心がいったようで、鉛筆を傍らに横たえた。
近づき、横に座る。そこから、彼女の抱える俺のノートを覗き込む。
「こうすると値段つくんだ」
とんとん。目立たない場所に書き込まれたサインをつつく字城。……その仕草に、一つの疑問。
「あんまりサイン書かないって聞いた気がするんだけど」
「あんまりっていうか、ほとんど。面倒だし」
「じゃあどうして?」
「記念だから?」
「疑問形で言われましても」
写実的タッチで描かれた自画像との対面が、複雑な感情を生んだ。俺ってこんな顔だったっけとか、字城の目には俺がこう写っているんだなとか。ナルシシズムとは縁がないので、鏡を長く見つめた経験すら皆無に近い。だがしかし、字城とわという特別性のフィルターを噛ませたことで、落ち着いて客観的な目を向けられた。……覇気ないな、こいつ。妙にへにゃへにゃしてる。それが彼女の輝かしいサインと同居しているというのだから、非現実感が著しい。
「書いといた。なんとなく。お金に困ったら売っていいよ」
「売れないよ」
「ああ、自分の顔がオークションにかけられたら気持ち悪いもんね」
「違う違う。こんな貴重なもの、手放す選択肢がない。額縁に入れて家宝にするから」
「大げさ。ただのノートなのに」
「もう遅いよ。ついさっき、世界に二冊とない特別なノートになった」
光に透かすと、後ろのページの数式が浮かび上がる。紙質だってそれほど上等とはいえないし、いつも役立ってくれる罫線が今ばかりは邪魔ものだ。……それでも、俺にとっては既に、ただのノートなどと呼べる代物ではなくなっている。
「誰かに値踏みされたくないんだ。……ずるいけど、秘密の一枚として大事に持っていたい」
「……そこまで言うなら、もっとちゃんとした道具で――」
「これだからいいんだよ。ありあわせの紙と鉛筆で描いたから生まれる息遣いもきっとある」
「……ほんと、変人」
「どう言われても返さないからね。だってこれ、俺のノートだし」
字城の手からノートをひょいっと拾い上げ、天井に掲げる。それを、彼女は憎々しげに見上げて、
「……いつか絶対描き直すから。特注のおっきいキャンバス派手に使って、森谷の家に郵送する」
着払いで。付け加えられた一言に鳥肌が立つ。俺の小遣いで対応できるだろうか、そんな大きなものの郵送費。……いや、そもそも自然にもう一枚描いてもらうことになっている流れをどうしよう。郵送費ならともかく、依頼料金の負担なんてどうにもならないぞ。
そうして戸惑っている俺の意識を裂くように、どこからかぱしゃっとシャッター音が響いた。「撮ったから」見れば、スマホを構えた字城がしたり顔をしている。迂闊にも、モデルを残してしまったらしい。
「……マジでやる気?」
「いつかね、いつか」
「五日で終わらせるみたいなダジャレではなく?」
「森谷、私をなんだと思ってるの?」
そりゃあ天才だ。俺がわざわざ言うまでもなく、色々な人間から散々褒めそやされてきたろうに。だから学校教育の世話になんてなってもらいたくなかったし、その才能を独自に鋭く研ぎ上げてもらいたかった。……しかし、どういうわけかここのところ、字城をやけに身近に感じ始めているのも事実。天才性とは縁がない普遍的な弱みを見せられてしまった今となっては、彼女を学校から引き離そうなどと考えることができない。
現在の字城から学校を取り上げ、膨大な時間を与えたところで、能力の向上につながるとは思えなかった。正確に言い直す。短期的になにかしらの結果は残すだろうが、行きつく先が酷く限定されてしまう気がしてならない。深海や宇宙を思わせる才能の原石が、磨いてみたら小さくまとまってしまうのではないか。渦巻くのは、そんな疑念ばかり。
彼女は孤独であっても孤高ではない。この部分を取り違えたら、手痛いしっぺ返しを受けそうだ。
「……まあ、テスト終わってからだけど。たぶん」
「優先順位はどうしようもないからね」
やりたいことだけやり続けるというわけにもいかない。特に、学校や会社みたいな組織に属しているうちは。お楽しみはいくらか先にお預けということだ。……言うほどお楽しみにしているわけでもないのだが、この感情は嫌悪というよりも畏怖寄り。ただのリップサービスである可能性も考慮しつつ、びくびくしながら日々をやり過ごそう。
そんなやり取りを続けているうち、時刻は十時を回ってしまった。高校生といえどぼちぼち横になり始めておかしくない時間帯であり、俺も若干の眠気を感じつつある。補導されたらコトなので、さすがに帰路につくべきだ。いかに寂しかろうが、眠っている間は誰だって一人っきり。勉強し通しで字城の体力だって削れているはずだから、嫌なことを考える間もなく快眠へ一直線……だと思いたい。
「連休の予定ってあるの?」
「ない。……森谷は?」
「やりたいことなら何個か。昼まで寝てから映画観て、本読んで、適当にだらだらしたいなあって」
「……暇なんだ」
「恥ずかしながらね。インドア趣味なし人間のオフなんてこんなもんだよ」
遊びに誘ってきそうな友人はほぼほぼ部活に駆り出されている。家族でなにかする計画もないので、頭から尻尾まで休養に充てるつもりだ。たまにはそういう時間があってもいい。
スムーズに帰宅宣言ができるよう導入した会話だったが、お互い話を膨らませられなかった。バッドコミュニケーション感は拭えないが、ここらでお暇させてもらおう。
「じゃあ俺、ぼちぼち帰るよ。連休楽しんで。あ、体調には気をつけてね」
ノートが折れ曲がらないよう丁重にリュックへ収納。荷物は散らかしていないから、忘れ物もない。始めこそ戸惑いの大きかった字城家への訪問も、終わってみればいい経験だった。いただいてしまったとんでもないお土産をどうやって保存するかで今は頭がいっぱいだ。飾るか、鍵でもかけて厳重に保存するか、連休をたっぷり使って考えよう。
荷物を背負って立ち上がり、進行方向を玄関に定める。帰ろう。非日常から、いつもの日常へ。
「……森谷も、夜道気をつけて」
「うん。貴重品抱えてるしね」
「わかんないとこあったら、また聞くから」
「お任せを」
「……やっぱり乗っていきなよ、タクシー」
「いいって。これ以上お世話になったら申し訳ない」
「転んで怪我でもされたら後味悪いし」
「小学生じゃないんだから」
リュックを第一優先で庇う予定なので、転んだときどう受け身を取るか不安ではあるが。
「えっと、あとは……」
「大丈夫。二人とも元気なまま、休み明けにまた美術室で」
絞り出してまで会話を続けるにしては、少々時間が遅い。なんてことない雑談ならまたいつだってできると信じて、今日のところはこれでさよなら。
ばいばいと手を振り、丸半日お世話になった家に一礼。もう訪れることはないだろうから、きちんと記憶に刻んでおこう。おそらく今後の人生において、これほどのリッチさは味わえない。……どうだろう。俺は、字城の寂しさを多少なりとも中和できただろうか。役者としてはいささか実力不足だが、それでもわずかながら貢献したと信じたいところだ。
と、俺が一人で本日の総括をしていたら。
「……ぁ」
字城の手が頼りなげに伸びて、俺の手の甲に触れた。驚くほどに力なく、ちょっとした振動でも振りほどけそうなほど弱々しいのに、俺の体がその場にきゅっと縛り付けられる。長いまつ毛で守られた透き通る瞳は揺れているようで、直視するのが躊躇われた。
「字城さん?」
まさか無視して帰るわけにもいかない。うれしい連休が憂いにまみれること請け合いだからだ。彼女の手はわずかに震えているようで、なにかを深刻に訴えようとする気配を感じる。とにかく、聞き届けないことには帰宅しようもない。
「……だ」
「…………ん?」
「……やだ」
触れた手に、ほんの少し力がこもる。熱っぽい。放っておいたら、いつか火傷するんじゃないかと思うほどに。
「やだよ、森谷……」
なにが。……などと、わざわざ聞かなければならないほど鈍くない。つまるところ、彼女が嫌っているのは――
「一人は、やだよ……」
字城は、今にも壊れてしまいそうな柔弱な声で訴えた。今さらひとりぼっちになりたくないと、差し含むように。いつもの強さや気高さはすっかり鳴りを潜め、彼女の脆くて人に見せられない部分だけが前面に出ている。見ているだけの俺ですら痛い。苦しい。なら本人の思いはいかばかりかと考え出してしまって、もう抜け出せない。
「行かないで……」
「…………」
なんて痛切な懇願だろうか。その言葉はどうやっても鍛えられない心の柔らかい部分にまで浸透して、俺を内側からぐずぐずに溶かそうとしてくる。他人の痛みがするりと入りこんできて、呼吸が乱れる。
どうすればいい。俺は。俺は……。
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