第23話 ありがと
甲高い電子音に鼓膜を叩かれて目を覚ました。二度寝の終わり。眠り過ぎたせいか全身が怠い。
ふらふら上体を起こして時刻を確認。正午を少し回ったくらいで、半日放置された胃袋が空腹を訴えてくる。
「あ、起きた」
「おはよう……」
「もう昼」
以前似たようなやり取りをした記憶があるが、寝起きのせいではっきりしない。とぼとぼ洗面所まで歩いて顔を洗い、最低限人に見せられるところまで身だしなみを整える。そこからまたリビングに舞い戻って、
「さっきの音ってなんだったの?」
「レンジ。気づいたんだ」
ラフな部屋着に身を包んだ字城が、ダイニングに食器を並べている。調子はすっかり元通りといった具合で、昨晩の面影はない。それならよかったと、貸してもらった彼女の父親のジャージを脱ぎ、昨日の制服を着直す。毛布はどう扱うかわからなかったが、一応畳んでおくことにした。
「お腹減ってそうだし、できたら起こそうと思ってた」
よくよく嗅覚を研ぎ澄ますと、なにやらいい匂いがしている。起床直後に空腹を感じたのはこれと無関係ではないのだろう。
「出前頼んだから、昨日のぶんの夕飯残ってて。鶏肉? に色々味付けしたやつ。私は結構好き」
「あ、うまそ」
「今回もたぶんおいしいと思う。ハウスキーパーのおばさん、料理上手だから。……冷凍とインスタントばっかで、味気ないかもだけど」
「ご飯食べさせてもらえる時点で神様みたいなもんだよ」
休日の昼食は基本自作だ。それを思えば、誰かに用意してもらえている時点で百点満点言うことなし。それに、お世辞でもなんでもなく料理はおいしそうだった。
「いただいても?」
「冷めないうちにね」
それじゃあ早速。起き抜けの中途半端な握力で箸を掴み、一口。濃いめの味付けは俺好みで、食欲が強めに煽られる。しょうゆベースだろうか。
朝食と昼食を兼ねた食事をのんびり進めながら、思い出すのはやはり今朝のこと。どうして字城が隣で寝ていたかは明らかになっておらず、俺自身深く追及するつもりもないが、だからといって気にならないわけじゃない。どれだけ寝ぼけても、普通ああはならないだろうから。
探りを入れるように、さりげなく対面の字城へ視線を向ける。彼女は至って普通に食事をしていて、今朝どころか昨日のことすら夢だったのではと勘繰ってしまいそうだ。平常心を取り戻してから振り返るとじたばた暴れたくなるような記憶は思春期なら誰でも持っているものと思うが、やはりそこらへん、彼女は一風変わっているのかもしれない。……まさか思春期未到来なんてことはないだろうな?
「……覚えようかな、料理」
字城がぽつりとこぼした。彼女は左手の箸で味噌汁をくるくるかき混ぜながら、
「インスタントも便利だけど、なにか作れて困ることもないし」
「ちなみに料理経験ってどのレベル?」
「包丁は猫の手」
「ひらがな覚えたてってところかぁ……」
「あと、あれ。熱した油に水かけたら危ない」
「画数少な目の漢字なら書けるくらいかぁ……」
「……言うけど、森谷はできるの?」
「男子平均よりちょい上程度じゃないかな。野菜炒めとか、チャーハンとか、レパートリーはそういうメジャーなのばっかりだけど」
「私より上じゃん……」
会話しながら、思うことが一つ。
「せめて一品くらいは得意料理欲しい。私も」
「カップ麺にお湯注げれば立派な得意料理だよ」
「さすがになめすぎ」
目が合わない。異常なまでに。字城の顔はこっちを向いているが、目線が散らかっている感じがする。これまでは驚くほど真っすぐ瞳を見つめて話すタイプだったから、目を逸らすのは俺の方だったのに。……でも、なんか安心。それが非常に人間味あふれる行動に思えたから。字城だって人並みに照れて恥じらう女の子だということを知っているつもりでも、自分の身で経験できるかどうかで理解度は段違いだ。
動揺しているんだと思う。意図的か無意識かにかかわらず、俺の横で眠りこけてしまったという事実は変わらない。彼女の胸の内で渦巻く疑問の種類まではうかがい知れないものの、自身の行動を再三振り返っているのだけは確かだ。……だとすると、今は俺が一度も目を覚ますことなく昼までぐっすりだったか気になっているのではないか。
「包丁で指切ったりコンロで火傷したりしたらまずくない?」
「そこまでドジじゃないし」
「まあ、手先の器用さはなんにでも通じるか。……ところで」
話題転換。
「ずいぶん長く寝ちゃったけど、いびきとかうるさくなかった? 寝相はいい方なんだけど、寝言やいびきは自分じゃわかんなくて」
「…………!」
字城が目を見開いたのを目ざとく察知。これで少しは安心してもらえただろう。俺はなにも知らないし、知っていたとしても忘れる。それが両者のためになる。
「なかったと思う」
「そっか。ならよかった」
この話は以上。その後は昨日のように食器を洗って片付けた。連休初日の昼下がり、時間がゆっくり流れる感覚を味わえるのは、おそらく今ぐらい。休みも終盤になると焦燥感ばかりで、それが大型連休最大の欠点といえる。
もう用事らしい用事はなくなった。字城が見せた脆さも、現在はある程度安定している。帰りを告げても泣きつかれることはなさそうだ。
俺は、それを承知の上で、
「腹ごなしにちょっとだけ勉強しとく?」
「散歩とかじゃないの、普通」
「出不精だから」
「……じゃあ、やる」
さっきまで食事をしていたダイニングテーブルに、今度は勉強道具がずらりと並んだ。元はと言えばこのために家まで訪ねたはずで、いつの間にか初志を忘れ去っている。それはちょっといただけないから、最後に気を引き締めておきたい。……それからざっと一時間ほどを数学の解説に費し、残りの休日の自習に生きるよう誘導しておく。字城はもう言われなくても自学自習に励むだろうから、せめてその助けになるよう取り計らう。
これ以上長居するつもりはない。うちの過保護な両親にあまり心配をかけられないし、このままだとまた夕飯をご馳走になってしまいかねないから。……厳しいが、字城はどうしても孤独に耐える必要がある。家族じゃないと埋められない隙間というものは絶対に存在して、俺が変に介入を続けることでその穴が余計に広がるのが怖い。野良猫への餌付けは一見心優しい行為のようで、その実苦しい野生環境に抜け穴があることを教えてしまう悪魔の所業。責任を取って飼えるならなんの文句もありはしないが、大抵そうはいかないものだ。
同様に、俺は字城の人生に対し、なんの責任も負えない。なら、やたらめったら手出し口出しするべきじゃない。向こうが俺を頼ってくれるなら、適正な距離感はこちらで測るべき。
「その調子でいけばきっと大丈夫。レベルアップした状態でまた今度」
切り上げる。言うだけ言って荷物をまとめ、足早に玄関へ。
「じゃあね。色々お世話になりました」
「……あ、ちょっと」
一目散に逃げだそうとした俺の袖が、再び掴まれた。……だが、今回はなにを言われても鋼の意思を貫くのだ。そう決意を新たに誓っていると――
「なんか、ごめん。いっぱい迷惑かけちゃった。……こういうの初めてだから、どうすればいいかわかんなくて」
「生きてりゃ誰でも人に負担かけるもんだよ。俺はなんとも思ってないから、謝るのはなしね」
「…………」
字城はわずかに眉根を寄せて、「なんとも……」と復唱。その行為にどんな意味があったかは推し量れずじまい。
「……ねえ、森谷」
「うん?」
「連絡先、教えて。暇なときに邪魔する」
「目的が邪悪だな……」
そういえば、今の今まであらゆることを口頭連絡で済ませていたせいもあって、彼女のLINEも電話番号もメールアドレスも知らない。そもそもこういうのって男から聞くとどうしても下心が滲みだすものだから、一生知ることはないと思っていた。
「……ん」
交換成功。試しに「初めまして」のメッセージ。
「初対面じゃないのに」
「こういうのは形が大事なんだって。……まあ、連休中は用事ないからいつでも邪魔してどうぞ」
「……うん」
字城は液晶とにらめっこしながら、
「あと、もう一個」
「なに?」
「……寂しいとき、電話してもいい?」
「…………」
先ほど立てた鉄の誓い。適正な距離感がどうの、野良猫の餌付けがこうの。それを振り返ると、過干渉は俺が諫めないとならないことで。孤独を俺で埋めるのは、喜ばしいこととは思えなくて。
「うん。大丈夫」
「……ありがと」
だけど、やっぱり放ってはおけない。理屈と感情とを完全に切り分けられるほど、俺は優秀じゃない。字城は思ったよりずっと寂しがりやで、それを我が身で知ってしまったからには、見捨てるなんて選択は取れなかった。
――ああ、ほんと馬鹿だな俺。やってることが支離滅裂だ。一貫性の欠片もありやしない。
でも。
「ありがとね、森谷」
字城は首をわずかに傾けながらはにかむ。その笑顔があんまり綺麗で、ほんの一瞬とはいえど、これが失われるくらいだったら天才性を損なう方がいくらかマシだと思ってしまった。とんだダブルスタンダードで、俺は自分の立ち位置をずっと見失ったままさまよっている。……なにがしたくて、どうして欲しいか。そういう小難しい思考をあっさり吹き飛ばすくらいのパワーが字城の笑顔には備わっていた。
「じゃあ、また」
「うん。ばいばい」
マンションを離れてしばらく経ったところで、「ふぅ……」と空を見上げる。俺、いつの間にかすっかりあの子の色に染め上げられてやいないだろうか。
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