第20話 悪あがき
空っぽになったアイスクリームの容器がテーブルの端に寄せられている。その他にも、お菓子の包み紙がところどころに散乱中。普段ならこういうのはさっさとゴミ箱に捨てたくなってしまう俺だけど、今はそうにもいかない事情があった。
「本当に座ってるだけでいいの?」
「いいよ。多少動くくらいなら問題なし」
彼女が勧めてくれたデザートをあらかた食し終え、時間も時間だから別れを告げようと画策していたとき。おもむろにダイニングから椅子を引っ張り出してきた字城はこう言った。
「森谷、ちょっとここ座って」
「ん?」
「試したいことあるから」
なんだろうなと訝りつつも、拒否する明確な理由を持たなかったので素直に従う。「そう、その感じ」字城はいつの間にかソファの上で三角座りしていて、その太ももにはノートが載せられていた。よくよく見ればそれは俺が自習用に使っている帳面だったわけだが、女子の脚をじろじろ眺めていた余罪を追及されそうで口にできずじまい。
それから、しばしの沈黙。その間も字城の手だけは絶え間なく動き続けていて、ノートになにかを書き込んでいた。
「記念スケッチ」
「……もしかして俺、モチーフにされてる?」
「嫌?」
「嫌というか……」
身に余るというか。彼女からすれば大した行いではないのかもしれないが、俺視点では一大事。言われた途端に背筋が伸びて、緊張感で心拍数が上がる。
「最近描いてなかったし、リハビリ」
「なるほど、リハビリ」
ならばそこまで重たく捉えなくてもいいのかもしれない。筆を慣らそうとして、たまたま近くに俺がいただけだと思えば。……だが、そこを割り切れたとしても立ちはだかる課題がもう一つ。
「……なに?」
「あはは、七五三の撮影思い出すなあって……」
嘘だった。真正面で向かい合うと字城の透明な瞳に吸い込まれてしまいそうな錯覚があって、照れくさいのだ。あまり意識しないようにしてきたが、密室で女の子と二人きりというシチュエーションの中、無心でいる方が無理筋。それもついさっき、字城がつくづく美少女なんだと再確認してしまったばかりだというのだから、タイミングがよろしくない。
絶妙に目の焦点をぼかし、見つめ合うことがないよう工夫する。字城は今、久々の絵を楽しんでいるんだ。
と、ここで。
一つの疑問が降って湧いた。
「字城さんって、絵ぇ描くの好き?」
「……なに、いきなり」
「ああいや、気にしたことなかったなと思って」
上手いからって好いているとは限らない。野球が好きじゃないと言って引退したメジャーリーガーの話をどこかで聞いたこともある。俺はこれまで自然と彼女が好きで絵に勤しんでいるものだと考えていたが、単に人よりできるからやっているだけという可能性が残っていた。
「好き……。どうだろ。考えたことない」
「得意だから続けてきた、とか?」
「こう言うと嫌味っぽいけど」
字城は俯き、手を動かしたまま、
「私、絵が得意って思ったことないよ。一回も」
「…………マジ?」
「そう思って満足してたらとっくにやめてる。……ただ、納得いかないから続けてるだけ」
首を傾げつつ、ノートに描きこんだ絵の出来を確かめる字城。彼女は、そこから続けて、
「森谷は私のことすごいすごいって褒めてくれるけど、私よりもすごい人はたくさんいるから。……それ、全部追い抜かさないと気が済まない」
さらっと放たれる、とてつもなく意識の高い発言。俺はここで、彼女の視野の広さを知った。現状に満足も納得もせず、走り続けるその姿勢を端的に言い表すならば――
「超負けず嫌いだよね、字城さん」
「負けが好きなやつ、いないでしょ」
「言えてる」
勉強に一生懸命になっているのもきっと、負けず嫌いだからだ。妥協して、自分に負けるのがたまらなく許せなかったのだと思う。……なんか、二人っきりとか言ってそわそわしていた俺が馬鹿らしく感じられてきた。彼女の精神はどこまで行っても触れられないほど高潔なのに、俺の考えだけが俗っぽくてかっこ悪い。
姿勢を正す。どうせなら、描きやすいモチーフでいたい。彼女は、好き嫌いを超越した次元で戦っているのだから。
********************
本当に、どうしちゃったんだろうか。自分を全然うまく操縦できない。夜はもうだいぶ深まってきているから、森谷には帰ってもらわないといけないのに。
でも、もう少し、あとほんのちょっとだけ、誰かと一緒にいたい気分だった。話したいことがあるわけでも大事な用があるわけでもなくて、ただ近くに人の温もりを感じていたかった。
ずっと当たり前だったひとりぼっちが、今日だけはとても寂しいことに思えてしまう。きっと、森谷が色々言ってきたせいだ。紛らわせて誤魔化してきた人恋しさが急に心の底からふつふつ沸いてくる気配があって、苦しい。
怖い。一人になるのが、すごく。一人で居続けるのは楽だけど、二人から一人になるのであれば話は変わってくる。中途半端に孤独の和らげ方を知ってしまったら、もう元には戻れない気がする。
きっと、今日の夜はいつもよりずっと長い。何度目を開いても朝が近づいてこない嫌な感覚を、延々味わわされる羽目になる。
それが嫌で、怖くて怖くてたまらないから、帰りを見据えてそわそわしだした森谷の袖を掴んだ。
「……かえ――」
帰らないで。怖いから、寂しいから、もうしばらくここにいて。……なんて、そんなことを素直に言えたら苦労しない。
「――るの?」
もちろん、心の中では帰らないでくれと祈っている。森谷をどうすれば長く引き留められるか考え、食べ物で釣ろうと試み、てきぱき用意するふりで今は必要ない冷蔵庫の整頓で時間稼ぎまでして。
だけど、どう頑張っても持つのはたかだか数分。アイスもお菓子も食べ終わるのは一瞬で、これがなくなるときは森谷がいなくなるときだと変な動悸が止まらない。追加でなにか持ってきても、胃袋の容量を考えたら限界はすぐだ。
だから私は、一番卑怯なやり方を使うことに決めた。
ダイニングから持ってきた椅子に森谷を座らせ、あいつのノートを勝手に借りて、了承を得ることすらせずスケッチを始める。森谷ならきっと、絵を描く私の邪魔はしない。……ならば描いている間はずっと、そこに座っていてくれるはず。
途中途中に会話があった気がするが、頭の中がごちゃごちゃしていてなんて返したのかさっぱり覚えていない。私は完成を引き延ばすのに必死で、わざと難しい顔をしながら何度も手直しを加えてみせた。
これが終わったら一人だ。明日からは連休が始まって、当分人と顔を合わせない。さすがの森谷も、休みまで付き合ってくれるほどお人よしとは思えない。
どうしよう。……どうすれば、森谷が帰る時間をもっと遅らせられるんだろう。いっそこのまま、朝まで描き続けてしまおうか。でも、それがだめなことだってくらい、私にだってわかる。散々世話になって迷惑をかけて、その挙句に椅子に何時間も縛り付けられたらたまったものじゃない。――わかってる。そんなこと、わかってるけど。
わかってるけど、寂しさに一度気づいてしまったら、もう――
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