第19話 ふたりっきりの

「箸も左持ちなんだ」

「おかしい?」

「いや、全然」


 ひと昔前と違って、利き手の矯正もずいぶん減った。それでもなお右利き前提で社会が成り立っている節はあるから、左手使いを見るとわずかにテンションが上がってしまう。

 ご馳走になっている夕飯は、俺の貧乏舌でもわかるくらい上等。そこで気にするのが字城の左利きについてなのだから、寿司も浮かばれなかろう。


「面倒も多いけどね。ほら、あのカレーすくうお玉みたいな」

「レードル?」

「あれ、ほんとに使いにくい。だからたまに両利き用見つけるとうれしい」

 

 左利きあるあるに共感は持てないが、見えないレードル相手に必死に手首を回して実演している字城の姿がおかしかった。

 彼女はわさびの風味を好まないようで、逐一ネタを持ち上げて緑色が潜んでいないか確認している。さび抜き注文のはずなのに、警戒しすぎだ。


「なんでわざわざ辛くするんだろ。そのままで美味しいのに」

「魚特有の生臭さを打ち消すためじゃない? 今適当に考えたけど」

「しょうゆで十分」


 言って、入念なチェックを終えた蒸しエビをぱくりと一口。確かに、蒸し過程を経たエビが生臭かったら困る。続いて俺も適当な白身魚を皿に取り、口に放り込んだ。うん、美味。

 こういう中身の薄い雑談に興じるのは久しい。ここのところずっと勉強漬けで余裕がなかったから、必要な息抜きだと思う。俺がいるせいで肩の力を抜けなくなっているかもしれないというのは、この際忘れておくことにした。


「……久しぶりかも。誰かとご飯食べるの」

「学校ではどうしてた?」

「教室で済ますか、美術室に行くか、そもそも食べないか。友達いないし」

「食事はちゃんと意識して摂らなきゃ。俺も字城さんも今は若いから無理できるけど、その無理のツケを払わされるのは歳食ってからの自分だし」

「最近は食べてる。……前までは授業中眠ってるだけだったから、お腹も空かなかった」

「そっか」


 逆説的に、最近は授業を受けているからカロリーを使っているとも取れる。今さら疑うまでもないが、彼女が次のテストにかける思いは本物なのだ。


「ちょっと気が早いんだけど」

 

 水を差すことになるかもしれない。そんな危惧を抱えつつも、遅くなるよりはマシだと自分を説き伏せ、問う。


「テストが上手く行って退学勧告が取り消された後のこと、考えてる?」

「……一応」

「聞かせてよ。俺で良ければ」

「笑わない?」

「笑われるような話?」

「……ちゃんと卒業できればなって。高校なんてどうでもいいと思ってたけど、ちゃんと高校生でいられる時間、今しかないみたいだし」

「ははっ」

「笑ったじゃん、やっぱり……」

「馬鹿にしたわけじゃないから許してよ。……うん、そうだね。この三年間は、人生の中でもかなり特別だと思う」


 言語化しにくい感覚を共有できたのがうれしい。この時期を終えたら、俺たちはモラトリアムの外に出なければいけないのだ。そこで問題なく生きていける能力を持った字城は特別だけれど、だからってこの時間が無価値になるわけではない。

 今になって、俺も考えを改めつつあった。彼女に勉学なんて不要だという意見こそ曲げるつもりはないが、人並みの学生生活を経験するのはアリかもしれない。友達を作って、休日は遊んで。たった一人で突き詰めなければいけない孤独な才能を持っているのだから、どこか羽を休められる場所も必要なのだ。

 字城は超人だけど、人外ではない。俺たち同様に、嫌なことを経験すれば心は摩耗していく。そして、今のままではきっと、削れた部分が元通りになることはないから。それを埋めてくれるなにかを、残りの高校生活で探していけばいい。

 無論、彼女がここまで考えて決定を下したかどうかは定かではない。単に気分の問題だったり、もしかすると裏で家族に忠言された可能性だってある。……それにしたって、決断したからには秘めたる思いは存在するはずなのだ。

 なら、俺はそれを尊ぼう。頑張れば、過去の知人Mさんくらいの位置づけで記憶しておいてもらえるかもしれないし。偉人の人生になにかしらの爪痕を残せたとしたら、こちらとしても光栄だ。


「頑張ろう。字城さんならできるよ」


 ご馳走さま。割り箸を二つに折って近くのゴミ箱に投げ入れ、グラスを片そうとキッチンへ赴く。シンクには食器がいくつか重なっていて、どうやら洗い物もハウスキーパーに一任しているらしい。

 お節介かとも思ったが、時期が時期だけに虫が湧きそうで怖い。コバエがこんないい家に住むのは納得いかなかったから、洗剤とスポンジを手にした。


「いいよそんなの。やらなくて」

「ちょっと勉強みただけであんないいものご馳走になるのは割に合わないって」

「ちょっとじゃないのに。……私がやるから森谷はリビングでテレビでも見てなよ」

「せっかく綺麗な手なのに肌荒れしたらもったいないだろ」


 彼女にとっては代えの効かない商売道具であるはず。俺には理解できない微細なレベルでの誤差が生まれてもまずいし、それに、この手の雑用は慣れっこだ。


「洗い物は家だと俺の仕事だから、慣れてるやつに任せときなよ」

「…………ん」


 字城が俯いたまま硬直したのをいいことに、せっせと片付けてしまう。我ながらなかなか手際がよく、やはり普段から触れておくのが大事なんだなと実感。……高級そうな食器を長いこと水浸しにし続けたくなかったというのは置いといて。


「さて」


 ――これからどうしようか。勢い勇んで夕飯までご馳走になってしまったが、後のことなんてまったく考えていない。……個人的には、もう少し残って話していきたい気持ちはあるけれども。

 とにもかくにも時間を確認せねば。そう思って、時計が見える場所まで動こうとした瞬間だった。


「……帰るの?」


 固まったままだと思っていた字城が、俺の袖口をきゅっと掴んでいる。もの言いたげに口許は動いているが、言葉にはならないようだった。……普段は気高い虎やライオンを思わせるオーラがあるのに、今に限っては飼いならされた家猫っぽさがある。

 なんというか、かなり女の子って感じだ。


「いや、時計見ようと思って」

「冷凍庫、ハーゲンダッツあるけど」

「…………?」

「どうせならデザートまで食べて行きなよ」


 ほう。それはなかなかに魅力的提案。日頃そうそうありつけるものではない。

 だが、それ以上に……。


「他にも宅配便で届いたフルーツとかよくわかんないおつまみとかいっぱいあるし、誰かいるときに消化しときたい」

「お、おお……」


 字城から、今までにない圧を感じる。……えっと、つまりこれは。俺の勘違いでなければ、「もうちょっと残ってろ」って解釈で合っているだろうか。


「食べてくでしょ?」

「……じゃあ、お言葉に甘えて」

「……ん。用意するから、リビングで待ってて」


 ふわふわした心地で、それよりもふわふわしたソファに腰を据える。向こうでは字城があれこれ忙しなく用意を進めており、手伝いを申し出た方がいいよなあと思案。

 だが。


(今の……)


 袖をくいっと引き寄せられる感覚が未だ鮮明に残っている。俺は袖と手首とを交互に見比べ、今の……今の……と頭の中で何度も反芻。


(やばいな、破壊力)


 自宅にいるという気の緩みがガードまでも緩くしてしまっているのだろうか。今日の字城とわはこれまでにないほど女の子で、有り体に言えばめちゃくちゃかわいかった。……下着姿に遭遇してしまったときよりずっと気まずいのは、なんでだろう。

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