第17話 嫌な静寂

「入って。散らかってるけど」

「お、おじゃましまーす……」


 借りてきた子猫。そんなたとえが思い浮かんだ。まさしく今の俺がその状態だからだ。

 字城に促されるまま、幅広の玄関通路を通ってリビングまで歩く。そこかしこに一般庶民とは縁のない高級感あふれる調度品が並んでいて、ただ息を吸うだけで肝が冷える。

 散らかっているというのは謙遜ではなくそのままの意味だったようで、脱ぎ捨てられた洋服だったりなにかのチラシだったりが足の踏み場を減らしている。高級感との不自然なコントラストに、頭がなかなか追い付いてこない。


 ここはどこだ? 答えは簡単。字城の家だ。


「どこも早帰りだから勉強場所見つけるの大変かもね。ファミレスは混んでるだろうし、図書館はそもそも声出し厳禁だし」

「あるよ、人がいなくて静かなとこ」


 それは重畳。場所探しに困った折に投じられた字城からのアンサーに、俺は一も二もなく飛びついた。その結果連れてこられたのは、駅からほど近い豪奢なマンション。悪い予感に背中を冷や汗で濡らす俺をよそに、「ここ」と指をさす字城。


「もしかして……?」

「家。私の」


 さすがにそれはまずいんじゃないか? その一言が言えないまま、とんとん拍子で室内まで案内されて今に至る。相変わらず冷や汗はだらだらで、実を言うとちょっと吐きそう。

 

「座れば?」

「ああ、うん……」


 そう言って座ったソファの沈み具合も高級品のそれで、普通にくつろいでいる字城が一気にお嬢様に見えてくる。……いや、これまで断片的に拾い上げてきた情報から鑑みるに彼女の両親が資産家なのはわかっていたし、そもそも彼女自身が相当稼いでいるのは公然の事実なのだけども、いざこの身で感じるとなるとまた別種の感慨があるのだ。


 そんなガチゴチの俺を尻目に、字城はキッチンの方に向かって、


「ミネラルウォーター、緑茶、あとワイン? これくらいしかないけど、なに飲む?」

「未成年飲酒する勇気はないからお茶で」


 直後、目の前にお出しされる飲み物。グラスからして安物でないのが伝わってくるが、肝心のお茶はスーパーで買える庶民の味で落ち着いた。

 勉強を教えにやってきたはずが、ゲストとしてもてなされている。これいかに。


「んー、書きにくい。やっぱりダイニング来て」


 よく沈むソファと背の低いガラステーブルという組み合わせのリビングでは勉強に不向きだということで、突然の場所変更。俺はただ「うん」と従うだけの人形になりかけている。やばいな、場違い感。


「……森谷、緊張してる?」

「そりゃするって。バッドマナーなのわかっててもきょろきょろしちゃう」

「なんか意外。もっと図太いと思ってた」

「そうでもないんだなこれが」


 人の家なんかだと特に、あれこれ気を遣って思考が鈍くなる。失礼がないかとか物を壊さないかとか、考えることは多い。それも同い年の女子の家となると、事情が複雑に絡み合ってもうだめ。噂のパパ城さんが帰ってきたら、俺はなんと自己紹介すればいいんだ。


「親御さん、いつ頃帰ってくるの? それまでには退散しないと」

「秋とか」

「…………は?」

「秋。オータム。夏の次の季節」

「いやいやいや、それはさすがに……」


 冗談だろう。冗談だと言ってくれ。意外に茶目っ気のある字城だから、これはそういうジョーク……というわけではなさそうだった。

 

「パパの最近の拠点がヨーロッパで、ママもそこに付いて行ってる」


 なんてことなく言い放ち、字城はテキストとノートを広げている。彼女にとって、両親が近くにいないのはそれほど変わったことでもないらしい。


「じゃあ、家事は全部自分一人で?」

「毎週月曜にハウスキーパーのおばさんが来るから、その人任せ。ご飯も一週間分作って冷凍してもらう」


 今日は木曜。部屋が絶妙に散らかっているのは、掃除から少し経っているから。……だめだ。これまで散々暮らす世界の違いに思いを馳せて来たものの、今回ばかりは理解できそうにない。いくらなんでも歩み寄れない。


「いいから始めよ。せっかく来てもらったんだし」

「うん……」


 すっかり気分が沈んでしまったが、彼女のやる気に水はさせない。だからぽつりぽつりと、数学の解説をこぼしていく。テスト範囲を網羅するのは骨が折れるから、特に配点の大きそうな分野に絞ってその箇所の基礎知識を補強。目指すのは満点ではなく赤点回避。どう漏らさないか考える自分のテスト対策と違って、どこから的確に掬っていくかを考えるのが字城に最適化したメソッド。

 だが、どうしても集中しきれなかった。字城は本気なのに、俺だけ別のことが気になってしまって。


「森谷の親ってどんな人?」


 そんな俺の様子に気付いてか、字城から質問が飛んでくる。これまで、身の上話に時間を使ってきてはいない。だから俺は字城の家族構成も良く知らないし、その逆で、字城も俺のことを知らない。


「どんなって言われたら困るくらい、普通の人だよ。両親とも会社勤めで、毎日くたくたで帰ってきて、小言が結構うるさくて」


 それでも欠かさず手作りのお弁当を持たせてくれるし、まとまった休みが取れたら家族サービスと題して旅行に連れていってもらえる。普通のようで普通じゃない、どこにでもいるようで代えの効かない、自慢の両親。……だが、今の字城の話を聞いた後では、とてもそんなことを口にできそうにはなくて。


「そっか。いいね」


 いいねっていうのは、絶対にそんな寂しそうな顔で言っていい言葉じゃない。


 ほんの少し持ち上がった口角に、今にも閉じられそうな目元。虚しさをひしひし伝える表情の中に、彼女の思う普通と俺の思う普通がまるで違うものだということを知った。

 この家には、帰ってきたときにかけられる「おかえり」も、誰かに呼びかける「ただいま」もない。こんなに豪華な場所なのに、中身が空っぽすぎるのだ。そして、俺はここと同じ匂いを、雰囲気を、たった一か所だけ知っていた。――初めて訪ねた美術室には、こんな空気が満ち満ちていた。孤独や寂しさを世界に溶かしてばらまいたような、独特の空間。その中にぽつりと佇むのは、決まっていつも一人だけ。


「モデルやってたママが画家のパパに一目ぼれして、結婚して、私が生まれて。……でも、パパは夫でも父親でもなく、画家だったみたい」

「…………」


 誰にだって向き不向きはある。自身の父親は家庭に入りきれなかった人物であると、字城は伝えたいのだと思う。自分のための時間を削って家族に尽くし、支える。世間で持て囃される一般的な父親のロールモデルには適さなかったと。


「いつからか海外に行くようになって、気づいたときには日本にいる時間の方が短くなってた。こっちにいると周りがうるさくて集中できないんだって。一度本気になると眠りも食べもしなくなるパパが心配で、ママは向こうに付きっきり」

「それは……」

「おかしいと思う? 私は、仕方ないと思ってる。わかるから、パパの考えも」

「でも」

 

 思考がぐちゃぐちゃにわだかまって、言葉らしい言葉が出てこない。確かに字城には芸術家としての視座が備わっている。そこから俯瞰すると、父親の思いに共感できる部分もあるのだろう。……でも、君は芸術家である前に、未成年の女の子じゃないか。なら家族愛とか、一家団欒とか、両親からの温もりとか、絶対、必要なはずで。

 だけど、俺は言えない。だって、これまでずっと、彼女のことをアーティストとして称えてきた。そういう接し方で、そんな触れ合い方で、ここまでやってきた。普通の高校生としての側面を見つけ、それを伝えもしたけれど、やはりどこかに『側面』であるという凝り固まった思考が横たわっている。字城の根幹部は、天才肌の芸術家。そこから伸びる枝葉を指差し、「こんな一面もあるんだ」と言ってきたにすぎない。

 

「……でも、嫌だよ。笑ってできない家族の話なんてのは、嘘だ」


 言えないのに、言ってしまった。言える立場になんかなくて、持っている側のご高説に重みがないと知っていて、それでも口にしてしまった。俺の家族観が正しいものだという証明も、彼女の家族観が間違っているという保証もない。……だけど、ここで流されて肯定してしまったら俺が俺じゃないなにかへと変質しそうで怖かった。俺が俺であるために、必要な儀礼だったのだ。


「寂しいなら寂しいって、辛いなら辛いって、ちゃんと訴えないと。……諦めないで足掻けるのは、若者の数少ない特権なんだから」


 俺の余計なお節介に、字城はしばし沈黙する。追い出されるのを覚悟しながら、カチカチ音を立てる時計の秒針に耳を澄ます。

 

「……でも、いないじゃん。聞いてくれる人、どこにも」

「俺が!」


 ついつい荒らげてしまった声に、字城の肩が上下した。ボリュームを再調整しようとしたものの上手くいかなくて、結局似たような強い口調で続けてしまう。


「俺がいるだろ、今は。愚痴とか嫌なこととかは、こういうときに全部吐き出すべきなんだ」


 別に、ちょっと頼ってもらえるようになったくらいで思い上がったわけじゃない。自分の身の程はよく弁えているつもりで、だからこれがいけないことなのも理解している。


 だが、いくらなんでもその言い分は寂しすぎるだろう。


 たまたまでもいい。偶然でもいい。事実がなんであれ、今はどうでもいい。肝心なのは現在進行形で、字城とわの隣に都合よく俺が座っているということ。なら、存分に利用するべきなんじゃないのか。


 それとも、そんなことすらわからなくなるくらい、彼女の孤独は深刻だとでもいうのか。


「俺みたいな部外者にどうこうできる話じゃないけど、それでも話くらいは聞けるから……」


 字城の感性を研ぎ澄ましてきたのが深く暗い孤独だったのだとしたら、俺はもう、手放しで彼女の作品を称賛できなくなってしまう。知らなければよかった。知らなければ引き返せた。だが、知ってしまった以上、目を逸らすことなんてできない。

 字城とわという天才芸術家には、学業も家族も不要なのかもしれない。そういうノイズが、彼女の才能を濁らせていくのかもしれない。――だが、ただでさえ余人の理解を得られない彼女の傍に家族すらいないのは、悲しすぎる。乾いた器は、いつかきっとひび割れてしまう。


「……人がいなくて、静かなんだ」


 ぽつり。字城がこぼす。それは奇しくも、彼女は俺をこの家まで招いたときの口上と同じで。


「一人は嫌いじゃない。別に。……だけど」


 たまに、寂しい。


 俯き加減で、囁き声で、絞り出すように言った。その言葉になぜかこちらの方が泣きそうになってしまって、思わず天井を見上げる。俺の乏しい人生経験では、彼女にかけてあげられる気の利いた言葉なんか思い浮かばない。だが、こうして家にいることでその寂しさが多少なりとも緩和されることを祈り、勉強に戻った。

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