第16話 一歩ずつ

 やはり、たどり着くのはこの場所なのだ。旧校舎の外れ、鍵のかかった美術室。そのドアに背中を預けて立ち尽くす少女が一人。

 憂いを帯びた表情は、同い年だと信じられないくらい大人びていた。長いまつ毛、すっと通った鼻梁、その他あらゆる美人の必要条件を満たした容姿を目にするたび、彼女のようなモチーフが過去の芸術家を奮起させてきたのかもしれないと錯覚させるほどだ。あるいは、「美しい」という感性が彼女の後追いで誕生したのではないかとさえ。


 全校放送が生徒の即時下校を促している。しかし彼女はそれを気にする素振りもなく、淡々と手元のテキストを読み込んでいた。垂れた前髪を指先ではらい、紙面を撫で、なにを言うでもなく黙々と。まるで彼女の周りだけ時間の進みが遅くなっているようで、近づくことすらためらわれる。人間、壊してはいけないものを本能的に理解しているらしい。


 だが。


「さっさと帰れってさ」


 暗黙の了解を土足で踏みにじるのは俺の得意分野。意を決して話しかけると、伏せられたその目がゆっくりこちらに向く。


「……森谷も帰ってないじゃん」

「痛いとこついてくるな……」


 指示を無視しているのは俺も同じこと。間もなく物理的な締め出しが始まるだろうから、教師に目くじらを立てられる前には退散したい。だが、引きずって外に出すのも違う気がして、彼女の横に並んだ。ドアに寄りかかり、その体勢で教科書を眺める。


「どこか疑問?」

「例文、暗記してるとこ。その方が便利そうだから」

「いいね。雛形があると応用が利く」

「…………」


 腕を組んでしばらくここに居座る覚悟を固めた俺を、字城は横目で怪訝そうに見てきた。いかにも「なんだこいつ」と言いたげで、俺自身、なにやってんだ自分はと言いたい気分。近寄るならせめて、なにを話すか決めてからにするべきだったと遅まきの反省に耽る。


「なんで来たの、森谷」

「あー……。一人の気分だった?」

「違くて。純粋に、どうして来たのか聞いてる」


 空気を読み違えたかと青ざめるも、責めるつもりはなかったらしい。どうしてと言われたら、そりゃあ――


「――どうしてだろうね?」

「私に聞かないでよ」

「その通りなんだけど、いざなんでってなると困るな。こっち側に歩いて行く字城さんを見かけて、なら俺も行かなくちゃと」

「見かけなかったらそのまま帰ってたんじゃん」

「そこ突かれるとなにも言えない。……ただ、さすがに今日もここに集まるなんて考えてなかったから」


 深く干渉しすぎるのは厳禁だという思いが俺にはあった。半ドンの午後も、連休も、ただの放課後とは違うプライベート。あくまで俺が関わるのは学校という範囲にとどめておきたい。幸運にも字城にはやる気があって、それに付いてくる能力もあった。なにかを成し遂げるノウハウは確実に持っている子だから、私生活にまで俺が顔を出してもウザいだけだ。


「……別に、私もすぐ帰るよ。ただ、森谷が待ちぼうけになってたらかわいそうだと思って」

「俺のことなんか気にしなくていいのに」

「森谷はそうでも、私は気になる。……感謝してるから、ちゃんと」


 そっぽを向いて、字城は言った。その言葉にしばし呆けてしまって、俺は相槌の一つも打てない。


「毎日何時間も手伝ってもらってるんだから、参加賞止まりはやだ。やるなら精一杯行けるところまで」

「…………」

「でも、まだまだ不安で曖昧なことばっかり。だからなんとなく来た」


 なんとなくって。それだと、俺が待ちぼうけどうこうと噛み合わないだろうに。

 

 ただ。


「字城さん、今日の放課後って予定ある?」

「ないけど」

「――じゃあ」


 もう少し、踏み込んでもいいのかもしれない。当初想定していたよりも彼女の懐は深くて、人間味があって。俺が手を伸ばしたら、きちんと掴んでくれそうな気がしたから。


「校外で場所見つけて、いつもの続きしようか。……もちろん、嫌ならいいんだけど」

「……森谷は」

「ん?」

「森谷はいいの? 私の面倒ばっかりみて、自分の時間全然ないでしょ」

「好きでやってる。誰かに世話焼くのがライフワークだから」


 それにどうせ、字城の件がなければ別の仕事を押し付けられている。そうなるくらいだったら、尊敬できる人間のために率先して身を捧げた方がいい。……ここで鞘戸の顔が浮かんでくるのは、俺は決して聖人などではないぞという自己への戒めなのだろう。

 だが、俺の助力で字城の不安が少しでも軽くなるというなら、多少の不自由なんて無視していられる。俺の人生は、そういう用途に使いたいのだ。それに、字城の心遣いが温かかった。手伝ってもらって当然、助けてもらって当然という態度を取る相手なら、俺の接し方も今のままとはいかない。


「……ありがと。じゃあ、お願い」

「任されました」


 彼女が学校にかける思いは、日増しに大きくなってきたように感じる。勉強なんてどうでもいい。退学なんて気にしない。初期に感じたそれらの雰囲気は、いつの間にか霧消している。むしろ今は、学生の身分に相当なこだわりをもっているようにすら感じられて。

 なら、捨てさせるわけにはいかないだろう。ここで彼女の人生が屈折するようなことがあってはならない。まっすぐ前を見る。その姿勢を否定させやしない。


「出よう」

 

 校舎にはもう、人の気配なんてさっぱりしない。おそらく俺たち二人が最後まで居残った生徒だ。言うと、「うん」と頷いて、字城が俺の一歩後ろに続く。横に並べばいいのにと振り向いたら「見ないで」と手提げカバンで叩かれた。え、なんで?


********************


「見ないで」

 

 よくわかんないけど、顔が熱い。誰かに、特に森谷にだけは、どうしても見られたくない。


 来てくれるなんて思ってなかった。だけど、私はこれまで何度となく繰り返してきた失敗と同じように、裏切られて当たり前のうっすらした期待を抱いて美術室まで来てしまった。こんな日まで面倒を見る義理も義務も、あいつにはない。だけど心のどこかに芽生えたもしかしたらの思いを殺し切ることはできなくて。


 だけど、予想に反し、期待に沿って、森谷は現れた。


 ――熱い。顔とか、お腹とか、他にも色々。これがどういう理屈なのか物知りのあいつに聞きたかったけれど、なんでかそれはできなかった。


 本当に、なんでだろう。

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