第7話 放課後の一幕

 距離が近づいてきた気がするのは、果たして俺の思い上がりだろうか。先日二人で動画を眺めて以降、字城の態度が少し砕けたものになった気がしてならない。。多少は信用しても大丈夫な相手と思ってもらえたのなら、素直にうれしい。


「森谷、利き手どっち?」

「見ての通り右」

「じゃ、左で文字書ける?」


 問われて、あまり俺をなめるんじゃないよと黒板に近寄ってチョークを持つ。自信満々に『あいうえお』と記入すると、「昔のエジプトとかにありそう」なんて笑われてしまった。否定したいが、俺の目から見ても象形文字の親戚だったので、「じゃあ字城さんは?」とチョークを託す運びになる。


「私、左利きだから」

「知ってる。何回か見てるし」


 脱線するが、左利きというとそれだけで天才っぽい。日常生活において不便は多そうだけども、それを踏まえてもかっこよさが勝る。俺が見た限り字城はずっと左で絵を描いていて、慣れとか手癖とかを考えれば、右は使い物にならなそう。しかしながら、彼女はそんな俺の推測を軽々乗り越えるのだ。


「うわ、すご。普通そんな上手くいかなくない?」

「ちっちゃい子どもが描く絵、あるじゃん。下手なんだけど、真似しようと思ってもできないやつ。あれ、きっとペンを使ってきた慣れとか、筋肉のつき方が関わってると思うんだ」


 そう言いながらも、彼女は本来使い慣れていないはずの右手で、黒板にさらさらと花畑の絵を描きこんでいく。さすがに左と比べれば劣るのだろうが、俺があそこまでやろうと思ったら一生かかる。一体どういうからくりなんだと、彼女の言葉が続くのを待った。


「そういう拙さ、わざと演出できたら面白そうって思って。中学くらいからこっそり練習してた」

「もう無理じゃない? ちょっと上手くなりすぎてるよそれ」

「えー、線がたがたしてて気持ち悪いじゃん」

「俺基準じゃとっくに名画だって」


 そこらへんに転がっていた親指の爪くらいまで使いこまれたチョークを手に、再度参戦。贅沢にも字城の絵の隣を陣取って、俺でも描けるシンプルなチューリップを付け足す。


「世界観違うなこれ」

「下手っぴ」

「容赦ね~~~!」


 悔しいので、見よう見まねで字城っぽく陰影をつける。だが、とってつけたやり口では違和感が生まれるだけで、馴染むことはなかった。そもそも、張り合っても仕方ない。俺が字城を負かそうと思ったらペーパーテストという土俵に引きずり込むのが一番だ。


「そういえば、字城さんっていつから本気で絵ぇ描くようになったの?」


 素朴な疑問だ。もちろん昨日今日の技術でないことは明らかだが、どんなことにも始まりがある。少しずつ字城とわという個人に興味が湧きつつあるので、ここいらで聞いておいても損はないだろう。


「いつ……って言われても。気づいたときには紙とペンがあったから」

「めっちゃかっこいいなそれ。俺も今度使っていい?」

「森谷は絵描かないでしょ」

「いや、勉強について聞かれたとき。物心ついたときには学徒としての心構えがついてたことにしたい」

「森谷、勉強できるけどばかだね」


 口調に棘はない。俺もそのことには自覚的なので、すんなり受け入れられた。すると、字城は「なんて」と付け足し、


「私、パパが画家だから。たぶん、そうするように仕組まれたんだと思う」

「初耳。ってかパパ呼びが意外」

「ていっ」

「あだっ!」


 チョークが眉間に直撃(ダジャレではない)。投擲は左だったので、マジで当てに来たらしい。ダーツ投げだったから、リアクションほど痛みはないけど。


「……美術業界に疎すぎて申し訳ないんだけど、パパ城さんも有名人だったりする?」

「なにそれ」

「字城さんのお父さん、だと長ったらしくて語呂も悪い」

「有名……なんじゃない? 私の絵が取り上げられ始めたときだって、字城二世として扱われてたし。未だにそういう評価の人もいるから」

「マジか」


 勝手な物言いで申し訳ないが、芸術家というのは死後にその価値と評価を高めるものだと思っている。実際、過去の美術家の名前は何人か思いつくが、現代美術の有名人となると街中に落書きをするあの人くらいしかぱっと思い浮かばない。音楽家もまたしかりで、評価が熟すにはそれなりの時間が必要な気がする。……まあ、それを自分の知識が浅いことの免罪符にするつもりもないが。


「しかし、それならなおさらすごいんじゃない? 偉大な親を持っているっていう世間のプレッシャーに、字城さんは全然屈してないし」

「別に、なに言われても描くだけだし」

「そういうとこそういうとこ」


 芸術家には、求道者としての側面もあるのだと思う。どこまで突き詰め、どこまで研ぎ澄ますか。素人からしたら無駄に思える途方もないこだわりの果てに、作品を残すのだ。字城からは、どこかそういう気迫を感じる。黙々とキャンバスに向かい合って筆を動かす彼女の横顔は、評価とか比較とかを気にしている人間のものには思えなかった。その一方でパンダを見に行けなくて気落ちしてしまう幼さも兼ね備えているものだから、すさまじいギャップについていくだけで精いっぱいだ。


「黒板の落書き一つだって全然妥協してないもんね。改善点見つけて、フィードバックして、きっとそうやって実力つけてきたんでしょ?」

「……意識してない。特には」

「無意識的に上達を求めてるんだから、やっぱすごいよ」

「森谷のよいしょ、なんか恥ずい……」

「よいしょって。素晴らしいものを素晴らしいと認める俺の美徳になんてことを」

「……まあ、受け取っとく」


 字城はチョークを利き手に持ち替え、さっきの花畑を下敷きに、器用に色をつけていった。赤、白、黄、青、カラーバリエーションがけっして豊富とはいえないチョークの品ぞろえで、それでも鮮やかに、花々を彩っていく。

 

「チョークの塗りは色ムラできるから、絶対。それがどうなるか計算しながら、染める」

「もう落書きなんて呼べなくなっちゃってるな……」


 前にも思った通り、字城は色覚が鋭いのだ。これに関しては親がすごいとか努力とか関係なく、神から賜ったギフトなのだと思う。ただ、授けた神様もまさか、ここまで上手に使いこなされるとは思っていなかっただろう。

 たった四色のチョークを何十、何百の色相に生まれ変わらせるように、字城の腕が動く。先ほどまでの緩い談笑感はいつの間にか消え失せ、目の前にあるのは例の本気の横顔。妥協を許さないその向上心が、落書きを一つの作品へと昇華させんと奮闘している。

 神秘的。そう表現するのが適当だろう。自分が間近に控えているのが申し訳なくなるくらいの迫力がそこにはあって、今の彼女が自分と同じ人間であるなどとはとても思えない。美しい。神々しい。そんな形容すら憚られるような、圧倒的存在感。


「ふぅ……」


 ようやくのこと、彼女が纏っていたひりついたオーラが霧散した。短時間とはいえその身には明らかに神が宿っていて、疲労からか額には汗がにじんでいる。だが、やりきった達成感からか表情はむしろ爽やかで、その目は生まれ落ちたばかりの我が子を慈しむかのような優しさに満ちていた。


「感想」

「ん?」

「感想、ないの? 素晴らしいものは素晴らしいって言うんでしょ」

「そうだな……」


 それは、自分が描き上げたものが他の追随を許さない素晴らしさを内包していると信じ切った発言。だが、それを傲りとは思わない。自負。誇り。そういったポジティブな活力で、彼女は動いている。もっとも、字城が謙遜なんかしたらただただ嫌味なだけなので、もっと尊大な態度を取ってもらうくらいでちょうどいいとも思う。


「額縁に飾れないのが残念だ、とだけ」

「持って帰りなよ、黒板」

「そもそもデカすぎて窓からじゃないと搬出できんよ」


 そもそも俺の部屋に入らない。もしかすると、俺の部屋を破壊してもお釣りがくるだけの価値を秘めているのかもしれないが。

 しかし、黒板の話をしたことで、一つの疑問が。いつの間にかこの場所を字城個人の根城のように捉えてしまっている自分がいるが、実際は全学生が共有するべき美術室。もちろん定期的に授業は行われるわけで、それまでには黒板をフラットな状態にしておかねばならない。


「……これ、消すの?」

「黒板の良いところでしょ。消して使い回せるの」


 なにを馬鹿なことを、みたいな顔で字城は見てくるが、そうそう簡単に割り切れるものじゃない。ほとんどの人間が、この絵が失われることに口惜しさやもったいなさを覚えること請け合いなのだ。

 俺がそんな葛藤に震えていると、字城は友人の背中を押すような軽々しい口調で「どーん」と言い放った。その手には黒板消しが握られていて、まさかと思って見ると、既に絵は台無しになっている。……うえぇ、マジかこの天才。


「せめて写真くらい撮ればいいのに……」

「やだよ、わざわざこんなのまで保存するの。三十分もあればできるんだし」

「言うことが一々かっこいいんだよな」


 同じクオリティの作品を再生産できる自負があるから、今にこだわらないでいられる。過去への拘泥を捨てることこそが天才が天才たる由縁とでも言いたげに、字城は大きなストロークで絵画だったものをぐちゃっとした粉っぽい染みに変貌させていく。けれどなぜか、描いているときよりずっと表情は楽しげだった。


「滅びのびがくーー」

「もしかして壊すの楽しんでる?」

「だって、私が作ったものを壊していいの、世界で私だけだもん」


 特別に森谷もいいよ。そう言って余っていた黒板消しを手渡してきた字城は、どこか俺がその作業に加担するのを期待しているようにも見えた。


「もったいねぇーー!」


 しかし、ものは経験。天才芸術家の作品を本人公認のもとで壊せる機会なんて、今後一生訪れない。真にもったいないことがあるとするなら、それはこの提案を固辞することだと俺は思う。


「お、やるじゃん」

「せっかくなら派手にいかないとね」


 ばっと出てぐわっと消す。やってみると爽快感は確かにあって、字城が興じたくなる理由の尻尾を掴めた気がした。


「あはは」


 チョークの粉が制服にかかるのもお構いなしに、二人がかりで黒板をまっさらな状態に戻していく。自分の身で味わって初めてわかる滅びの美学。この上なく贅沢な環境で、その経験を蓄積する。

 そういえば、初めて字城に会った日も黒板は汚れていたっけ。衝撃的な格好のせいで二の次になってしまっていたが、きっとこうやって、描いては消してを繰り返してきたのだ。字城は一年間、たったの一人で。――いいや、もしかするとそれよりもっと長い期間にわたって。


「森谷、貸して」

「どうするの?」

「クリーナーないから、ここ。窓ではたくの」


 粉ばった黒板消しをそのままにはしておけない。そうして片づけを引き受けようとする字城に、俺は言った。「俺もやるよ」つかつか窓辺に歩いて行って、閉じこもっていた空気を入れ替える。そのまま、二人横並びでチョークの粉を払い落とす。途中途中で風の反逆にあって咳き込みながら、つい先ほどまで名画の構成要素だったはずの微細な粒子をどこかに吹き飛ばしていく。


「真っ白じゃん、森谷」

「学ラン脱いどけばよかった……」

 

 風情もなにもあったものではない汚れ具合に顔を見合わせながら、どこか達成感に似た感情が胸に溢れる。字城と過ごす放課後は新鮮な色彩に満ち満ちていて、どこかそれを楽しみにして毎日登校している自分がいた。しかし、それはあくまで期間限定の輝き。彼女がこの学校から去るまでのリミットが付与されたひとときの閃光。さながら蛍の瞬きのようで、いつまでもとはいかない。


「字城さん、学校辞めた後はどうするの?」

「どうって……。絵、描くんじゃない?」

「なんかすごい賞取ってよ。夜のニュースで特集組まれるようなさ。そしたら、『同じキャンバスで描き比べしたことある』って自慢するから」

「うわ出た、ミーハー。そもそもあれ、描き比べって呼ぶの?」

「ものは言いようってわけ」


 俺が願いなんかしなくたって、確実に彼女は大成する。超絶安牌の先物取引のようでちょっぴり卑怯だが、わずかでも同じ時間を共有した人間として、相手が成功してくれるのならそれより喜ばしいことはない。


「追いかけるよ、活躍。だから追いかけやすいように個展とか開いて」

「……森谷は」

「なに?」

「ううん、やっぱなし」

「一番気になるやつじゃん」


 寸止めは勘弁。おかげでもどかしさばかりが残って、色々釈然としないまま今日は解散した。――言いたいことはすぱっと言う性格の字城にしては、ずいぶん煮え切らない反応だなんて思いながら。

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