第6話 意外な一面

 学年一位という立場に固執しているわけではない、と思う。消去法で自分に勉学しか残らなかったから、せめてそれだけはしっかり続けようと努めた結果、半自動的にその椅子に座っていた。感覚的には部活動を頑張ったりゲームを極めたりするのに近く、俺が自分の色を出そうと考えたとき、こうする以外の手段がなかったのだ。

 しかしながら、地頭が優れているわけでもなければ知能指数が特別高いわけでもない。となると、好成績の維持には日々の積み重ねを欠くことができないわけで。


「……また勉強してる」

「これくらいしかやることないんだ」

 

 放課後の美術室に通い始めて、はや一週間。意外にも、この環境に順応しつつある自分がいる。当初は字城とぎくしゃくするのも覚悟の上だったし、出会い頭に覗き魔のレッテルを張られかけ、関係の構築は絶望的だと諦めつつあった。しかしながら、続けていくとそうでもない。字城は俺が訪れるのを拒まないし、作業風景を凝視していようとお構いなしだ。他人の視線に鈍感なのか、それとも俺を空気と思い始めたのか、真偽のほどは不明。

 だが、俺の存在に一ミリの興味もないというわけではないらしい。時たま俺の傍に近寄っては「それ、どういう話」と読みかけの小説のあらすじを聞いてみたり、あるいは今のように、勉強中の俺にちょっかいをかけてきたりもする。


「ふぅん」


 美術室の端っこから、絵の具やらペンキやらで汚れてサイケデリックな色調になってしまった古机を持ち出し、参考書を広げている俺。その俺の真横に立って、英文が連なったテキストを一瞥する字城。


「うわ、英語」


 心底嫌そうに言って、顔をしかめる。字城はそのまま、「アメリカに生まれれば英語やんなくていいの、ずる」と力強く言い放ち、なんでかそのまま近くの椅子を引き寄せて、俺の隣に腰を落ち着けた。


「アメリカにも国語はあるんじゃないの? ほら、アメリカ人の国語は英語なわけだから」

「でもアメリカ人は日本語なんて覚えなくていいし、その時間が丸々浮くじゃん」

「確かに」


 深い事情は知らないが、アメリカの学校は夏休みが滅茶苦茶長いと聞く。母国語が世界共通語だというアドバンテージは大きい。それをずるいと思うかどうかは別にして。


「森谷、日本語を世界の公用語にしてよ。勉強して、偉くなって」

「んな無茶な」

「ん、さすがに嘘」

「…………」

「なに」

「いや、字城さんも冗談言うんだって驚いてる……」


 率直なお気持ち表明の直後、肩を強めに小突かれた。「怒った」「それも冗談?」「いや、本気」「参った……」それから字城はしばし口を噤んで、問題集を解く俺の手元をただじっと見つめている。俺は字城と違って、見られると集中が散るタイプだ。だから必然的にペースが落ち、この効率で続けるくらいならと、彼女に声をかけた。


「今日は気分が乗らない日?」

「なんで?」

「なんでもなにも、描いてないから」


 珍しく、絵を描くセッティングすらされていなかった。いつもだったら教室の中央に画材を集めてすぐにでも創作を始められる体勢を作っているのに、今日はそういうのがさっぱりない。適当にそのあたりの教本をめくったり、美術選択の生徒が授業で作った作品を眺めたりして、いかにも気が散っているという感じだ。


「もしかして、俺がいるから帰るに帰れないとか?」

「いや、全然。ただ、あんまりやる気は出ない……かも」


 モチベーションの管理みたいなものは、俺にはよくわからない。ただ、週に一日や二日気乗りしない日があってもおかしくないとは思う。俺だって、勉強を放ってスポーツ中継を眺めたりドラマを観たりする。だが、それによって英気を養っている節もあるから、悪いこととは考えていない。


「だから、森谷の生態観察して暇つぶし中」

「俺は動物園のパンダか」

「いいねパンダ。丸っこくてかなり好き。……あ、そうだ」


 突発的になにごとか思いついたようで、字城は目を大きく見開いた。その勢いで立ち上がると、せっせと荷物をまとめ、帰り支度を始める。家に帰って作業する算段でもつけたのか、動きには淀みがない。それならよかったと、俺も参考書を畳み、机と椅子の一式を片す。そうこうしているうちに、字城はドア前で足踏みしていた。美術室の施錠は彼女に一任されているのだ。


「急にどうしたの?」

「動物園。パンダ見にいく」

「取材?」

「そんな感じ」


 目の保養というわけか。動物園なら他にも色々と刺激がありそうなものだし、下向いた気分を修正しようと思ったらかなり効きそうだ。……と、そこまで考えて、俺は一つの疑問にぶち当たった。


「字城さん、ちょっと」

「なに? 急がないとパンダが寝ちゃう」

「それもそうなんだけど」


 なんてかわいらしい懸念材料。基本冷静な字城がパンダパンダと連呼している状況にちょっと……いや、かなり萌えているが、パンダが起きる寝るどうこうの前に、一つ大きな問題が。


「パンダがいて、ここから一番近い動物園、受付終了午後四時」

「よん…………、あ」


 あ、の後、字城の体が一回り小さくなったように見えた。美術室のかけ時計の短針が示すのは『5』で、リミットはとっくに超過。今からどれだけ急いだって、パンダに会う術はないのだ。


「ぱんだ……」


 しなしなっと力を失った字城が、ドアに体をこすりつけながらへたり込んでいく。どんだけパンダ見たかったんだこの女子高生。……しかし、こうやって接していると、彼女が業界を賑わす新鋭なのだということをついつい忘れそうになる。近くで眺める字城とわは、どこにでもいる等身大の女の子にしか見えない。


「……そんなにパンダ好きだったの?」

「好き、っていうか、今見ないともやもやする、っていうか」


 アーティスト魂、とでも言えばいいのか。元を辿るとパンダという単語を出したのは俺だから、なんだかちょっぴり申し訳ない気分。しかしながら動物園の営業時間なんてどこもかしこも似たようなもので、今から駆け込める場所なんてない。

 だからといって、これほどまでにわかりやすく傷心している字城は放っておけない。せめてなにかないかと知識を絞り出し、あれこれ検索することに。――すると。


「気休め」


 座り込む彼女の視線に合わせるため、俺もドアに背中を預けて腰を据える。字城の目はどんどんと虚ろになっていて、このままでは魂が抜け落ちてしまいそうだ。だが、まだ辛うじて自我は残っていたのか、俺が差し出したスマートフォンの横持ち画面に気を惹くところまでは持って行けた。


「あ」


 瞳に、光と似たものが宿る。こんなの、裏技どころか反則スレスレのウルトラCだ。ただ、肝心なのは響くか否か。現実として字城の心に触れるものがあったなら、それが正解になる。


「閉園後の生中継だって。最近始めた試みらしい」

「こっち、もうちょっと寄せて」


 食いつき良好。画面には、のんびりと笹の葉を食む白黒の獣。見やすいよう角度や位置をずらしたが、それでもまだ物足りないのか俺の肩にもたれる勢いで液晶をのぞき込んでくる字城。ついにはスマホに手が伸びて、素晴らしい芸術の数々を生み出してきたほっそりした指が、俺の手の甲に触れた。これだけで俺は相当ドギマギしているのだが、字城には気にする素振りがない。

 

(くすぐったい……)


 というのも、画面の向こうのパンダが揺れるリズムに合わせて字城も左右に体を動かすせいで、彼女の髪の毛が規則的に肩口を撫でてくるのだ。こそばゆいし、最近は油絵の画材が強烈で気にならなかった仄甘い匂いが、鼻腔を刺してくる。シャンプーか、それとも体臭かは知らないが、正直下着姿を覗き見してしまったときより緊張する。いかんいかんと古今東西の仏像の顔を思い浮かべて心のクールダウンを図るが、それで片付くほど思春期ってやつはやわじゃない。


「ど、どう? ジェネリック動物園。まあ、現物と比べたら何枚も劣るんだろうけど」

「…………」


 表情は真剣そのものだ。聞こえていないのか、それとも答える余裕がないのかは知らないが、これで不満と言うなら後で泣く。……この体験が今後彼女の役に立つのなら、俺もなかなかいい仕事をしたと胸を張れそうだ。なんて、ちょっとばかり検索エンジンを触った程度のことを功績にされても困るか。


「……森谷」

「うん?」

「ありがとね」

「……お礼なら、動物園のスタッフさんに」


 はにかむような、それでいて恥じらうような感謝の弁。言い慣れていない言葉なのは少し耳にするだけでも伝わって、それを受け取るのが本当に俺でいいのかよと一瞬だけ葛藤。だが、こういうのはもらい得だ。いくらあっても困りはしない。


「それでも、ありがと」

「それじゃあ、どういたしまして」


 そこから配信が終わるまでの数十分を、灯りのついていない薄暗い美術室で過ごした。なんだか字城と知り合ってからというもの、不思議なことばかり経験させてもらっている気がする。できることなら美術部から去った面々に、「その判断は早計だったかもしれませんよ」と言ってあげたい気分だった。

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