第2話 1まみれ

 校内における字城とわの認知率は、言わずもがな百パーセントだ。クラスが違おうが、学年が違おうがお構いなしに、誰もが彼女の顔と名前を知っている。それは、見るものを魅了する可憐な容姿に寄るところも大きいだろう。あるいは、聞いたものを困惑させる奇抜な言動に寄るところだってあるかもしれない。……けれど、真に特筆すべき点と比較すれば、それらの事柄は途端に全てが陳腐化してしまう。


 そのことを知っていたからこそ、放課後の職員室で切り出された提案に、俺は耳を疑ったのだ。


「字城とわの面倒をみてもらいたい……?」

「頼む森谷! この通りだ!」

「いきなり呼び出されたと思って来てみれば……。どういうことですか、それ」


 俺の目の前で深々と頭を下げているのは、国語科の、中でも現代文を受け持っている里見さとみ教諭。昨年度の担任教師だ。


「こんなことを生徒に頼むのは不甲斐ない限りなんだが、もう俺ではすっかり手詰まりでな……」

「まったく話の全体像が見えてないんですけど、これって俺が察し悪い感じです?」

「いや、すまん。俺の説明不足だ。主題から話した方がわかりやすいかと思って」


 職業病なのだろうか。それはさておき、面倒をみるとは。しかも、よりによって相手はあの字城とわと来ている。


「字城さんって、あの?」

「ああ、ピカソの再来、ゴッホの再来、ダ・ヴィンチの再来、ボッティチェリの再来、果てはバッハの再来。とにかく古今東西の天才画家と肩を並べ得ると評された怪物高校生だ。面識があったか?」

「廊下ですれ違うのを面識と言うんだったら何度か」

「なら初対面だ。……一応ツッコミ待ちなんだが」

「情報が渋滞しているのでそっちで片づけてといてください」


 挙げられた名前の中でバッハだけ音楽家なのだが、ボッティチェリなんて名前が出て来るのにバッハが画家でないのを知らないわけがないからスルーした。そういう小粋なジョークは、もっと余裕のあるときにお願いしたい。


 重要なのは、里見先生の冗談ではない。字城とわという同級生が既に世界的な評価を獲得しつつある天才画家という点にこそ、目を向けるべきだ。現在でも彼女が描いた絵には高い値が付けられ、十代にして平均的なサラリーマンの生涯年収を優に上回る金額を稼ぎ出しているとまで言われている。どうやってそんな相手の面倒をみろというのか、ぜひお聞かせ願いたい。


「そ、そうか。んんっ、それでだな……」


 里見先生は整頓されたデスクを漁って、なにかのコピーを取り出した。彼は数学と無関係なはずだが、そこには無数の『1』が踊っている。パズルの仲間かとも考えたが一か所だけ『5』を見つけ、学生、1~5で思いつくものなど一つしかないのでそれを口にする。


「評定ですか、これ?」

「オフレコで頼む。実はだな、字城の成績は、その……」

「芳しくない、と」


 こくり。里見先生は頷いて、「最高評価が5ではなくて、さらに数字の合計を競い合うだけでいいのならあの子に勝てる生徒はいないんだが」と苦笑い。そりゃあそうだ。美術に限って言えば、彼女は教師なんか相手にもならないのだろうから。

 俺はここで、極限まで先生に近付いて小声で問う。


「これ、真っ黒い力働いてません? 字城さん、普通に進級してますよね?」

「……大人のエゴが関わっているのを隠すつもりはない」


 大方、実績作りのためだろう。このまま彼女に在籍していてもらえれば学校の宣伝になるし、向こう数十年はOGとして看板にできる。別にそれが悪いと言うつもりはないけれど、本当の問題は――


「――ウチ、公立ですよ。私立だったらまだしも、こういう特例ってリスクありません?」

「ああ。だから、特例的な進級には条件がある」


 それがおそらく、俺を頼った理由なのだろう。条件とやらも、なんとなく推測はできる。


「五月後半にある中間テストで、全教科赤点を回避すること。つまり、あと一ヵ月の猶予で、字城に勉強をさせるよう促さねばならない。……だが、俺がどうやっても見向きもされなくてな」

「……へえ。そこで俺に白羽の矢、と」

「ああ。恥ずかしい話だが、もうお前しか頼れる相手がいない。……去年、新条の復帰に力を尽くしてくれたお前しか」

「……一個質問しても大丈夫です?」

「答えられる範囲なら」

「字城さんがただ勉強についてこられなかっただけなのか、それともやる気がないだけなのか」

「……俺は、後者だと思ってる。少なくとも、入学時の学力は中間層だった」

「了解です」


 言って、早々に体を翻す。


「字城さん、美術室にいますよね?」

「受けてくれるか?」

「後から高い晩飯たかるんで、財布に余裕持たせといてくださいねー」


 勢いで職員室を後にした俺は、その足で美術室まで赴いた。……そこに半裸の字城とわがいることなど、知る由もなかったのだけど。

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