第10話 崑崙山の従者


 季節感を忘れて生い茂る草花を見つめながらしばらく行くと、遠くに巨大な平屋が見えてきた。


 ここは崑崙山の頂上付近のはずだが、それは山小屋ではなく春日大社本殿に似た立派な出立ちだった。


 正面でシーツのような白い布が大量に干されて風に棚引き、朱塗りの建物を際立たせている。


 僕の百メートルほど前方を歩く祖父は、その白い布群に向かっているようだった。おそらく建物の入口が布の向こうにあるのだろう。


 祖父が布の吊るされた竹の物干し竿に近づくと、紺色の衣を着た者が白い布の間から抜け出て来た。


 その者は結い上げた銀の長髪を金細工や玉の簪で飾っていた。祖父より少しばかり背が低く、老人というわけではなさそうだった。褐色の肌のその者は祖父に対してこうべを垂れ、挨拶をしているように見えた。


 ここが西王母の治める崑崙山だということや従者らしい淑やかな雰囲気もあって、僕はその場に辿り着くまでその者が男型おがただということに気づかなかった。


 西王母は女性の神仙を治めているという伝承がある。男性の神仙を治めるものとして東王父とうおうふが見出された結果そうなったのかもしれない。


「皆様お揃いですね。それでは、ご案内致します……」


 桃源語だった。

 銀髪の従者は再びこうべを垂れ、前方を静々と歩き出した。


 彼を男型だと気づけたのはこの低い声があったからだ。彼の中性的な顔立ちと憂いを帯びた光の無い紅い瞳は、僕の判断を鈍らせただけで答えはくれなかった。


 彼の二十代中頃の見た目に合わない未亡人のような雰囲気は、仲間を喪ったオルレアンにどことなく似ていた。


 こんな場面で何があったのか聞くべきではない。そのことだけは確かだったから、僕は何も言わずに会釈し、四人について歩いた。


 白い布の奥には玄関が慎ましやかに佇んでいた。紅く塗装された木戸の上には玉山と彫られた分厚い板が掛けられてあった。靴を脱ぐ場所は無く、玄関奥の長い廊下まで石畳が続いている。


 洞窟のように長い廊下の左右には部屋が多くあるようで、朱塗りの扉がいくつも見えていた。急に扉を開ける者がいても廊下を歩く者の邪魔にならないように扉は内側に開く造りになっているようだった。


 そんな事を観察しながら最後尾を歩いていると、シルラが酒に酔った人のように僕の前を左右に揺れて歩きはじめた。千鳥足というほどではないが、気怠げだった。


 それなりに長い道中だったから、歩く事に嫌気がさしてきたのかもしれない。シルラのさらに前方を歩く三人の姿勢がやけに良いせいで妙に悪目立ちしていた。


 僕らが長い廊下を半分ほど歩いた時、正面の扉が勢いよく開いた。


 その中から羽衣らしき物を纏った小学生くらいの子供が飛び出してきた。


そよぎ〜!会いたかったよぉ……!」


 そう桃源語で言い終わる頃にはもう、その子供は祖父に抱きついていた。


「噂に聞いた時はどうなることかと思ったけど、梵歩けてるじゃん!ほんと良かったぁ……!」


 お香の薫りを乗せた風が僕らの間を吹き抜ける。子供はずいぶん足が速いようだった。


韋駄天いだてんにまでえらい心配かけてもぉてんなぁ……。俺はユリエルのお陰でこの通り無事やし、もう心配せんでなぁ」


 祖父は韋駄天と呼んだその子供の背を撫でた。


 子供の頭の上には神が宿っているからタイでは子供の頭を撫でてはいけないと聞いたことがある。韋駄天はシルラと同じくアジア系の顔立ちをしているが、おそらくその件とは関係ない。


 きっと韋駄天が深緑の髪をツインお団子ヘアに結っているから、祖父は気を遣って頭を撫でなかったのだろう。


 韋駄天は祖父の裾に頬擦りした後、祖父の後方にいる僕らを見た。


「んー。聖人金剛卿、レヴィの弟子。ってことは……君が焔くんだね。俺は韋駄天!この暗くてじめじめした性格の白ちゃんと一緒にここで西王母様の従者してるの〜!よろしくね」


 韋駄天は紅顔の美少年を絵に描いたように無邪気に笑った。僕にわざわざ聖語で話しかけてくれるあたりが気の利く従者らしい。


「祖父がいつもお世話になってます。これからも仲良ぉしたってください」


 僕は聖語で挨拶をして韋駄天にお辞儀をした後、白ちゃんと呼ばれた褐色の肌の従者の方を見た。


 彼は韋駄天に対して反論せず、従者らしく壁に背を向けて俯いていた。五髻ごけい垂髻すいけいを合わせたような髪型に簪がいくつも挿さっている。


 シルラは白の顔を下から覗き込んだ。白は身長が190センチ近くあるため、シルラは少し背伸びをして見上げた。


「いつも思うけど、どうして白なの?髪のせい?なんだかペットの名前みたいだよね。きっと本名じゃないでしょ?俺にだけ教えてよ。秘密にするからさ」


 シルラは白に聖語で話しかけた。


「お前レヴィの顔に泥塗るつもりか?白が西王母様の側近なんは知っとるやろ。まだ神仙になっとらんお前より地位高いねんから、口の利き方には気ぃつけろ」


 運はシルラに向かって聖語で呟いた。いつの間にかサングラスを仕舞ったようで、いつにも増して鋭い眼光だった。


 いつもより小さい声なのはここが廊下だからだろう。天井が高く、物が置かれていないから、大声で話すとどこまでも響きそうだった。


「どうかお気になさらず……。よく言われますので」


 白は地面を見つめたまま聖語で囁いた。相変わらず無表情で感情が読めない。


「そうそう!白ちゃんのことなんかで怒らなくて良いよ〜。ただ西王母様に貰った名前ってだけだしね〜!そんなことより早く大広間に来てよ。西王母様が宴の用意して待ってるから」


 韋駄天は祖父の裾を掴んで歩きはじめた。廊下の果ての扉を目指しているようだった。


 祖父はされるがまま韋駄天について行き、白はその後をゆっくりと追う。


 シルラは立ち止まったまま運の方を見て、頭を下げた。


「運様、ごめんなさい。俺が浅はかでした」


 シルラは素直な性格なのかもしれない。


「俺に謝ってどないすんねん。俺はなんも迷惑してへん。ただ、よぉ考えや。神羅しんらの行動は〝レヴィの弟子〟の行動や。桃源郷では何したかてレヴィの名前がついてまわりよる。せやし、あんまレヴィの面子潰したりな」


 運は諭すような口調だった。


「はい!運様のご期待に添えるように努力します……!」


 シルラは何度も頷いた。


 運はシルラに背を向けると再び歩き出した。


 僕は先ほどまでと同じように、運の後ろを歩くシルラを追った。


 廊下の奥から仄かに紅焼肉ホンシャオロウのような香りが漂う。韋駄天が再び扉を開いたからだろう。



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