第9話 分離
シルラは後ずさると僕の背後に回ってリュックサックに抱きついた。
「お前ほんまええ加減にせぇよ?はよ焔から離れろ」
大木を背にした運はシルラを睨みつけた。
サングラスのせいもあって表情はわかりにくいが、怒っているのは確かだった。
「そんな怒ったりなや。減るもんでもないねんし……」
シルラは僕の後ろで頷いたのか微かにリュックサックが揺れる。
「そんなん今減ってへんだけや。減ってからじゃ遅いねん。ええからさっさと離れろ。レヴィの元に帰されたいんか?」
確かにシルラはカフェの女型の件でも運やオルレアンの件でも、気になった相手に対して積極的に働きかける性質ではある。とはいえ、今のところ〝地球にもいるレベル〟だ。何か逸脱した危険性を含む行為は見られない。
だとしても、運は意味無く相手を攻撃するようなやつじゃない。おそらくシルラをよく知っていてこういった口ぶりなのだろう。
加えて、祖父は紫府を出てからずっと太刀の中で息を潜めていて、シルラには自己紹介すらしていない。
もしかすると記憶が戻った事で性格に変化があったのかもしれないが、僕の知る祖父は気遣いのできる人だ。通常こんな態度は取らない。シルラに挨拶をしない事にはおそらく理由があるのだろう。
そんなことを考えていると、地面に突っ伏したままだった紅い翼の男が垂直に手を挙げて突如立ち上がった。
「ハイッ!俺ちゃん質問したいことがあるんだけど。いい?いいよね。じゃあ、質問なんだけどぉ。聖人金剛卿は側室探しの旅してるでしょ?ああ、やっぱり?そうだと思ってたよ!俺ちゃんってば天才だからね……!アッハッハッハッハッハッハッ!ごめん。なんか自分で言ってて照れてきちゃった。うふふ」
桃源語だった。
顔や服には木の葉や土が付着している。それでも運と同じく彫りの深い顔立ちだということはわかった。
「側室なんてそんなぁ〜。恐れ多いですよぉ」
シルラは後頭部を掻きながら聖語で呟いた。
どうやらシルラも桃源語は聞き取れるらしかった。
「行方不明やった
運は太刀の入った風呂敷を紅い翼の男に差し出した。
「アイヤー!それを早く言ってくれたら居留守使たり死んだふりして顔面から落ちたりしなかったのに〜!
「ええから早よして」
運は紅い翼の男の対応に慣れているようだった。
紅い翼の男は泥塗れの手で紺の風呂敷を解き、太刀の鞘に触れた。
すると、硝子のように透き通った祖父が太刀の中から抜け出てきた。木漏れ日を浴びて水面のように輝いている。
どこにいても裾が太刀と引っ付いていたのに、今見れば完全に分離されていた。
「ユリエル。おおきに。これで
祖父は紅い翼の男に向かって微笑んだ。もちろん桃源語だった。
祖父はいつの間にか右目に眼帯を着けていた。
後漢の
六朝の
幽霊自身であっても無鬼論者に幽霊の存在を証明できないというこの滑稽な話は、幽霊を論理的に証明するのは極めて難しい事を示している。
祖父はどう見ても魂の状態だが、いつも竜の柄の着流を身に纏っていた。霊力の類を衣に置き換えているのかもしれない。
祖父が祈るように目を閉じると、氷のように透き通っていた身体と衣服に水彩画の如く色がついた。
祖父は僕が想定していたよりもずいぶん青白い肌で、爬虫類のような瞳は黄金に輝いていた。今なら、竜だと言われれば納得できる。
シルラは僕の背後から身を乗り出してその様子を見ていたが、始終何も言わなかった。
「ハハッ!梵はいつ見ても綺麗だなぁ〜!また会えて俺ちゃん嬉しいよ……!付喪神みたいにされちゃって、
紅い翼の男は祖父に太刀を手渡した。祖父の名は梵というらしい。
「わかった。ほな先に挨拶してくるわ」
祖父は紅い翼の男から太刀を受け取り、運とシルラと僕を代わる代わる見た。
「ここまで連れてきてくれておおきに。ほな西王母様んとこ行こか」
祖父はシルラに気を遣ったのか聖語でそう言うと、僕の背後の山道を登り始めた。下駄の砂利と擦れる音が響いてくる。
僕は紅い翼の男に一礼してから運の方を見た。
祖父が紅い翼の男に僕を紹介しなかったことには意味があるはずだった。おそらく、神仙ではない僕が桃源郷で繋がりを多く持たない方が良いと祖父は考えているのだろう。
運は紅い翼の男に一言礼を述べるとすぐに背を向け、僕とシルラの前まで歩いて来た。
「葛城竜殿下もう行ってもぉたやん。おいてかれんうちに早よついてくで。西王母様に挨拶せんままこの辺ほつき歩いてんのは良ぉない」
運は聖語でそう言うと、再び僕らの先に立って歩き出した。
「ほな行こか」
僕は隣で静かにしているシルラを見た。
「ほんとに、良いのかなぁ。俺、葛城竜殿下についてったりして本当に良いのかな……」
シルラは俯いていた。手が僅かに震えている。
「どうしたん?シルラはレヴィさんの弟子やろ。レヴィさんは運の友達で、運にしばらくついて行けってシルラに
祖父の姿を見てからシルラの様子は変だった。桃源語を使った会話だったから口数が減っていたのだろうと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
「いやいや。ほむらよく平気だよな。葛城竜殿下さ、噂以上に
「ああ、なるほど。それはそのうち慣れると思うで。シルラが思ったより元気そうで良かったわ。僕らも早よ行こ」
僕は紅い翼の男に再び一礼し、運の背を追って歩き始めた。
しばらく行くと、シルラは再び僕の三歩前を歩くようになった。
それからのシルラは、また歩きだとかいつまでこの道は続くのかとか文句を言っていたが、山頂が近づいてくるにつれ大人しくなっていった。
傾斜の度合いも緩やかになって、背の高い木が減り足元に草花が増えたからかもしれない。
僕は漢方薬に使われそうな草を目に映しては、もっとしっかり『神農本草経』や『中国本草図録』を見ておけば良かったと後悔していたが、しばらくして一つ奇妙なことに気がついた。
この辺りは高山植物以外にも春や秋の七草、桜、ツツジ、南京ハゼ、楓等が生えていた。それも今が自分の季節だとでもいうように各々咲き誇っているのだ。
この山にはおそらく、季節が存在していない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます