後篇 桃源郷 紫府・崑崙山

第6話 神仙の弟子


 僕は紫府しふ前の石階段に腰かけ、そこから五段降りた先に広がる雲海を緊張感をもって見つめていた。


 天帝陛下は紫府にいらっしゃるらしい。


 靄を抜けた僕らが真っ先に目にしたのは、東大寺大仏殿を紫基調に変えて何倍にも大きく豪勢にしたようなこの紫府だった。瓦を含めあちこちにぎょくをあしらっているせいか、自然光を反射して建物全体が輝いて見えた。


 こんな紫府を目の前にして浮き足立たないわけもないが、祖父は僕にここで待っているように言って太刀の入った風呂敷を運に手渡すと、二人で紫府の中へと入ってしまった。


 祖父の判断は最もだった。


 天帝陛下の居る紫府は桃源郷の中で間違いなく権威ある建物で、神仙でない者がみだりに足を踏み入れて良い場所ではないだろう。


 神仙の官僚である仙官せんかんくらいの地位がなければ、神仙であろうと容易に入れてもらえない気さえする。


 わざわざ地球いせかいに住んでまで祖父を探し出した運が報告のために入るのは当然だ。後から呼び出される手間を省いてやったにすぎない。


 そんな運に比べると僕は家族だということ以外に特に伝えるべきことを持たないわけだから、こうして外で待っているべきだった。


 もちろんここで待つようにと言われたからには歩き回ってはいけないし、迷子になって迷惑をかけるわけにもいかない。


 理屈でわかっていても、まるで遊園地へ来ているのに朝食を食べ終わるまで遊ばせないと親に言われた子供の如くもどかしい心地だった。せめてジェットコースターの音が聞こえないように気を使わなければ食事も喉を通らない。


 こうして、僕は欲に駆られないように石階段を数段下り、紫府に背を向けて座った。


 この石階段は北京の紫禁城のものと同じくらいの長さで、太陽らしきものが真上に照り輝いている。あれが太陽と同じ動きをするなら今は正午くらいだろう。


 紫府の周囲に建物は無いようで、石階段の先には飛行機の窓から見られるような雲の絨毯が広がっていた。下界を見せない分厚いそれらが歩行可能だと知ったのはつい先ほどのことだ。


 視界の最果ての場所からこちらに向かって、運動場の砂を蹴るかの如く雲の上を走って来る人物が見えたからだ。


 はじめは、もしかするとあの人は六朝の葛洪かつこうが記した天仙てんせんのように金丹きんたんでも食べていて、僕には走っているように見えているだけで実は飛行しているのかもしれない等と考えた。


 しかし、彼は何度も立ち止まって休憩しては走ることを繰り返し、紫府の石階段に至るなり息を切らして俯いた。飛行していないのは明らかだった。


 身長が170㎝に満たないくらいの小柄な彼はアジア系の顔立ちだった。色白の肌に肩まで伸びた黒髪が違うクラスの友人とよく似ている。彼は緑基調の漢服のようなものを着て、銀のアンダーリム眼鏡から覗く二重の丸い目を瞬いた。


 彼が神仙かどうかはわからないが、桃源郷にいるからには神仙と何かしらの関わりはあるはずだった。


「やぁ、はじめまして。君も師匠に待たされてるの?俺は神羅将司しんらまさし。シルラでいいぜ!宜しくな〜」


 呼吸を整え咳払いをすると、シルラは階段を上りながら英語で僕に話しかけてきた。


 桃源語は中国語と似ていて、宇宙世界で話されている聖語せんとごは英語に似ていると運は言っていたから、シルラは宇宙世界から来て間も無い神仙である可能性が高い。


「はじめまして。僕は迦楼羅焔かるらほむら。ここで家族と友達待ってんねん」


 言葉の分からない外国人のふりをしようか少し考えたけれど、僕は杜子春とししゅんのように声を出すなと言われたわけではないから正直に応じることにした。


「ふーん。ほむらかぁ。可愛い名前だね。聖語話せるんならさ、これからお茶でも行かない?」


 シルラは僕の隣に腰掛けた。


「それが僕、ここに居れ言われてんねん。シルラもそうとちゃうん?どっか行っても師匠怒らんの?」


 その場の流れでカフェへ行くことは海外ではよくあることだったが、ここでは危険だ。


 第一ここで待つように言われているし、第二にSIMを差し替えていないからiPhoneと充電池があってもWi-Fiを探さなければ使えない。祖父と運に連絡を取る手段もなく、一人で紫府ここに帰れない状況で散歩するのは賢い選択ではなかった。


「俺の師匠はわりとテキトーだし怒ったりしないよ。でも、ほむらのとこが厳しいなら仕方ないね」


 シルラは諦めたように頷いた。


「堪忍なぁ。気ぃ遣ってくれてほんまおおきに」


 僕はおそらくアジア人になら通じるであろう礼拝の姿勢〝合掌〟をしてから軽く一礼した。感謝の気持ちが伝わったのか、シルラは照れ臭そうに笑った。


 これほど簡単に引き下がってくれるならシルラはそれほど危険な相手ではなさそうだった。


 物語の中の神仙はしばしば通行人をつかまえて〝試練〟を仕掛けて来るが、今回はそれに当たらなかったらしい。仮に試練だったならこうも簡単に引き下がるとは思えない。


「じゃあさ、カフェじゃなくていいから師匠出てくるまでここで俺の話聞いてよ」


 老若男女問わず知らない人に話を聞いてくれと頼まれることは奈良でもよくあった。彼らはしばしばこれまでの出来事や未来への不安を僕に語る。


 僕は大抵の場合ただ黙って彼らの話を聞いているだけで、特別に何かをするわけではない。それでも彼らは一通り話し終わると礼を言って去っていく。


「僕でええならかまわんけど、なんかあったん?」


「俺さ、AとBっていう好きな女型めがたがいるんだ。AとBのどっちと付き合うことになっても俺は嬉しいの。でもAが一番好き。だからAとどうやったら付き合えるかなぁ〜って話しをCっていう女型にしてたわけ。AとBとCは子供の頃から仲良しだったって聞いてたから、Cには一年くらいAのこと相談してたんだけど……最近AとCから全然返事が来なくなっちゃってね。今もBとは連絡とったりカフェで会ったりはしてるんだけど、前までBと一緒に来てたAとCがこのところいなくてさ。AとCのことが心配なんだけど、俺が何書いても返事ないし、Bも俺と一緒でAとCがどうしてるのか知らないみたいなんだ。それで先週のことなんだけど、Bが『彼氏いるって何度も言ってるのに口説いてくるやつってほんとなんなの?』って他の男型おがたに向かって言ってるの聞いちゃってさ〜。なんかBとは考え方が合わないなぁって思ったんだ。だって彼氏いるって知ってても好きなら口説くのは当たり前じゃない?」


 シルラは胸を張った。


「そら相手が迷惑がってへんならべつにかまへんけどな……。その話からするとBには彼氏おって、最近誰かに口説かれて困ってはるってことやんな?」


 感情は読みにくいものだ。世の中には口に出すのとは逆のことを考えている者もいるし、褒め言葉を悪口として受け取ってしまう者もいるわけだから、人付き合いも恋愛も困難を極める。


「その話は詳しく知らないんだけど、AとBとCは全員彼氏持ちだよ。彼女たちから何度もそう言われたし嘘じゃないと思う」


 僕はBの言葉にシルラが含まれていた可能性はなかろうかと思ったが、初対面の僕がそんな事を指摘するのは失礼にあたる気がして、ひとまず余計な口を挟むのはやめた。


「ああ、そうなん。ほな三人とはカフェで会う女友達って感じの仲やったわけやな?」


「うん。俺がカフェでランチしてたら向かいの席で美女が三柱さんはしらで楽しそうにお茶しててさ。そんなの見たら普通話しかけたくなるでしょ?」


「うーん。僕はならんけど。まぁそーゆー人もおるとは思う」


「でしょ?どうして前まであんなに仲良かったのにAもCも突然返事くれなくなるのかなぁ〜。女型の心ってほんとわかんねーよ」


 シルラは階段に凭れかかって空を見上げた。上段には薄らと砂埃が溜まっている。


 この辺りに〝土〟は見当たらないが、どこかに神仙が好んで住みそうな山でもあるのかもしれない。


「難しいね」


 僕も天を仰いだ。所々雲が浮かんでいる。上空にも雲があるということは、天界のような桃源郷にも雨は降るのだろう。


 そんなことを考えていると、視界の端に映るシルラの影が不意に蠢いて見えた。


 驚いてその石階段の隙間を凝視すると、瞬きもしないうちに身の丈二メートルはある者がそこから煙立つように出現した。


「こら。お前の脳みそが紫府の中にまで響いておったぞ」


 しゃがれ声で聖語を話した彼は、寿老人が持つような流木の如き杖の上部でシルラの頭を三度こづいた。


「痛ててっ。やめてくれよ、師匠。それシャレになんねーほど痛てぇよ」


 シルラは涙目で自身の後頭部を摩った。


 シルラの師匠は二十代くらいの見た目で、銀髪のおかっぱ頭に紫がかった肌と尖った細長い耳を持っていた。緑色の襟の立った奇抜な外套のせいもあって宇宙人のようにも見えた。


「お前が焔じゃな。わしの馬鹿な弟子が迷惑をかけたのう」


 シルラの師匠はやや猫背で、杖を握ったまま僕に頭を下げた。


「いえいえ、とんでもないです。僕ほんまなんも困ってませんので、どうか気にせんとってください」


 彼は神仙だろう。もしそうでなければ、シルラが桃源郷に入った経緯が分からなくなってしまう。


 仙人の原形とされる画像石に描かれた羽人うじんも、尖った長い耳を持っている。髪や肌の色はともかくとして、彼の耳は神仙にとって珍しくないはずだった。


「うむ。ならば焔、お前はこれから太刀と魂を分離するために紅い天使を求めて崑崙山へ向かうだろう。その旅にこの馬鹿な弟子を同行させてはくれまいか?」


「はい。僕でええなら喜んで」


 僕は手に汗を握った。遂に神仙の予言を目の当たりにしたからだ。


「なんやレヴィそんなとこおったんかいな。急におらんなるから探してもぉたやろ」


 僕の背後から、ヒールの音を響かせて運は不機嫌そうに桃源語を話しながら石階段を降りてきた。


 サングラスをかけていることもあって、古風な紫府を背景にするとまるで寺社にいる観光客のようだった。



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