第5話 福


 LUPICIAの楽園をWedgwoodのワイルドストロベリーのティーカップに注ぐと一層春を感じる。イチゴ狩りでもしている気分になるからだろうか。僕はいつも仰ぐようにカップの柄を観察し、香りを楽しんでから一口飲み、ミルクを入れてまた一口飲む。


 大人しく紅茶を飲む運の傍で僕がそんな事をしていると、祖父はおもむろに言葉を口にした。


「福。うとかんとあかん事あんねん」


 祖父は自身の前に陰膳の如く置かれているティーカップから視線を上げた。


「どないしたん?」


 祖母はNHKのドキュメンタリー番組から目を離し、祖父を見た。


「さっきついに記憶戻ってん」


 祖父はニュースキャスターの如く落ち着いた調子で事実を述べた。


「ああ、そうなん?ほな、行かなあかんとこ出来たんやね」


 祖母は覚悟を決めたような目をして、紅茶を口にした。


「せやねん。今まで世話んなったし、俺の帰国先の事についても話したいと思うねんけどええ?」


「はぁ。ほな短こぉ喋って。どこ帰るん?」


 祖母はリモコンを取って、ドキュメンタリー番組を録画するとテレビを消した。


「桃源郷。まずはそこに帰る。そこで用事済ませたら、聖・オズバルドに行く。聖・オズバルドは俺の父親が造った世界やねん」


「ほなその後は?」


「聖・オズバルドにおる父親に挨拶したら、桃源郷の別荘に住むと思うわ」


「そう。いつ帰るんか知らんけど、大雑把にでも将来の事は考えてから行動すんねんで。ああ……この言葉はそういやあんたが教えてくれたんやったか。ほな、大丈夫やな」


 祖母は俯いて笑った。


「支度したらすぐ出るわ。急に刀に変えられてもぉたから、あっちでやらんならんこと全部ほったらかしてきてんねん」


「ほな早よお行き。またそっち落ち着いたら、吉野の蔵王権現と夜桜見に帰って来てくれたらええわ」


 毎年春になると祖母は蔵王堂の蔵王権現と桜を見るために吉野へ行く。


「あこで出会ってからもう五十年も経つんか。ほんまあっとゆう間やったな」


「あっとゆう間な事あらへん。吉野でせっかくあんたと出会って連れて帰ったのに、許嫁と結婚せなあかんくて初めて親恨んだし、それで生まれた娘も『今日は家から出たない気分やから行かん』うたウチに焔預けて婿養子と旦那と一緒に交通事故や。でもまぁ、あれから15年も経ってんのにまるで昨日の事のように感じるねんから……。たしかにあっとゆう間かもしれんなぁ」


「堪忍。そーゆーつもりでうたんとちゃうねん……」


 祖父は再び視線を落とした。


「阿呆やなぁ。そんくらいわかってるで。あのことについては単に、親の言いなりで好きにできんかったウチは損したなぁて思うだけやわ。せやし、焔には自由に生きて欲しいねん。娘にはなんもしてやれんかったからなぁ」


 祖母は腕組みしてそっぽを向いた。


「大丈夫やで、おばあちゃん。僕めっちゃ自由に暮らしてるで。高校入ってからはお父さんお母さんの住んでた家で一人暮らしまでしてるやん」


 祖母の自由の範疇がわからなくて、僕は小首を傾げた。


「使用人もおらんしあれは自由ってより放置に近い気ぃするけどなぁ」


 運はあきれたように笑った。


「放置なんかしてへん。二日に一度は見に行ってるわ。ウチがうてるんは、この土地に縛られずもっと旅行するとか自分が選んだ人と結婚するとかそーゆー話や」


 祖母は澄まし顔だった。前下がりのボブカットがよく似合っている。


「ほな焔、ちょっと桃源郷でも旅してみるか?」


 祖父は僕の方を見た。


「月曜日は学校やし、明日までならええけど?」


「ほな決まりやな」


 祖父は祖母が嬉しそうに頷いたのを見て微笑んだ。


 ◆◇◆


 祖母はいつも帰り際にするのと同じように門の前まで来て手を振っただけで、特別に祖父と話をすることもなく旅立つ僕らを見送った。


 きっと会話すればするほど寂しい気持ちが生まれるから、いつも通り振る舞っているのだろう。


 十等身の透き通った祖父を見つめる九等身の祖母。それは僕にとってあまりに眩しい景色だった。


 こうして、家に帰った僕は一泊二日分の旅行の用意を通学用のNorth Faceのリュックサックに詰め、玄関に向かった。


 今日は祖母の家で過ごす予定だったから冷蔵庫に下拵えをした野菜等も無い。旅行をするには好都合だった。


「えらい早かったなぁ。まだ十五分経ってへんで」


 土間にいた運はOLIVER GOLDSMITHのサングラスをかけて、dunhillのピーコートを着ている以外は先程と変わらない出で立ちだった。


「まぁ持ち物そんな無いからなぁ」


 登校時と同じくリュックサックを背負った僕は、紺の風呂敷で包んだ太刀を奉公人の如く抱えていた。


「そういや運は中臣さんにちゃんと挨拶したん?」


 僕は靴紐を結び直して運を見た。


「当然〜」


 運はウインクした。


「ほな、もう準備はええねんな?」


 祖父は太刀から抜け出て僕らを交互に見た。太刀のある場所から百メートル程度は離れられるらしいが、魂の状態で怪我をすると危険だと運に止められ僕が太刀を運ぶことになった。


「俺のことはお構いなく」


 運の隣で僕も頷いた。


「そうか。ほな行先は中有ちゅううにある桃源郷。目的は天帝陛下に阿羅漢の罪を報告する事と、俺の魂を太刀と分離して受肉インカネーションする事。ここまでで質問は?」


「任せるわ」


「ありません〜」


「そうか。ほな行こか」


 祖父はオルレアンと同じような靄を出現させ、僕と運の手を引いて一番視界不良そうな中心目掛けて進んだ。



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