第4話 記憶


 土曜日の午後一時。このくらいの時間がちょうどいい。はじめにそう言ったのは運だった。


 昼食の後で、眠くなり始める少し前くらいの時間だからだろう。機嫌の悪い人は少ない印象だ。とはいえ、祖母のとみがその条件に適合するかは孫の僕にもわからなかった。


 たいてい驕慢な態度で接するが時折驚くほど温良になる祖母の機嫌の波を読むには、おそらく僕はまだ若すぎるのだろう。


「焔この時間なると急に家出るん早なるよな」


 中臣家の四脚門を豪快に開け放って出て来た運は眠たそうに伸びをした。


 白いドレスシャツにスマイソンブルーのカーディガン、バーバリー・チェックの洋袴ズボンがその雰囲気に調和している。


 鍵をかける素振りが見られないのは、後から中臣さんを含む配下の誰かが閉めてくれるのだろう。あの手の門がオートロックだとは思えない。


「運はいつも早起きやのに、休みの日はなんでか知らんけど眠そうやんな」


 僕は土塀に沿ってしばらく歩き、運の前で立ち止まった。昨夕はこの辺りにオルレアンが消えた。そんな出来事があったというのに、今日はあまりにいつも通りの大道町でなんだか毒気を抜かれてしまう。


「休日やっていっぺん思てしもたらあかんねん。いつも気ぃついたら十二時や」


 運は口元に手を添えて欠伸をした。


「そりゃしゃーないわ。僕もよぉやる」


 僕らはどちらが合図をするわけでもなく徐に歩き始めた。


 広範な春日大社の神域を左に、写真を撮る観光客を時々追い越しつつ五分ほど東し、志賀直哉旧居や中の禰宜道を過ぎれば坂の上に祖母の家が見えてくる。


 祖母の家からは上の禰宜道が一番近く、僕の家からはささやきの小径——下の禰宜道——が一番近い。つまり、両家とも春日大社の南に位置しているというわけだ。


とみちゃんこないだのカフェぶり〜。元気しとった?」


 運は呼び鈴を鳴らすなりインターホンに向かって話しかけた。レッドカーペットを歩く俳優の如き白い歯を見せ手を振りながら。


「はぁ。どちらさん?えらい流暢な関西弁やねぇ」


 それほど高音質ではないスピーカーを通していてもよく通る年齢を感じさせない声だった。


「おばあちゃん。しょーもない事せんでええから早よ開けて。遊びに行くって昨日LINEでうたやん」


「あら。開いてるわよ?よお上がり〜」


「なんや、そうなんや。おおきに」


「ほなお邪魔しまーす」


 僕らは貫で頭を打たないように少し屈んで門を潜った。


 玄関へと続く道の左右の庭には、梅の木や桃の木、桜の木があり、そのすそ元には山吹が植わっていた。


 他にも僕が寡聞にしてその名を知らない草花が鉢植えされて所々に置かれている。おそらく祖母がその時々の気分で購入したものだろう。


 あらゆる花々がそこかしこに咲き乱れ、生暖かい陽気と混ざり合ってむせ返るような甘い香りを漂わせている。


 ふと、その土が湿っていることに気づいた。誰かが水遣りをしているのだろう。先ほど家の中で返事をした祖母ではない。


 祖母は十五年前の交通事故で夫と娘夫婦を亡くしてから僕が高校に入学するまで、この坂の上の家で僕と二人で暮らしてきた。


 生身の人間のことしか計算に入れないならこの家を訪れるのは親戚だけだが、いくら祖母でも客に水遣りはさせない。僕は四顧して、三間先に推測通りの者を見出した。


 彼は海月の如く透き通った身体に陽光を浴びながら、取手の付いた八角形の檜の桶から柄杓で水を掬って撒いていた。空中を舞う水滴が時々彼の姿に混じって光る。


「おじいちゃん…。また水遣りさせられてんの?」


 僕は若すぎる祖父に近づいて声を掛けた。着流しの足元が透けているとはいえ、身長は僕より十センチメートル以上高く、運と同じく百九十はあった。


「ああ、いらっしゃい。よぉ来たなぁ。これは最近の日課やで。いつもは朝か夕方にしてんねんけどなぁ」


 祖父は花々を気の毒そうに見つめた。


「夏場は葉ぁ焼けるし気ぃつけたらなあかんけど、今の時期は構わんのちゃう?そもそもおばあちゃんが買ってきてんから、自分で世話せんとあかんやろ」


「いやぁ。福に任せとったらすぐ枯れてまうし可哀想やわ」


「そりゃせやろなぁ。ああ、せや……おばあちゃんから聞いてると思うねんけど、今日は僕のお隣さんで幼馴染のさだめ連れてきてん」


 僕は振り返って運を見た。


「焔君にはいつもお世話になってます。金剛運っていいます」


 運は僕の一間後方で会釈した。


「金剛……?なんかどっかで聞いた事ある気ぃするわ。俺こんな身体やし、きっと初めてうたはずやねんけどなぁ」


 祖父は蛇のような左目を瞬いて小首を傾げた。相変わらず右目は前髪に隠れているが、単に隠れているというだけで視力は悪くない。


「うーん。焔にも俺の仕事仲間にも葛城竜殿下は記憶喪失やって聞いてるからなんて説明すればええんかわからんねんけど……。誤魔化さんと言うなら、俺とはもっと前からの知り合いですわ」


「葛城竜殿下……それ、前に呼ばれた事あるわ」


 祖父はしばらく桶の中の水面に目線を落とし、また運の方を見た。


「あー。それたぶん俺の仕事仲間が影から囁いたんやわ」


 運は溜息を吐いた。


「なにそれ?どーゆー意味?」


 二人の会話を邪魔しないで見守ろうと思っていた僕はうっかり質問を投げかけてしまった。


「レヴィってゆう影を司る神仙がおってな、そいつが影伝いに葛城竜殿下に近づいてん。俺が桃源郷でレヴィに葛城竜殿下探すん手伝ってくれってうたら、簡単に承諾して発見してくれたとこまでは良かってんけど……。テキトーな奴やからなんも考えずそのまま声掛けよったんや」


 運は頭を振った。


「あーあー。でも、運たちの常識やと突然影から声したかて変ちゃうからやらはったんやろ?」


「いやぁ。レヴィにしかできん芸当やから他の宇宙世界でも目立つわ。こんな早よ見つけてくれた事には感謝してんねんけどな」


 運は目を閉じて肩を竦めた。


「レヴィの事あんま責めたらんといてな。そもそも俺が記憶喪失なんが悪いねんし」


 祖父は眉を八の字にして俯いた。


「いやいや。記憶喪失にはびっくりしましたけど、べつに葛城竜殿下はなんも悪い事してへんでしょ。体から魂引っペがされて刀に封じ込められたら、俺かて記憶保てる自信無いですわ」


 運は快活に笑った。


「ほんま封印されるなんて、おじいちゃん他所で何して来たん?」


「覚えてへんなぁ……」


 祖父は呆れたように笑った。


「いやいや、悪いのは俺のひいじいちゃんの阿羅漢あらかんやで。昔から竜とか神獣の類で武具造るん好きで、最近ついに葛城竜殿下にまで手ぇ出しよったんや」


「つまり、おじいちゃんって竜なんやんな?ぱっと見人間みたいな姿してるけど」


 僕は運を見た。運は石の敷き詰められた地面を見つめていたが、しばらくして視線が交わった。


「せやで。世界の創造主同士が結婚した場合、両親の霊力が多いせいか生まれてきた子どもは竜になりがちなんや。竜の子は伴侶に関係なく全員竜になるみたいやけどなぁ。葛城竜殿下の場合は前者で、地球と聖・オズバルドってゆう世界の創造主同士の間に生まれた子やから竜になってんやろ」


「えっ……。地球の創造主ってさ、亡くなったってうてたあの創造主やんな?」


 運は二度頷いた。


「葛城竜殿下、地球の創造主のガイア卿とか義姫よしひめって名前に聞き覚えありません?」


 運の言葉を聞いた祖父は一瞬間、頭から冷水でもかけられたような顔をした。それから柄杓を桶の中へ入れ、運を懐かしそうに見つめた。


「福が中で待っとるし上がり。思い出したわ。ただ……ちょっと整理する時間が必要やな」


 祖父は僕と運の前を横切って、玄関の引き戸を開け、壁際に桶を置いた。


「ほな、お邪魔します」


 嬉しそうにする運の隣で僕は靴を脱ぎ、カーペットの上に並べられていたスリッパに履き替えた。


 ◆◇◆


「えらい遅いなぁと思ったら…三人揃って、何してたん?お茶冷めるやん」


 おそらく生温くなったであろう紅茶を指さし、御歳六十五の祖母はお冠だった。ショートボブセンターパートの黒髪が細く引かれた黒のアイラインと調和して祖母の怒りを伝えてくる。


 身長が僕と同じくらいある祖母は相変わらず三十代の人にしか見えなかった。同級生が祖母を僕の母親だと勘違いするのも頷ける。


「堪忍〜。そんな怒らんとってぇ。葛城竜殿下とお喋りしててん」


 運は拝むような姿勢で祖母を見つめた。


「葛城?誰やそれ。はよ手ぇ洗っといで、風邪引くで」


「おばあちゃん絶対そううと思ってもう洗ってきたで」


「まぁ!家主に挨拶する前に……?」


 祖母はたいていこんな調子で、ああ言えばこう言う。


「福ちゃんに風邪うつしたらあかんやろ?せやから真っ先に手ぇ洗ってきてん。せやし、もう挨拶のチューしてええ〜?」


 運はそんな祖母の態度に屈するはずもなく、いつもあらゆる手段を使って悪ノリする。


「あんたほんま自分のこと格好ええと思ってる子やねぇ。外で妬まれて刺されんように気ぃつけや」


 祖母も大抵負けていない。美しすぎる祖父が傍にいても平然と水遣りをさせるような精神力を有しているのだから当然とも言える。


「いつも心配してくれてありがとう〜!福ちゃーん」


 運は屈んで祖母に抱きついた。祖母はそれ以上何も言わず、運の頭を撫でていた。


 ここまでは、だいたいいつも通りだ。おそらく同級生たちが思いもよらないほど、運は祖母に懐いている。


「おばあちゃん、螺髪饅頭らほつまんじゅうもろてもええ?」


 僕はそんな二人を他所に机の上の平皿に盛られた螺髪饅頭を見た。祖母は様々な種類の螺髪饅頭を全種類揃え、何故かそれらを皿の上でドーム型に並べようとする。それは東大寺の毘盧遮那仏の髪型を彷彿とさせる。まさに、螺髪だった。


「いっぱいあるから好きなだけおあがり」


「俺桜餡がいい〜」


 運は僕に桜餡を寄越してから、自分用にもう一つ取った。


 僕は螺髪饅頭が食べられさえするならそれがべつに桜餡である必要は無いのだが、運の心遣いが嬉しいから黙ってそれを口にした。運は自分が一番美味しいと思う物を他者に分け与える事のできるやつで、僕は運のそういった所を尊敬している。


「いただきます」


 螺髪饅頭を一口齧れば、表皮の芳ばしい香りと桜の風味が鼻腔を支配する。かりんとう饅頭の類で沖縄の黒糖を使っているらしい。奈良を愛した志賀直哉に届けたい味わいだ。


「せや、お土産あんねん。しょーもないもんやけど、良かったら食べて」


 運は森奈良漬店と書かれている紙袋を祖母に渡した。


 何事にも言い掛かりを付けたがる祖母も奈良漬であれば文句を言わずに食べる。運はそのことをよく知っているのだ。


「いつもありがとう」


 祖母は素直に微笑んだ。


「べつに気ぃ遣わんでええんやで」


 僕は運が先程まで何も持たずに歩いていたのを見ていたから、お土産がいったいどこから出てきたのかが気になった。


 たった今、壺中天のような所から奈良漬を出したとしか考えられなかったが、祖母の前で聞くべきでないのは確かで、僕はその事について言及しないことに決めた。



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